関門の死の迷宮
暴風が吼え、鉄が唸る。
天魔山の東門、その峻険な絶壁に挟まれた峡谷に、耳を聾する風切り音が鳴り響いていた。正道連盟の先鋒将、「剛腕の金剛」が頭上で猛烈に振り回すのは、重量数百キロを超えるトゲ付きの黒鉄球『破山』である。その鉄球が巻き起こす凄まじい風圧は、関門の防壁を物理的に震わせ、防衛に当たる牛頭の魔兵たちの心を恐怖で凍りつかせていた。
「がははは! 天魔覇王夜叉、その仮面ごと叩き潰してやる!」
金剛の咆哮が地を揺らす。彼の全身には「金剛不壊神功」の気迫が満ち、その皮膚は鈍い鋼鉄の色へと変化していた。いかなる刀剣も通さぬ絶対の肉体。金剛は大地を蹴り、弾丸のごとき速度で関門へと突撃を開始した。
物見櫓の最上階。手すりに手をかけ、眼下の敵を見下ろす風間玲央の喉は、燃えるような熱に侵されていた。声を偽装する『変声丹』の毒性と、先ほど胃に流し込んだ胃粘膜保護薬が、彼の五臓六腑を内側から焼き苛んでいる。呼吸をするたびに、鉄の味が喉元までせり上がってくる。
(……だが、ここで僕が揺らぐことは許されない)
玲央は『不動心』の瞑想を極限まで稼働させ、肉体的な激痛を脳の最深部に封じ込めた。鉄仮面の奥の双眸は、ただ冷徹に金剛の動きを観察している。
玲央の網膜の上に、『絶対予測』の数式が展開されていく。金剛の足首の沈み込み、太腿の筋肉の緊張、そして鉄球を繋ぐ鎖の描く軌道。それらすべての予備動作から、一秒後に鉄球が関門の鉄門の「どの位置」に叩きつけられるかが、一本の青い光の線となって脳内に描き出された。
(狙いは鉄門の右側、蝶番の結合部。突撃の歩幅は三歩半。……今だ)
金剛が最後の一歩を踏み込み、鉄球を全力で振り下ろした瞬間、玲央は物見櫓の床に隠された、百地三太夫特製の真鍮製スライドスイッチを、自身の足で静かに踏み抜いた。
*ガシャリ――!*
地中で、重い鉛の遮蔽板が滑り落ちる物理的な金属音が響いた。それと同時に、峡谷の地盤の下に埋設された巨大な『超強力吸着磁石』が、その牙を剥いた。
凄まじい不可視の引力が、大気をも歪めるようにして峡谷全体に吹き荒れる。金剛が渾身の力を込めて振り下ろした黒鉄球『破山』が、鉄門に激突する寸前、不自然な角度で急激に軌道を下方に変えた。
「ぬおっ!?」
金剛が驚愕の声を上げる。数百キロの黒鉄の塊は、まるで大地の底に潜む目に見えない怪物の口に吸い込まれるように、垂直に地面へと引きずり落とされたのだ。
*ドガァァァン――!!!*
激しい衝突音が響き渡り、地中深くの磁石板に鉄球が完全に吸着した。トゲ付きの鉄球は、大地の石床にめり込んだまま、一ミリたりとも動かなくなる。超強力な磁力は、鉄球の重量を物理的に数十倍、いや数百倍の質量へと変貌させていた。
「な、何事だ!? 破山が……動かん!?」
金剛は野生動物のような狼狽を浮かべ、両腕に「金剛不壊」の内力を込めて鎖を引き抜こうとした。だが、彼の超人的な怪力をもってしても、西域の希少な磁鉄鉱が放つ絶対的な引力の前には無力だった。引力は鎖を通じて金剛の頑強な肉体をも引きずり下ろし、彼の巨大な体躯はバランスを崩して前方に激しく転倒した。鋼鉄化された彼の顔面が、硬い石床に激しく叩きつけられ、鼻骨が砕ける鈍い音が響く。
