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泥濘に這う亡霊

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冷たい雨が、容赦なく肉体を叩いていた。


「烏鳴谷(うめいだに)」――流刑者と日雇い武芸者の墓場と呼ばれるその辺境の谷は、年中、重苦しい毒霧と泥濘に覆われている。腐った落葉と鉄分を含んだ泥水が混ざり合い、鼻を突く不快な臭気を放っていた。


緋村九郎(ひむらくろう)は、その底なしの泥の中に半ば埋もれていた。かつて「正道武林同盟」の若き天才剣士と謳われた面影は、今の彼には微塵もない。ボロボロに裂けた灰色の野良着は泥にまみれ、骨張った体躯は餓死寸前の野良犬のように痩せこけている。何より、彼の左腕は不気味に変色し、だらりと力なく垂れ下がっていた。かつての兄弟子にして裏切り者である「雷同(らいどう)」に急襲され、経脈を完全に壊死させられた痕跡だった。


「……清純……」


九郎の割れた唇から、乾いた呻きが漏れる。神院清純(かみいんせいじゅん)。武林同盟の盟主であり、慈悲深い聖人面をしたあの男こそが、九郎の師・一真(かずま)を殺害し、緋村一族三十人を皆殺しにした張本人だ。九郎からすべてを奪い、経脈をズタズタに断裂してこの地獄へ遺棄した黒幕。


動かぬ身体を這わせ、泥水を啜りながら生き延びようとする九郎の前に、一対の古びた草履が現れた。視線を上げると、そこには猫背で痩せこけた老人が立っていた。指先が毒草の汁で黒く染まったその老人こそ、谷の廃寺に棲む偏屈な毒医、源周(げんしゅう)だった。


「ほう、まだ息があるか。経脈をここまで綺麗に引き裂かれて生きているとは、執念深い泥鰌(どじょう)だな」


源周は濁った瞳で九郎を見下ろし、耳障りな声で笑った。それが、九郎が地獄の淵から生還する最初の奇縁だった。


――数日後。烏鳴谷の北端に位置する、荒れ果てた古い寺院。

雨漏りの音が静かに響く廃寺の奥、源周の薬草庵には、血と乾燥した薬草、そして不気味な毒虫の匂いが充満していた。壁一面には毒蛇の皮や乾燥した百足が吊るされ、中央には怪しげな薬湯が黒い湯気を立てている。


九郎は木製の寝台の上に横たわっていた。全身の経脈が断裂した「経脈断絶(けいみゃくだんぜつ)」の状態。内力を練ろうと呼吸を整えるだけで、壊れた経脈の壁から気が霧散し、全身の血管が内出血を起こして激しい吐血に襲われる。ただ横たわっているだけでも、命の灯火が消えかけているのが分かった。


「お前さんの身体は、ひび割れた竹筒と同じだ」


源周は、不気味に発光する「七彩銀針」を指先に弄びながら言った。


「普通の武芸者のように内力を循環させようとすれば、その圧力で身体が内側から弾け飛ぶ。生き延びる道は一つしかない。ひび割れた竹筒を塞ぐのではなく、あえてその『ひび割れ』そのものを気の通り道として利用するのだ。それが、我が禁忌の武功――『童子傷功(どうじしょうこう)』よ」


「……傷を……力に変える、だと?」


九郎は掠れた声で問い返した。


「そうだ。だが、それは生ぬるい治療ではない。傷口に内力を滞留させ、痛みと失血をエネルギーに変換する。つまり、お前さんは一生、その致命傷を維持し続けなければならん。傷が治癒すれば、体内に滞留した気が暴走して即死する。常に痛みにのた打ち回り、寿命を削りながら戦う修羅の道だ。どうする、このまま泥の中で大人しく死ぬか?」


九郎は、濁った灰色の瞳に冷徹な怒りの炎を宿らせた。迷いはなかった。一族の無念、師の仇、神院清純の偽善に満ちた笑顔――それを引き裂くことができるなら、肉体が泥に塗れようとも構わない。


「……やれ。その、修羅の力を、俺に……」


「くくく、気に入ったよ。お前さんのその汚い眼がな」


源周は邪悪に微笑むと、九郎の断絶した経穴に向けて、容赦なく銀針を突き刺した。


「ぐ、あ、あ、あああああああッ!!」


脳天を突き抜けるような、白熱した激痛が九郎の全身を駆け巡った。源周が刺したのは、痛覚を強制的に数十倍に活性化させる毒針だった。壊死しかけた左腕の肉が、内側から沸騰するような熱さに灼かれる。体内で暴走を始めた内力が、行き場を失って破壊された経脈の壁を突き破ろうと暴れ狂う。


「息を吐け! 肺を収縮させ、痛みを拒むな! 痛みと同調しろ!」


源周の罵声が響く。九郎は必死に「痛覚反転呼吸法」の初歩を試みようとした。しかし、内力の奔流は制御不能で、気管が焼け付くような感覚と共に、大量の黒い血を床に吐き散らした。意識が急速に遠のいていく。暗闇の向こうから、あの皆殺しの夜の幻影が這い上がってきた。背後から斬殺された母・千代乃の最期の叫び。井戸に投げ込まれた幼い弟・小太郎の泣き声。そして、逆賊の汚名を着せられ、堂々と処刑台に立った師・一真の無念の背中。


(ここで、死ねるか……!)


九郎は心の中で吼えた。絶望と悲哀を、純粋な「怒り」の燃料へと変える。暴走する内力を、無理やり心臓の周囲に繋ぎ止めた。逃げようとする気を、あえて全身の剥き出しの傷口へと誘導する。経脈ではなく、引き裂かれた肉の割れ目に、気の奔流を滞留させるのだ。


激痛が「快感」と「極限の集中力」へと反転していく奇妙な感覚。時間の流れが極端に遅く感じられ、雨漏りの一滴が床に落ちる瞬間が、ありありと見えた。


「おお……やりおったか」


源周の驚嘆の声が聞こえた。


九郎の全身の傷口から、微かに黒赤い霧のような闘気が立ち上り始めていた。壊れた肉体を強引に駆動させる仮のバイパス――童子傷功・第一層「傷起(しょうき)」の境界が、今、九郎の体内に強固に確立された瞬間だった。九郎は静かに上体を起こした。左腕は相変わらず黒く壊死しているが、右腕には、かつてない不気味な力が満ちているのを感じた。


しかし、余韻に浸る時間は与えられなかった。


廃寺の周囲、激しい雨音に混ざって、泥を踏みしめる不気味な足音が近づいてくる。殺気。それも、正道武林同盟の末端巡邏兵たちが放つ、冷酷な狩人の気配だった。隠れ家のすぐ外まで、敵の包囲網が迫っていた。

HẾT CHƯƠNG

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