虚妄の残影
極低温の氷水が湧き出る「赤蠍の巣」の最深部。鍾乳洞の天井から滴り落ちる冷たい水滴が、九郎の頬を濡らしていた。しかし、その冷たさを感じる皮膚のすぐ下では、今まさに「赤蠍の液」が猛烈な熱を放ちながら全身を駆け巡っている。壊れた経脈の代わりに、猛毒を内力の伝達媒体とする禁忌のバイパス――第二層「毒脈(どくみゃく)」の形成。それは、九郎の肉体を内側から造り直す、地獄の如き肉体改造の儀式であった。
「が、は……っ……!」
九郎の喉から、どす黒い血の塊が吐き出される。疑似魔脈が形成される急激な負荷に、全身の筋肉は鋼鉄のように硬直していた。指先一つ、動かすことができない。完全な無防備。その極限の虚脱状態の中、彼の霞む隻眼の前に、一人の男が立ちはだかっていた。
その体躯、その立ち姿、そして何よりも、腰に差された刀の柄の握り方――。
(……雷同……!)
九郎の胸の奥で、氷のように冷たい怒りが一気に沸騰した。かつて緋村道場を裏切り、師であり父であった一真を殺害し、自身の経脈を断ち切った張本人。一族三十人の血を吸った名刀「鬼切」を神院清純から賜り、今や同盟の追討隊長として君臨する裏切り者の兄弟子。その雷同が、今、目の前にいる。
だが、男は何も語らない。ただ、冷酷な鉄の仮面の奥から、死人を思わせる無機質な視線を九郎に向けているだけだった。男がゆっくりと右手を柄にかけ、刀を引き抜く。キィン、と鍾乳洞に響き渡る鋭い金属音。それは、本物の「鬼切」と寸分違わぬ風気を帯びた「偽烈風」の刃だった。
この男は、本物の雷同ではない。同盟が九郎を確実に抹殺するために放った、雷同の剣技を完璧に模倣する影武者「虚無(きょむ)」である。だが、右目の視界が半分以上灰色に霞み、二重三重にブレて見える九郎には、その真実を見抜く術はなかった。ただ、目の前の宿敵への憎悪だけが、彼の壊れかけた脳を支配していた。
「死ね、大逆人」
虚無の身体がブレた。次の瞬間、雷同と全く同じ「天照神剣」の鋭い一撃が、九郎の脳天目がけて振り下ろされた。風を切り裂き、白銀の閃光が暗闇を走る。
(動け……動け、我が肉体……!)
九郎は心の中で絶叫した。しかし、疑似魔脈の硬直は容易には解けない。刃が鼻先に迫る。九郎は強引に右肩の骨折した関節を内側から軋ませ、その凄まじい「激痛」を脳に叩き込んだ。痛みをエネルギーに変換する「痛活」の呼吸。激痛が走った瞬間、全身の麻痺が強引に解除された。
九郎は泥濘の上を転がるようにして、虚無の最初の一撃を紙一重でかわした。彼が先ほどまで倒れていた床の岩盤が、虚無の刃によって一刀両断され、激しい火花が散る。
九郎は転がりざま、床に落ちていた「錆びた鉄刀」の残骸――先ほどの重兵衛との死闘で半ばから粉々に砕け散り、手元に残されたわずか一尺ほどの鋭利な鉄片を右手で掴み取った。武器と呼ぶにはあまりにも短く、刃こぼれだらけの鉄の残骸。だが、今の九郎にはこれしかなかった。
「……おおおおおッ!」
九郎は引きずる右脚を無理やり踏み込み、低い姿勢から滑り込むようにして虚無の懐へと「蛇歩」で肉薄した。折れた鉄刀の残骸を逆手に握り、虚無の脇腹に向けて突きを放つ。
しかし、右目の視界が激しくブレていた。距離感を完全に見誤った九郎の突きは、虚無の衣服をかすめるに留まり、空振りを誘発された。体勢を崩した九郎の死角を、虚無は見逃さない。
「天照神剣・二連・陽炎」
虚無の「偽烈風」が、残像を伴う超高速の連続突きとなって九郎を襲う。シュ、シュ、シュ、と空気を穿つ音が響くたび、九郎の灰色の野良着が切り裂かれ、その下の肉に新たな「傷刻」が深く刻まれていく。右脇腹、胸元、そして太もも。肉が裂け、黒い血が噴き出すたびに、九郎の失血量は急激に増加していく。
(見えない……奴の刃の軌道が、完全に二重にブレてやがる……!)
