正道の鉄槌
「正道連盟の先鋒、剛腕の金剛が、数千の精鋭を率いて天魔山の東門へ進軍中――!」
その凶報が大広間に響き渡った瞬間、平伏していた魔兵たちの間に、波紋のような動揺が広がった。つい先ほどまで、毒殺を企てた裏切り者・銀次の凄惨な処刑に震え上がっていた者たちの顔に、今度は「外敵」への生々しい恐怖が張り付く。
「正道の猟犬どもが、随分と血気盛んだな」
風間玲央は、重厚な鉄仮面の奥から地鳴りのような重低音を響かせた。声色を変える秘薬『変声丹』の毒性が喉を灼き、胃の中では先ほど完食した毒粥と粘膜保護薬が激しく衝突している。五臓六腑を熱した鉛でかき回されるような激痛。吐血しそうな衝動が喉元までせり上がってくるが、玲央は『不動心』の瞑想でそれを力ずくでねじ伏せた。一瞬でも弱気を見せれば、この場にいる左護法・修羅や、廃人のようになった右護法・羅刹の残党どもが再び牙を剥く。それは一族の死を意味していた。
「う、牛頭閣下率いる東門守備隊が防戦に当たっておりますが、敵の先鋒将、剛腕の金剛の武力は凄まじく……関門の第一防壁が物理的に粉砕されかけております!」
報告する密偵の背後から、東門の方向を注視していた烏丸が静かに言った。
「覇王様。金剛は少林寺の破門僧。肉体を鋼鉄化する『金剛不壊神功』を極め、数百キロを超える黒鉄のトゲ付き鉄球『破山』を軽々と振り回す怪物です。牛頭の重装盾兵では、あの物理的な破壊力を受け止めることは不可能です。魔兵たちの間には、先代様が急死されたという噂が未だにくすぶっており、この急襲によって『覇王弱体化』が真実ではないかと怯え始めております」
玲央は鉄仮面の下で冷酷に口元を歪めた。正道連盟の盟主・白銀宗厳め。魔殿の内部に仕込んだ銀次による毒殺計画が失敗した、あるいは連絡が途絶えたと察知し、即座に力ずくでの踏みつぶしに打って出たか。一万の討伐軍の本隊が動く前に、まずはこの「剛腕の金剛」という鉄槌を天魔山に打ち込み、魔殿の「実力」を測る腹積もりなのだ。
「覇王様、この修羅にお命じくだされ。我が双剣であのハゲ頭を叩き斬って参りましょう」
左護法・修羅が、獰猛な笑みを浮かべて一歩前に出た。だが、玲央はそれを細い手を軽く挙げるだけで制した。
「待て、修羅。お前ほどの達人を、あのような正道の野良犬ごときの相手に動かす必要はない。余が直々に、関門へ赴く」
「なっ……覇王様みずから親征されると!?」
修羅が驚愕に目を見開く。周囲の魔兵たちからも、どよめきが上がった。数年間、奥の院から一歩も出なかった「不可侵の覇王」が、自ら戦場に立つというのだ。だが、玲央の本心は全く別のところにあった。
(このまま魔兵たちに防衛線を張らせれば、金剛の圧倒的な武力の前に全滅する。そうなれば『覇王は動けない』という疑惑が確信に変わり、魔殿は内側から崩壊する。僕が直接、戦局をコントロールしなければならない。力ではなく、僕の頭脳という『武功以上の武器』でな)
玲央は威厳ある動作で玉座から立ち上がり、重厚な黒金外套の裾を翻した。
「余は一度、奥の院にて戦支度を整える。牛頭には、余が到着するまで関門の第二防衛線を死守せよと伝えよ。一歩でも退けば、その首を刎ねるとな」
冷酷な命令を残し、玲央はゆっくりとした歩調で大広間を後にした。誰もがその背中に「絶対の強者」の風格を見ていたが、寝所の重い石扉が閉まった瞬間、玲央の身体は激しく崩れ落ちた。
「ごふっ……! はぁ、はぁ、はぁ……!」
床に膝を突き、鉄仮面を剥ぎ取るように外すと、玲央の口から鮮血が激しく噴き出した。胃粘膜保護薬の効果時間が切れる寸前だったのだ。美奈が手縫いで仕立ててくれた吸水性の高い「白い絹のハンカチ」を口元に押し当てると、純白の布が一瞬で赤黒く染まっていく。肺が引き裂かれるような喘息の発作が襲い、玲央の細い身体が激しく痙攣した。
「兄様……!」
影から飛び出してきた美奈が、涙を浮かべて玲央の背中を支えた。彼女は素早く、神谷玄庵から極秘裏に調合された「胃壁を保護し、一時的に痛みを中和する薬草液」を玲央の口に流し込んだ。冷たい液体が胃に届くと、焼けるような激痛が微かに和らいでいく。玲央は、荒い息を吐きながら美奈を見つめた。
「美奈……時間は、あと数刻しかない。剛腕の金剛を、この天魔山の関門で物理的に、完璧に粉砕しなければ……僕たちの正体が暴かれ、地下牢の父上たちもろとも皆殺しにされる」
「でも、兄様……あの金剛という男は、重装盾兵を一撃で粉砕する怪物です。武功のない兄様がどうやって……」
