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赤き蠍の目覚め

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「ぐ、うおあァァァッ!」


 鍾乳洞の極寒の空気の中に、骨が断たれ、肉が削ぎ落とされる生々しい音が響き渡った。


 正道武林同盟の番人、鉄甲の重兵衛が放った巨大な大斧が、緋村九郎の右肩に深く喰い込んでいる。大斧の冷たい鉄刃が鎖骨を削り、肺腑のすぐ上まで達していた。傷口から噴き出す鮮血は、極低温の洞窟の床に滴り落ちる前に、九郎の身体から立ち上る異常な熱気によって、じゅわりと赤い蒸気へと変わっていく。


 凄まじい衝撃。だが、九郎の口元には、狂気じみた笑みが浮かんでいた。濁った灰色の瞳が、瞼の奥で不気味な赤色へと発光する。


「な、何だと……!? なぜ避けぬ!」


 重兵衛の兜の奥の目が、驚愕に大きく見開かれた。いかなる強者であっても、死を恐れて身をかわすのが道理。しかし、この目の前の敗残兵は、自ら大斧の軌道上に右肩を差し出したのだ。


 重兵衛は本能的な恐怖に駆られ、九郎の肉体に深く突き刺さった大斧を引き抜こうとした。丸太のような両腕に力を込め、強引に柄を引く。


 だが、動かない。


「……逃がす、か」


 九郎は低く、地鳴りのような声で呟いた。彼は右肩の筋肉を極限まで収縮させ、割れた骨の隙間で大斧の刃を物理的に挟み込み、固定していたのだ。肉を肉で斬らせ、大斧を「鞘」として利用する。これこそが、九郎が己の限界を超えて重兵衛を葬るために仕掛けた、唯一の死線の罠だった。


「童子傷功・初伝」――「痛活(つうかつ)」の呼吸が、九郎の体内で爆発的に回転を始める。


 右肩を苛む地獄の激痛、万毒の泉の強酸で四割五分まで壊死した左腕の灼熱、そして一酸化炭素で焼かれた肺の息苦しさ。全身を支配するすべての「苦痛」が、脳内の痛覚神経をバイパスし、純粋な内力の奔流へと強制変換されていく。枯渇していたはずの経脈に、かつてない不気味な黒紫色の闘気が満ち満ちていく。


 九郎は、死守していた「錆びた鉄刀」の柄を、血塗られた右手で逆手に握り直した。刀身には、これまでの激闘で入った致命的な亀裂が、今にも砕け散りそうなほどに深く走っている。この一撃で、すべてを終わらせる。


「うおおおッ! 離れろ、この怪物が!」


 重兵衛は叫び、左腕に固定された極厚の鋼鉄大盾「鉄甲の重兵衛の大盾」を、九郎の顔面に向けて叩きつけようとした。絶対の防壁による、至近距離からの圧殺。大盾の冷たい金属面が、九郎の隻眼の目の前に迫る。


 その瞬間、九郎の右腕が動いた。


「逆流斬(ぎゃくりゅうざん)――!!」


 九郎の右肩の傷口から、血飛沫が爆発的に吹き出した。その血は、錆びた鉄刀の刃にまとわりつき、黒紫色の狂暴な闘気を帯びた巨大な刃へと膨れ上がる。重兵衛が放った大斧の衝撃、その質量エネルギーのすべてを、九郎は自身の肉体を通じて反発力へと変換し、折れかけの刀身に伝導させた。


 暗黒の鍾乳洞が、黒紫色の閃光によって一瞬にして白銀に染まった。九郎が振り下ろした一刀は、重兵衛が誇る絶対の防壁、黒鉄街の鋳造所で鍛え上げられた漆黒の大盾の最も強固な中央部分へと直撃した。


 キィィィィィィン――!!!


 鼓膜を破壊するような、高音の金属摩擦音が洞窟内に反響した。次の瞬間、大盾の分子構造が、逆流した内力の凄まじい振動によって内側から崩壊を始めた。鋼鉄の盾に無数のひび割れが走り、ガラスのように粉々に砕け散る。


「ば、馬鹿な……我が盾が……!」


 重兵衛の絶叫は、黒紫色の刃の軌跡によって遮られた。大盾を粉砕した九郎の斬撃は、そのまま重兵衛の頑強な鋼鉄甲冑を、そしてその八尺の巨体を、横一文字に真っ二つへと両断した。


 どさ、と。上下に泣き別れた重兵衛の肉体が、泥濘の床へと崩れ落ちる。鎧の隙間から溢れ出た血が、鍾乳洞の冷たい水と混ざり合い、赤黒い川となって流れていった。


「がはっ……!!」


 九郎の口から、大量の黒い血が噴き出した。膝の力が抜け、その場に激しく崩れ落ちる。右肩の傷口からは、未だに血がドクドクと流れ続けており、意識が急速に遠のいていく。錆びた鉄刀は、重兵衛を両断した衝撃に耐えきれず、刀身が半ばから粉々に砕け散り、手元には柄とわずかな根元しか残されていなかった。


(まだだ……ここで、倒れるわけにはいかない……)