「う、うおおお! 我が武器が、大地に喰われた!? いかなる妖術だ、これは!」
金剛が鼻から血を流しながら絶叫する。その姿は、先ほどまでの無敵の将の威厳など微塵もない、ただの恐怖に駆られた獣だった。
正道軍の兵士たちがその異様な光景に足を止めた瞬間、玲央は次なる引き金を引いた。物見櫓の柱に仕込まれた第二のレバーを引くと、峡谷の岩壁の間に張り巡らされた百地三太夫の自動からくり『千頭蛇(せんとうだ)』が一斉に起動した。
*シュシュシュシュシュ――!*
暗闇を切り裂き、光を一切反射しない黒い極細の鋼糸と、無数の鉄針が岩肌の隙間から射出された。それはまるで、無数の黒い蛇が獲物に襲いかかるかのような、技術的精密さの極致だった。鋼糸は峡谷を埋め尽くす正道軍の兵士たちの脚や甲冑の隙間に絡みつき、一歩動くたびに肉を裂く死の網を形成していく。退路は物理的に遮断されたのだ。
玲央は『特殊拡音筒』の吹き口に口元を近づけ、変声丹によって焼け爛れた喉を極限まで震わせた。地脈の振動と同調した重低音が、峡谷全体に響き渡る。
「――愚者どもよ。余の天魔山に足を踏み入れた代償を、その命で支払うがいい。一歩でも動けば、天魔の業火でお前たちを一族もろとも焼き尽くそう」
その声は、あたかも天から降り注ぐ神罰の警告のように、兵士たちの鼓膜を物理的に揺さぶった。同時に、玲央の指示で牛頭がバルブを開放した『地脈の天然ガス』が、無臭のまま峡谷の底に滞留し始めている。風向は、玲央の予測通り、山から谷へと吹き下ろす逆風に切り替わりつつあった。
正道軍の兵士たちの間に、極限のパニックが伝染していく。
「ひ、不敗の覇王だ! 覇王夜叉が、手を下さずに金剛様の武器を封じた!」
「からくりではない、これは天魔の妖術だ! おい、押すな! 足元の鋼糸に斬られる!」
「裏切り者がいるぞ! 我らをこの死の谷に誘い込んだのは誰だ!? 羅刹の配下と内通していた者がいるに違いない!」
恐怖は猜疑心へと変わり、正道軍の兵士たちは互いに武器を向け合い、同士討ちを始めようとしていた。玲央が張り巡らせた「心理的迷宮」に、彼らは完全に囚われたのだ。
「がはっ……!」
金剛は恐怖のあまり、鎖をその場に投げ捨て、自身の完璧な肉体硬化を解除して逃走を開始した。先鋒将の無様な敗走を目撃し、数千の正道軍は完全に崩壊した。
勝負は決した。玲央は冷酷な勝利の余韻に浸ろうとした――だが、その瞬間、彼の『絶対予測』が、脳内に真っ赤な警告の光を点滅させた。
峡谷の崖の上、月光を浴びて静観していた純白のシルエットが、音もなく跳躍した。その手には、磁力の影響を一切受けない特殊な隕鉄で鍛えられた、まばゆい光を放つ名剣『白陽(はくよう)』が握られていた。
正道連盟の若き天才剣士、千早拓馬。彼の澄んだ瞳が、物見櫓の上の「鉄仮面の覇王」をまっすぐに見据えていた。
拓馬は軽功を駆使し、崖の突起を足場にしながら、弾丸のような速度で玲央のいる物見櫓の最上階へと直接飛び上がってくる。
(……不確定要素。磁石の効かない名剣を持つ者が、このゼロ距離に迫る……!)
玲央の鼻先に、純白の名剣『白陽』の鋭い光が、容赦なく迫りつつあった。
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