右目の霞みはさらに深まり、もはや虚無の姿は灰色の影にしか見えなかった。視覚情報が完全に信用できない。目で敵を追おうとすればするほど、深追いになり、さらに深い傷を負うだけだった。
「――ならば、眼など不要だ」
九郎は隻眼を完全に閉じた。世界が完全な暗黒に包まれる。懐には、お千代から手渡された「お千代の厄除け護符」が静かに眠っているが、それはまだ発動しない。
全神経を「聴覚」と「皮膚の感覚」へと集中させる。「心眼修行・無音の法」のトランス状態。時間の流れが、急激に遅くなっていく。鍾乳洞を流れる冷たい風の揺らぎ、滴り落ちる水滴の音、そして――虚無が放つ、皮膚を刺すような冷徹な「殺意」の波動。それらが、九郎の脳裏に、鮮やかな一本の「赤い死線」となって立体的にマッピングされていった。
虚無が大きく地を蹴った。決定的な一撃。雷同の得意技である、上空からの脳天唐竹割り。偽烈風の刃が、九郎の脳天を物理的に叩き潰さんと、凄まじい風圧を伴って降り下ろされる。
九郎は、避けない。あえて、その死線の軌道上に自身の身体を置いた。
「――そこだ」
ズグゥッ!!!
嫌な肉の裂ける音が響き渡った。虚無の刃は、九郎の頭部を外れ、すでに骨折していた彼の右肩の傷口へと深く突き刺さった。鎖骨を削り、肉の深部へと刃がめり込む。凄まじい衝撃が九郎の全身を震わせ、骨が軋む音が暗闇に響く。常人であれば、その痛みのあまりショック死するレベルの致命傷。
だが、九郎の口元は、血塗られた笑みを描いていた。彼は右肩の筋肉を強引に収縮させ、貫かれた刃を自身の骨で挟み込み、固定した。虚無の「偽烈風」は、九郎の肉体という強固な鞘に囚われ、引き抜くことができなくなった。
「なっ……!?」
虚無の鉄の仮面の奥から、初めて動揺の吐息が漏れた。その一瞬の硬直を、九郎は逃さなかった。体内に滞留していた蠍毒と激痛が、右肩の直撃によって極限の爆発的な内力へと変換される。黒紫色の闘気が、九郎の全身から津波のように吹き出した。
「逆流斬(ぎゃくりゅうざん)――!!」
九郎は右手に持った折れた鉄刀の残骸に、そのすべての暴走エネルギーを流し込んだ。黒紫色の光を放つ鉄片が、至近距離から虚無の胴体に向けて、下から斜め上へと一閃された。
ズシャァァァァッ!!!
内力の衝撃波が虚無の肉体を内側から粉砕し、彼の胸から肩にかけてを斜めに両断した。凄まじい血飛沫が鍾乳洞の壁を赤く染め、虚無の身体は糸の切れた人形のように地面へと崩れ落ちた。偽烈風の刃が九郎の右肩から抜け落ち、床にカランと冷たい音を立てて転がる。
「はぁ、はぁ……がはっ……!」
九郎は激しく咳き込み、床に膝をついた。右肩からは再び大量の血が流れ出し、視界はさらに暗く、灰色に染まっていく。「赤蠍の液」を注入した代償。彼の右目の光は、この死闘を経て、さらに失われてしまった。寿命を削り、肉体を削り取って勝ち取った、宿敵の死。
九郎は這うようにして、ピクリとも動かなくなった虚無の死体へと近づいた。憎き雷同の顔を、その目に焼き付けるために。彼は震える右手で、男の鉄の仮面を強引に引き剥がした。
「……っ、あ……?」
九郎の隻眼が見開かれた。仮面の下から現れたのは、雷同の顔ではなかった。それは、見覚えのない、ただの若い男の顔だった。感情を奪われ、人形のように仕立て上げられた、同盟の無名な捨て駒。九郎がすべての命を削って倒した相手は、本物の雷同ではなく、ただの「虚妄の残影」に過ぎなかったのだ。
「雷同……どこだ……どこにいる……!」
九郎の絶叫が、鍾乳洞の暗闇に虚しく反響する。一族の仇を討てたという歓喜は、一瞬にして深い絶望と虚無感へと塗り替えられた。自身の肉体はさらにボロボロになり、視力も失われたというのに、真の仇には指一本触れることすらできていない。
その時だった。虚無の死体から流れ出た血から、不自然に甘く、鼻を突くような特殊な薬物の匂いが立ち上り始めた。同盟の追跡用マーカーの匂い。
しん、と静まり返った鍾乳洞の入り口から、冷たい雨音に混ざって、不気味な音が響いてきた。
コツ、コツ、コツ……。
それは、濡れた地面を叩く、一本の竹杖の音だった。そして、フゴ、フゴ、と空気中の匂いを異常な執念で嗅ぎ回る、獣のような不気味な呼吸音。九郎の血の匂い、そして虚無の死体の甘い匂いを目がけて、何かが確実に近づいてきている。
音と匂いだけで標的をどこまでも追い詰める同盟の特殊捜索官、盲目の追跡者「影目(かげめ)」の不気味な気配が、鍾乳洞の入り口を完全に塞ぐようにして迫りつつあった――。
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