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腐骨の檻

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肉を焼き、骨を溶かす粘液が、闇の天井から絶え間なく滴り落ちていた。ジュ、と音を立てて泥濘が泡立つ。その湿った暗黒は、死臭というよりも、数千の屍が数十年をかけて発酵したような、鼻を突く酸鼻極まる瘴気に満ちていた。


「腐骨の洞窟」――かつて正道武林同盟が毒の人体実験を行い、不要となった実験体を無造作に遺棄したとされる歴史の闇の底である。普通の武芸者であれば、この洞窟の空気を吸い込むだけで半刻もしないうちに肺が爛れ、肉が骨から剥がれ落ちて死に至るという。まさに生者に対する絶対的な拒絶の檻だった。


 九郎は、その暗黒の裂け目へと自ら這い入っていた。背後から迫る同盟の毒使い・霧羽の執拗な追跡と、その中和薬の脅威を避けるためには、この禁忌の地割れに身を隠す以外に道はなかった。


「がはっ……!」


 九郎の口から、どす黒い血が泥の上に吐き出された。右肩は重兵衛の大斧によって砕かれ、内側から骨の破片が肉を突き破りかけている。引きずる右脚の凍傷は、一歩進むたびに骨の芯を直接凍らせるような激痛を放っていた。さらに最悪なのは右目だった。「赤蠍の液」を体内に注入した強烈な副作用により、右目の視界は完全に灰色に霞み、二重にブレて機能していない。辛うじて光を感じるだけの左目だけで、このおぞましい闇を見据えていた。


 九郎は動かぬ左腕を泥の中に沈め、右腕だけで懐を探った。指先が触れたのは、薬師トメから授けられた、乾燥した「骸の森の腐骨茸」の欠片だった。お千代の厄除け護符のすぐ隣に眠っていたその不気味な紫色の茸を、九郎は躊躇なく口の中へと放り込んだ。


 ――凄まじい、言葉を絶するほどの苦みが口内に広がった。


 それは舌の神経を直接火箸で焼き払うような、酸性と毒性が混ざり合った悶絶を誘う苦みだった。喉の奥が瞬時に焼け付くように熱くなり、鼻腔の粘膜が完全に麻痺していく。トメ直伝の「屍毒中和法」。この茸に含まれる毒素をあえて口内で噛み砕き、その成分を粘膜から直接吸収させることで、一時的に肺の内部に屍毒への強力な保護膜を形成する簡易の医術だった。


 苦みの代償は即座に現れた。九郎の味覚と嗅覚が完全に喪失し、舌が分厚い革の塊になったかのように感覚を失う。だが、それによって洞窟内に漂う屍毒の侵食からは、一時的に肺を護ることに成功した。九郎は口の端から紫色の茸の汁を垂らしながら、さらに暗黒の奥へと脚を引きずった。


 コツ……コツ……。


 不意に、洞窟の最奥から、乾いた骨が擦れ合うような不気味な音が響いてきた。緑色の不気味な燐光が、濡れた岩肌をぼんやりと照らし出す。その光の塊の前に、一人の老人が佇んでいた。


 全身の皮膚が腐敗してボロ布のように垂れ下がり、その隙間から剥き出しの黄色い肋骨が覗いている。男の手には、数頭の獣の頭蓋骨を繋ぎ合わせた不気味な「骸骨の杖」が握られていた。死霊使いの呪術師、腐れ肉の骸造(がいぞう)である。


「く、くく……。珍しい客人じゃな。生きながらにして、これほど美味そうな死臭を漂わせた小僧が、自ら我が檻に飛び込んでくるとは」


 骸造の濁った眼窩が、九郎の不自由な肉体をねめつけた。その声は、墓底から響く風鳴りのように不気味に掠れていた。


「正道の犬どもを殺し尽くした『傷刻の修羅』が、これほどの敗残兵となって這いずり回るとはな。神院の盟主も、罪なことをする。だが、そのお前さんの肉体、我が『毒屍』の最高級の器として、喜んで貰い受けようぞ!」


 骸造が「骸骨の杖」を濡れた岩床に激しく叩きつけた。カツン、と乾いた音が暗闇に響き渡る。その音波が地割れの奥へと伝わった瞬間、周囲の泥濘が激しく蠢き始めた。


 ズブ、ズブズブ……。


 泥の中から、三体の人影がゆっくりと立ち上がった。彼らが纏っているのは、泥に汚れた同盟の制服。それは、九郎がこれまでにこの谷で殺害した、同盟の巡邏兵たちの死体だった。彼らの瞳は白濁し、爪先からは強烈な屍毒を帯びた緑色の霧が立ち上っている。骸造の「毒屍使役術」によって蘇った、痛覚を持たぬ不死の兵士たちだった。


「行けい、我が屍たちよ! その修羅の肉を引き裂き、骨を奪い取れ!」


 骸造の命令と共に、三体の毒屍が、ぎこちなくも恐るべき速度で九郎に向けて突撃を開始した。泥を蹴る足音が、洞窟の壁に不気味に反響する。


(……見えない)


 九郎の右目の霞みは限界に達しており、左目の極小の視野だけでは、不規則に接近してくる三体の死体の正確な距離感を掴みきれない。目で敵を追おうとすれば、右肩の骨折傷の激痛で体軸がブレ、迎撃のタイミングを誤る。


 九郎は静かに、残された左の眼を完全に閉じた。世界が完全な暗黒に包まれる。


 これこそが、盲目の老僧・覚庵から授けられた「心眼修行・無音の法」の極意だった。九郎は自身の内に渦巻く、骨折と凍傷、そして壊死の激痛をすべて脳の痛覚神経へと誘導し、「痛活」のトランス状態を起動した。時間の流れが急激に遅くなっていく。激しい雨音の代わりに、洞窟内を滴る粘液の音、そして毒屍たちの「ぎこちない足音」と「骨が軋む音」が、九郎の脳裏に鮮明な青い波紋となって立体的にマッピングされていった。


(左前方から一体、正面から一体、そして右の死角から一体……!)


