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密告の泥濘

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骨と肉が噛み合うたびに、耳障りな軋み音が脳髄を直接揺さぶる。右肩の関節は、重兵衛の大斧によって鎖骨ごと砕かれ、内側から骨の破片が肉を突き破りかけていた。一歩踏み出すたびに、引きずる右脚の凍傷が凍てつく針となって全身の神経を刺し貫く。それでも、九郎は歩みを止めなかった。


「おい、坊主……しっかりしろ。俺の身体に構わず、自分だけで逃げろ……」


 九郎の肩に担がれた大男、鉄次が、意識を混濁させながら掠れた声を絞り出した。廃坑の有毒ガスを吸い込んだ鉄次の身体は、鉛のように重い。九郎は、動かぬ左腕の代わりに、辛うじて動く右腕一本で鉄次の巨体を支え、激しい土砂降りの雨が降り注ぐ烏鳴谷の暗闇を進んでいた。


 右目の視界は最悪だった。「赤蠍の液」を注入した代償として、世界は灰色の霧に包まれ、あらゆる輪郭が二重にブレて見える。明暗の境界すら曖昧になった網膜に映るのは、ただ湿った泥と、絶え間なく降り注ぐ冷たい雨の筋だけだった。呼吸をするたびに、肺の奥から焼けるような熱さがこみ上げ、口の端から黒い血が泥の中に滴り落ちる。


(まだだ……まだ、俺の復讐は始まってもいない……)


 あの影武者「虚無」を雷同と誤認し、全力を使い果たした己の未熟さへの激しい怒りが、九郎の冷え切った心臓を無理やり脈動させていた。偽物の首をいくら刈り取ろうとも、緋村一族の無念は晴らせない。本物の雷同は、今もどこかで自分を嘲笑っているのだ。


 二人が泥にまみれながら、流刑者のスラム「泥巣」の片隅に佇む居酒屋「烏の羽」の裏口へと辿り着いたのは、深夜の最も暗い刻限だった。九郎が砕けた鉄刀の柄で扉を三回叩くと、音もなく引き戸が開いた。そこから現れたお慶は、九郎の凄惨な姿を目にした瞬間、息を呑んだが、すぐに冷徹な現実主義者の顔に戻った。


「……中に入りな。追っ手の烏が空を回ってるよ」


 お慶は手際よく鉄次を地下の安酒の備蓄庫へと引きずり込み、九郎を薄暗い奥の部屋へと座らせた。部屋には血と薬草、そして腐った泥の匂いが充満している。九郎は壁に背を預け、激しい咳き込みと共に、再び黒い血を畳に吐き出した。


「あんたのその腕……もう限界を超えてるよ」


 お慶が眉をひそめ、九郎の左腕を見つめた。強酸の毒泉によって焼かれ、感覚を完全に失った左腕は、肩口まで不気味な黒紫色に変色し、壊死が四十五分(45%)まで進行していた。九郎は無言のまま、右歯で「壊死抑制の黒包帯」の端を噛み締め、右腕一本で包帯を肉がちぎれるほどの強さできつく巻き直した。薬液が焼けた皮膚を化学的に焼き、脳髄を突き抜ける激痛が走る。だが、その激痛こそが、九郎の「痛活」の呼吸を呼び覚まし、内力の霧散を防ぐ唯一の楔だった。


「……お慶、雷同の居場所は」


「焦るんじゃないよ、坊主。今のあんたの身体じゃ、奴の影を追う前に泥の底に沈むだけさ。まずはその肩を――」


 その時だった。居酒屋の薄い板壁の向こう、ドブ川に面した裏路地から、微かな、しかし尋常ならざる「気配」が九郎の耳に届いた。風を遮る雨音の隙間から滑り込んできた、粘りつくような他者の視線。


 九郎は隻眼を細め、無言でお慶に静止の合図を送った。


 壁の隙間から外を覗き見ると、そこには、異様に大きな耳をピクリと動かしながら、こちらを探っている痩せこけた男の影があった。スラムの最下層に這いつくばる裏切り者、「地獄耳の佐吉」だった。


 佐吉の濁った瞳は、同盟が谷の各所に貼り出した「同盟の追討手配書」の、金千両という文字に完全に狂わされていた。九郎が虚無との戦いで負傷し、お慶の店に逃げ込んだことを、その地獄耳で聞きつけたのだ。佐吉は卑屈な笑みを浮かべ、懐から同盟の「密告用の狼煙筒」を取り出すと、雨の中に身を隠しながら、静かにその場を立ち去ろうとした。


(……密告されたか)


 九郎は立ち上がろうとしたが、右脚の凍傷が激しく軋み、膝が崩れかけた。右肩の骨折傷も、これ以上の激しい運動を拒絶している。今、佐吉を追って外に出れば、周囲に展開している同盟の警戒網に自ら飛び込むことになる。


「お慶、鉄次を連れてここを出ろ」


「坊主、あんたはどうするんだい?」


「奴らの狙いは俺だ。……泥の底へ消える」


 九郎は、お慶から「形見の金貨」を受け取ることなく、折れた鉄刀の残骸(一尺の鉄片)だけを握り締め、居酒屋の裏口から漆黒の雨の中へと滑り出た。彼が「泥巣」の深い泥濘に身を投じたのと、ほぼ同時だった。