 お慶に預けた「緋村道場の形見の金貨」の重みを思い出す。道場を焼き払われ、一族三十人を皆殺しにされたあの夜の炎。神院清純の、慈悲深い仏のような偽善の笑顔。それを引き裂くまでは、この泥濘の底で死ぬことすら許されない。


 九郎は壊死した左腕を泥に引きずりながら、這うようにして重兵衛の死体を乗り越えた。目指すは、鍾乳洞の最深部。「赤蠍の巣」の奥底である。


 そこは、極低温の地下水が湧き出る、日光の届かない氷の世界だった。周囲の岩壁には、体長一尺に達する猛毒の「赤蠍」が、無数に群れをなして蠢いている。彼らは侵入者である九郎の血の匂いに反応し、尾の毒針を鋭く突き立てようと一斉に這い寄ってきた。


 普通の人間の肉体であれば、一刺しで全身が麻痺し、数息の間に呼吸が停止する。だが、九郎の肉体は、すでに源周の毒実験によって、常軌を逸した毒素耐性を得ていた。


「……来い」


 九郎は無言で、群れの中で最も巨大な、血のように赤い輝きを放つ赤蠍の王へと右手を伸ばした。赤蠍は威嚇するように鋏を鳴らし、九郎の右手のひらに向けて、その鋭い毒針を突き立てた。


 ジュウウ、と九郎の皮膚が紫色の煙を上げ、激しい熱痛が右腕を駆け巡る。だが、九郎はその赤蠍を強引に掴み取ると、その尾を引きちぎり、毒腺から滴り落ちる極上の「赤蠍の液」を、自身の剥き出しの首筋の経穴へと直接突き刺した。


「ぐ、あああああああああああああッ!!!」


 鍾乳洞の天井が崩落するかのような、九郎の絶叫が響き渡った。


 体内に注入された「赤蠍の液」は、氷のように冷たく、同時に火の海のように熱かった。九郎の体内に滞留していた蠍毒と、百足の毒、そして万毒の泉の酸が、首筋から侵入した新たな奇毒と衝突し、化学的な大暴走を引き起こしたのだ。


 首筋から左腕、そして胸口にかけて、皮膚の下を紫色の血管のようなネットワークが、蠢く蛇のように急速に広がり始めた。壊れた経脈の代わりに、奇毒の毒素が内力の伝達媒介となる疑似経脈――第二層「毒脈(どくみゃく)」が、今、九郎の肉体の中で産声を上げたのだ。


 九郎の右肩の出血が、嘘のようにピタリと止まった。全身の痛覚が一時的に完全に遮断され、驚異的な身体能力が肉体に戻ってくる。寿命は一時的に三年繋ぎ止められた。源周が言った「童子傷功」の、これが第二段階の力だった。


 しかし、その救済と同時に、残酷な「代償」が九郎を襲った。


「……っ、あ……」


 九郎は自身の右目を手で覆った。視界が、急激に暗転していく。まるで、目の前に黒い霧が立ち込めたかのように、光が失われていくのだ。かろうじて光が戻ったとき、九郎の右目の視界は、以前の半分以下の灰色にまで減退していた。輪郭すらも霞み、すべてが二重、三重にブレて見える。


「赤蠍の液」の真の副作用――痛みを遮断する代償として、五感、特に「視覚」を徐々に、かつ確実に奪い去っていく残酷な宿命。九郎が復讐を遂げる頃には、彼は完全な盲目となることが決定づけられた瞬間だった。


 九郎は、自身の失われゆく光の価値を嘲笑うかのように、冷たく微笑んだ。視界など、神院の喉笛を掻き切る瞬間に、敵の殺気さえ捉えられればそれでいい。


 九郎は立ち上がろうとした。だが、疑似魔脈の形成に伴う急激な肉体変化により、全身の筋肉が激しく硬直しており、指一本動かすことができない。完全な虚脱状態。今の九郎は、赤子ですら殺せるほどに無防備だった。


 その静寂の中、鍾乳洞の入り口から、冷たい雨の音に混ざって、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。


 ザッ、ザッ、ザッ……。


 足音は規則正しく、一切の迷いがない。九郎の霞む左目の視界の奥、鍾乳洞の入り口の光の中に、一人の男のシルエットが浮かび上がった。


 その体格、その立ち姿、そして腰に差された刀の柄の握り方――。


(……雷同……!?)


 九郎の胸の奥で、冷たい怒りが一気に沸騰した。かつて緋村道場を裏切り、師・一真を殺害し、自身の経脈を断ち切った張本人。裏切り者の兄弟子、雷同の姿がそこにあった。


 しかし、何かがおかしい。男は無言のまま、冷酷な仮面のような表情で九郎を見下ろしている。その背後には、正道武林同盟の精鋭たちが、抜き身の刃を掲げて整然と並んでいた。


 それは、本物の雷同ではなかった。雷同と全く同じ体格、同じ剣技を持つように訓練された影武者「虚無(きょむ)」が、九郎を絶望の罠へと誘い込むために、同盟の追討隊を率いて現れたのだ。


 動かぬ肉体、霞む視界。その絶体絶命の窮地の中、影武者・虚無が、ゆっくりと「偽烈風」の刃を九郎に向けて引き抜いた――。

HẾT CHƯƠNG

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