 シュッ!


 最初の毒屍が、鋭く尖った爪を九郎の喉元に向けて突き出してきた。爪先から放たれた屍毒の霧が、九郎の右肩の開いた傷口を直接焼き、壊死をさらに進行させようと激しい熱を放つ。九郎は「蛇歩」を始動した。跛行する右脚の摩擦を泥濘に逃がし、地面を滑るように低い姿勢で左側へと滑り込む。


 かわしざま、九郎は右手に握った「錆びた鉄刀の残骸」――先ほどの戦闘で一尺にまで折れ、刃こぼれだらけとなった鉄片を逆手に握り直し、毒屍の首に向けて一閃を放った。


 ズシャッ!


 骨を断つ嫌な感触と共に、毒屍の頭部が泥の中に転がり落ちた。だが、九郎の心臓が不気味に跳ね上がった。頭部を失ったはずの毒屍の胴体が、一切の痛覚を持たぬまま、その両腕を突き出して九郎の壊死した左腕をガッチリと掴んできたのだ。その握力は鋼鉄の万力のようであり、九郎の感覚のない左腕の肉に、腐食した爪が深くめり込んでいく。


「く、くく……! 無駄じゃ、無駄じゃ! 我が毒屍には痛みも恐怖もない! 首を斬られようとも、主の命令を完遂するまで止まることはないのだ!」


 骸造の不気味な高笑いが、洞窟の天井に反響する。九郎の右側の死角から、残る二体の毒屍が、その鋭い爪を九郎の心臓目がけて突き立てようと同時に迫り来る。左腕は死体に拘束され、右腕は骨折により大振りの防御が効かない。絶体絶命の窮地だった。


(死体と真正面から戦えば、こちらの肉体が失血と骨折で自滅する。……ならば、狙うべきはただ一人)


 九郎は、自身の「五色毒経・蠍章」の内力を極限まで活性化させた。「毒素共鳴」の発動。嗅覚と味覚は失われていたが、体内の蠍毒の脈動を通じて、洞窟の奥から発せられている「死霊の気」の正確な座標が、一本の不気味な紫色の糸となって九郎の脳裏に浮かび上がった。その糸の先は、毒屍を操る骸造自身の胸元へと直接繋がっていた。


「……そこだ」


 九郎は、自身の壊死した左腕を掴んでいる死体の腕を、強引に右足の踏み込みで引きちぎった。肉が裂け、黒い包帯が赤く染まる激痛。だが、その激痛こそが九郎の「痛活」をさらに研ぎ澄ませた。九郎の濁った瞳が、瞼の裏側で不気味な赤色へと変色する。


 九郎は「蛇歩」を極限まで歪め、二体の毒屍の爪が自身の脇腹をかすめる中を、地面を這う影のようにすり抜けた。完全に気配を消し去る「無音剣・影断」の歩法。九郎の存在そのものが、おぞましい屍毒の霧の中に完全に溶け込んで消失した。


「な、何!? 奴が消えた……!? どこへ行った!」


 骸造が驚愕し、慌てて「骸骨の杖」を振り回して周囲の闇を払おうとした。だが、その背後の完全な死角から、一本の折れた刃の残骸が、音もなく滑り込んできた。


 ――ズシャッ。


 空気を切り裂く音すら消し去った一閃が、骸造の細い喉笛を正確に横一文字に切り裂いた。九郎の折れかけの刃に纏わりついていた黒紫色の蠍毒が、骸造の傷口から一気に体内へと逆流していく。


「が、はっ……あ、ありえ……ん……」


 骸造は両手で喉を押さえたが、傷口から侵入した強烈な毒素により、彼の腐りかけた皮膚がジジジと音を立てて緑色の液体へと溶解し始めた。骸骨の杖が手元から滑り落ち、岩床に当たって粉々に砕け散る。操り手を失った三体の毒屍たちも、糸の切れた人形のように、泥濘の中へと力なく崩れ落ちていった。


 静寂が、再び洞窟を支配した。


「がはっ、げほっ……!!」


 九郎は膝から崩れ落ち、激しい吐血と共に地面に両手をついた。屍毒中和ハーブの効力が徐々に切れ始めており、中和の代償として肺の内部組織が激しく焼け、呼吸をするたびに血の泡が口元から吹き出す。全身の「疑似魔脈」が暴走寸前で軋んでおり、右腕を動かすことすら困難な、完全な肉体的限界に達していた。九郎は折れた鉄刀の残骸を辛うじて懐に収め、壁を伝いながら、光の射す出口へと這いずり始めた。


 一歩、また一歩。凍傷の右脚を引きずるたびに、冷たい泥が九郎の身体を汚していく。洞窟の入り口から差し込む、微かな灰色の光が見えた。ようやく、この腐骨の檻から脱出できる。


 九郎が、洞窟の外へと一歩を踏み出した、まさにその瞬間だった。


 ヒュッ――。


 冷たい雨を切り裂く、鋭い風切り音が響いた。それは、殺傷力ではなく、標的の「気」を正確に射抜くための、極めて冷徹な「一本の矢」の風音だった。九郎の霞む隻眼が、その矢の軌道を捉えたときには、すでに回避する体力は残されていなかった。


 ドスッ、と重い音がして、九郎の右胸に冷たい風穴が開いた――。

HẾT CHƯƠNG

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