 コツ、コツ、コツ――。


 ドブ川の向こうから、冷たい地面を叩く、規則正しい竹杖の音が響いてきた。そして、フゴ、フゴ、と空気中の匂いを異常な執念で嗅ぎ回る、不気味な呼吸音。土砂降りの雨の中、両目を汚れた白い布で厳重に覆った細身の男――同盟の特殊捜索官「影目(かげめ)」が、ゆっくりと泥巣のスラムへと足を踏み入れてきた。


 影目の背後には、赤く発光する眼を持った巨大な追跡猟犬が、低く唸り声を上げながら付き従っている。犬の鼻先は、九郎が流した新鮮な血の匂い、そして虚無の死体から立ち上っていた甘い追跡用マーカーの匂いを、正確に捉えていた。


「……ふぅむ、甘い匂いだ。修羅の血の匂いが、このドブ川の悪臭の中に微かに混ざり合っているな」


 影目は不気味に鼻を鳴らし、竹杖で地面の泥を叩きながら歩みを進める。その方向は、九郎が先ほどまでいた居酒屋「烏の羽」、そして今まさに九郎が身を潜めている泥濘の窪地へと正確に向かっていた。


(音と匂い……通常の隠密術では、奴の目を欺くことはできない)


 九郎は、泥濘の底に横たわりながら、冷徹に思考を巡らせた。右目の視界は灰色に霞み、敵の姿は不鮮明な影にしか見えない。右腕の骨折は深刻で、正面から戦えば一撃で肉体が崩壊する。勝機は、敵の探知範囲から完全に「消失」すること以外に存在しなかった。


 九郎は、泥翁から伝授された禁忌のサバイバル技術「泥隠れの術」を発動した。彼は動かぬ左腕を泥の中に沈め、辛うじて動く右手で、周囲の腐敗したドブ泥を自身の全身に塗りたくり始めた。顔面、首筋、開いた右肩の傷口、そして壊死した左腕の包帯の上まで、冷たく、激しい悪臭を放つ黒泥で完全に覆い尽くしていく。


「ぐ、う……っ……」


 冷たい泥が傷口に侵入し、激しい化膿の苦痛が九郎の脳髄を灼く。体温が急速に低下し、全身の筋肉が硬直していく。体温の低下は、内力の循環を止め、「童子傷功」の自己崩壊(即死)を招く危険な諸刃の剣だった。九郎は「痛覚反転」の呼吸を極限まで遅くし、心拍数を死人のレベルまで低下させることで、体温の放出と血の匂いを物理的に封じ込めた。激痛と極寒の狭間で、彼の精神は、完全な「無」のトランス状態へと沈み込んでいった。


 ガルルル……。


 猟犬の不気味な唸り声が、九郎のすぐ耳元で響いた。犬の鋭い爪が、九郎の頭部からわずか数寸の泥を激しく撥ね上げる。ドブ泥の強烈な腐敗臭と、九郎が施した泥のコーティングが、犬の嗅覚を激しく混乱させていた。犬は不満そうに鼻を鳴らし、周囲の泥を嗅ぎ回っている。


 コツ、コツ、コツ。


 影目の竹杖が、九郎の顔面のすぐ横の泥濘へと突き刺さった。泥が弾け、九郎の頬に冷たい衝撃が走る。影目は立ち止まり、目を覆う白い布の奥から、見えない視線を九郎の真上へと向けた。


「おかしいな……血の匂いが、ここで唐突に消えている。泥の底にでも潜ったか?」


 影目は不敵に微笑み、竹杖をさらに深く泥の中に突き立てようとした。九郎は息を完全に止め、泥の中で「錆びた鉄刀」の残骸(一尺の鉄片)を握り締めた。もし、杖が自身の肉体に触れれば、その瞬間に不自由な右腕一本で影目の喉笛を貫くしかない。一瞬の静寂。雨音だけが、世界のすべてを支配していた。


 しかし、影目はそれ以上杖を突き刺すことなく、ふっと鼻を鳴らした。


「まあよい。このスラム一帯はすでに我が同盟の網の中だ。逃げ場などどこにもない。……行くぞ、猟犬」


 影目が竹杖を引き抜き、ゆっくりと居酒屋「烏の羽」の方向へと歩み去っていく。猟犬もその後を追い、九郎の頭上から気配が遠ざかっていった。泥の中で、九郎は辛うじて死線を越えたことを悟り、微かな呼吸を再開した。


 だが、安堵の時間は一瞬すら与えられなかった。九郎の体内に宿る「擬似魔脈」が、周囲の空気に含まれる、ある「異質な波動」を敏感に感知した。毒素共鳴の覚醒。


 影目が去っていく泥濘の暗闇の奥、雨に濡れた家屋の影に、もう一つの人影が静かに佇んでいた。その影からは、ドブ川の悪臭を完全に打ち消すような、不自然に甘く、冷徹な「薬物の香り」が漂ってきている。


 人影は、闇の中で不気味な笑みを浮かべ、九郎が潜む泥濘の窪地をじっと見つめていた。その手には、九郎の「傷と毒」の特性を完全に無効化するための、特殊な中和剤が装填された弩(おおゆみ)が握られていた――。

HẾT CHƯƠNG

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