「三十六計・偽装篇だ。人間の力がいかに強大であろうとも、自然の物理法則には逆らえない。奴の『強さ』そのものを、自滅のエネルギーに変換してやる」
玲央の瞳に、極限の死線にあっても曇らない冷徹な知性が宿る。彼は机の上に天魔山の詳細な地形図を広げた。東門の関門は、峻険な絶壁に挟まれた狭い峡谷地形――すり鉢状の岩壁になっている。大軍の進軍ルートは物理的にこの一本道に制限されるのだ。
「美奈、烏丸を通じて、麓に潜伏している百地三太夫に極秘の指示を送れ。僕が魔殿の予算から凍結・没収した羅刹の裏金……あの五万両の大部分を、百地への追加報酬としてその場で支払う。その代わり、今すぐ関門の地盤の下に、彼が仕設した『超強力吸着磁石』の配線を完了させろ。そして、峡谷の四方に自動からくり『千頭蛇(せんとうだ)』のトリガー鋼糸を張り巡らせるんだ」
「超強力吸着磁石……! あの、羅刹の戦斧を地面に張り付かせた装置を、関門全体に広げるのですか?」
「そうだ。剛腕の金剛が操る鉄球『破山』は、重量数百キロを超える黒鉄の塊。あの狭い峡谷で磁力を解放すれば、鉄球の重量は物理的に数倍、いや数十倍に膨れ上がる。奴の『剛腕』こそが、奴をその場に縫い付ける重石となるのだ。さらに、牛頭に命じて、万魔の地下牢の最深部から関門まで引かれた真鍮の配管バルブを微放させろ」
「地脈の天然ガス……無臭の爆発性気体ですね?」
「そうだ。峡谷の底にガスを充填させる。風向は、祖父の気象学に基づけば、あと半刻で山から谷へと吹き下ろす逆風に切り替わる。火を放てば、正道軍は一切手を下されることなく、天魔の業火に包まれる死の檻が完成する」
玲央は、痛む胸を押さえながら立ち上がり、再び禍々しい「覇王の鉄仮面」を顔に密着させた。金属の冷たさが、彼の肌を締め付ける。重厚な「覇王の黒金外套」を羽織ると、その物理的な重量に骨が軋んだが、玲央は一歩も揺らがずに歩き出した。美奈は、その兄の凄絶な背中を見つめ、自身の恐怖を殺して深く頷いた。
「いってらっしゃいませ、兄様。私はここで、神谷先生と次の解毒の準備を整えてお待ちします」
「ああ。行ってくる」
玲央は、天魔山の第一防衛線である「天魔山の関門」へと向かった。関門の物見櫓に登る階段は急で、肺が閉塞している玲央にとっては、一歩登るごとに命の灯火が削られるような苦行だった。しかし、彼は『呼吸調律法』を用いて無音の呼吸を維持し、一歩ずつ、悠然たる動作で階段を登りきった。
物見櫓の最上階に、玲央が立った。
冷たい山風が、彼の黒金外套を激しく羽ばたかせる。眼下には、峻険な崖に挟まれた狭い峡谷が広がっていた。そこには、純白の道服を着た正道討伐軍の第一陣、数千の兵士たちが、天魔山の東門を完全に包囲していた。
防衛陣を敷く牛頭の魔兵たちは、盾を砕かれ、退却の兆しを見せていた。彼らの視線が、物見櫓の上に現れた「鉄仮面の覇王」へと一斉に集まる。その瞬間、魔兵たちの間に、安堵と畏怖が混ざり合った異様な静寂が広がった。覇王が、みずから戦場に現れたのだ。
玲央は、物見櫓の欄干に手をかけ、眼下の正道軍を冷徹に見下ろした。鉄仮面の奥から覗く双眸には、一切の恐怖も、動揺も存在しない。
峡谷の最前列で、一人の巨漢が、岩を叩き割るような笑い声を上げた。上半身裸の筋骨隆々とした大男――剛腕の金剛だった。彼の両腕には、極太の鉄鎖で繋がれた、禍々しいトゲ付きの黒鉄球「破山」が握られていた。
「がははは! 天魔覇王夜叉、ついに這い出てきたか! 我が金剛不壊の肉体と、この破山の鉄槌の前に、お前の邪悪な魔功など塵に等しい! その首、我が正道の義の下に、叩き潰してやる!」
金剛が咆哮し、数百キロの鉄球を頭上で激しく振り回し始めた。鉄球が空気を引き裂く不気味な風切り音が、峡谷全体に地鳴りのように響き渡る。その圧倒的な物理的破壊力を前に、魔兵たちは息を呑み、一歩後退した。
だが、物見櫓の上の玲央は、ただ静かに、鉄仮面の奥からその光景を見下ろしていた。彼の手は、物見櫓の柱に隠された、百地三太夫のからくり罠の「起動スイッチ」へと、静かにかけられていた。
(吠えるがいい、正道の愚者よ。お前がその鉄球を高く掲げた瞬間こそが、お前の墓標が完成する瞬間だ)
玲央は、一歩も動かずに、静寂の中でその引き金を引くタイミングを計り始めた。
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