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毒を喰らう魔王

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コツン、という乾いた音が、静まり返った大広間に冷酷に響き渡った。


 風間玲央が銀のスプーンを空の器に置いた音だった。その瞬間、天魔殿の大広間を満たしていた空気が、物理的な質量を持ったかのように重く凍りついた。


「――はっ、ごふっ……!」


 鉄仮面の内側で、玲央の喉が激しく引き裂かれそうになっていた。沸騰した鉛を直接胃袋に注ぎ込まれたかのような、狂気的な灼熱感が五臓六腑を狂わせる。美奈が命がけで調合してくれた『胃粘膜保護薬』が、七歩蛇の毒の浸透を辛うじて遅らせている。しかし、中和の過程で生じる激しい化学反応は、武功を持たない玲央の脆弱な胃壁を容赦なく破壊し、内側から血が噴き出しつつあった。


 (吐くな。ここで一滴でも血を漏らせば、すべてが終わる……!)


 玲央は『不動心』の瞑想を極限まで深め、脳に伝わる痛覚の電気信号を力ずくで遮断した。仮面の裏で溢れ出た鮮血を、彼は静かに口内に溜め、決して外には漏らさない。鉄仮面の冷たい金属が、脂汗の浮かぶ額に張り付いている。外套の下で全身の骨が悲鳴を上げていたが、その立ち姿は、微塵の揺らぎもない絶対の魔王そのものだった。


 大広間の円卓を囲む護法たちの視線が、玲央の手元に釘付けになっていた。


 特に、羅刹の背後に控えていた『毒蛇の銀次』の表情は、凄まじいものだった。緑色の薄衣を着たその細身の身体が、小刻みに震えている。蛇のような細い目は、今や零れ落ちそうなほどに見開かれ、顔面からは完全に血の気が引いていた。


 (なぜだ……なぜ生きている? あれは『七歩蛇の毒』だぞ。内力を一度でも練れば、経絡が一瞬にして破裂して即死する、邪派の秘毒。たとえ内力を練らずとも、常人であれば胃壁が溶けて数秒で絶命するはずだ。それを、この男は……おかゆごと、一滴も残さず平然と飲み干したというのか!?)


 銀次の脳裏に、底知れない恐怖が過った。彼らが「健在」と信じ込んでいる天魔覇王夜叉は、いかなる猛毒をも体内で一瞬にして分解する、未知の極致の魔功を習得している――その「誤認」が、銀次の精神を根底から粉砕しつつあった。


 玲央はゆっくりと立ち上がった。重厚な黒金外套が、彼の細い肩にずっしりと圧し掛かる。一歩、また一歩と、玲央は玉座の階段を下り、銀次の元へと歩み寄った。その足取りは重々しく、大広間の石床を不気味に鳴らした。


「……味が薄いな、銀次」


 鉄仮面の振動板が、変声丹によって焼け爛れた喉の声を共鳴させ、地鳴りのような重低音を響かせた。聞く者の魂を直接掴んで握り潰すかのような、冷酷極まりない覇王の声。


「ひっ、あ、覇王様……!」


 銀次は恐怖のあまり、その場に崩れ落ちそうになった。辛うじて膝の震えを抑え、這いつくばるようにして平伏する。


「おかゆの味にご満足いただけず、万死に値します! 料理頭の八作が、不手際を仕犯したに違いありません! すぐに奴を地下牢へ――」


「八作ではない」


 玲央は銀次の脳天を冷徹に見下ろしたまま、言葉を遮った。鉄仮面の奥から覗く双眸には、一切の感情が消え失せ、底知れない深淵の闇だけが広がっている。


「銀次。お前は余が、老いたとでも思ったか?」


「な、何をおっしゃいますか! 覇王様は天下無双、我が天魔殿の絶対の主神にございます!」


「ならば、なぜ余の器に、余計な薬味を混ぜた」


 その一言が放たれた瞬間、大広間の温度がさらに数度下がった。左護法・修羅が、面白そうに目を細めて銀次を睨みつける。前護法・夜叉鴉も、静かに指先を動かし、空気の緊張を測っていた。


「や、薬味など……滅相もございません! 私はただ、覇王様の長寿を願い、夕餉の給仕を見守っていただけにございます!」


 銀次は必死に否定した。彼の額からは、大粒の冷や汗が滝のように流れ、緑の薄衣を濡らしている。だが、玲央の『黒天心経』の眼力は、銀次の微表情のすべてを完璧に解剖していた。銀次の瞳孔は極限まで拡大し、呼吸の周波数は異常なほどに高くなっている。そして、彼の右手が、自身の懐のあたりを無意識に、だが執拗に庇うように微動しているのを見逃さなかった。


 (間違いない。奴は、自身の保身のために、万が一毒が失敗した時のための『解毒剤』を今も懐に隠し持っている。それが、奴の精神的な最後の砦だ)


 玲央は心臓を掴まれるような胃の激痛に耐えながら、脳内で因果の数式を完成させた。この場で銀次を力でねじ伏せることはできない。だが、奴が隠し持っている『物理的物証』を衆人環視の前で暴き出せば、言い逃れは100%不可能となる。そしてそれは、羅刹一派を完全に解体するための、絶対の引き金となるのだ。


「烏丸」


 玲央が低く、短く呼んだ。


 その瞬間、大広間の薄暗い影の中から、気配を完全に消した漆黒の影――密偵部隊「黒鴉」の頭領、烏丸が音もなく姿を現した。その動きはあまりに速く、達人である修羅すらも微かに眉を動かすほどだった。


「はっ」


「銀次の懐を探れ」


 玲央の非情な命令に、銀次の顔が恐怖で完全に歪んだ。


「な、何をされるのですか! 私は無実です! 羅刹様、お助けを――!」


 銀次は、玉座の脇で廃人のように虚ろな目をしている羅刹に向けて叫んだ。しかし、羅刹は『黒天散の呪い』という玲央のハッタリによる死の恐怖に魂を縛られており、身体を小刻みに震わせるだけで、右腕である銀次を助けるために動くことはおろか、視線を合わせることすらできなかった。


「無駄だ、銀次。羅刹はお前を救わん。いや、救えぬのだ」


 玲央の冷酷な宣告と同時に、烏丸の手が影のように銀次の胸元を掠めた。『黒鴉忍法・影縫い』の技術。銀次が抵抗の内力を練る暇すら与えず、烏丸の指先は、銀次の薄衣の内ポケットから、一つの小さな物体を物理的に抜き取っていた。


 烏丸が玉座の前に跪き、両手でその物体を玲央へと捧げた。


 それは、怪しい緑色の光沢を放つ、極小の翡翠の薬瓶だった。


「……これは何だ、銀次」


 玲央は薬瓶を手に取り、蝋燭の火にかざした。翡翠の透過光の中に、粘性のある黒い液体が揺れている。玲央の脳内には、神谷医師から美奈を通じて伝達された毒物知識が完璧に展開されていた。


「これは、七歩蛇の毒の『解毒剤』だな。お前は余におかゆを完食させた後、もし万が一、余が毒の劇性に気づいて周囲を皆殺しにしようとした際、この解毒剤を交渉の道具にして生き延びようと画策していた。違うか?」


「あ、あ……う、嘘だ……!」


 銀次は、完全に精神の拠り所を失った。自身の懐に隠されていた絶対の物証が、一瞬にして覇王の手に渡ったのだ。言い訳など、この魔殿においては何の意味も持たなかった。


「さらに、銀次。お前が管理していた羅刹の『隠し財産』……霧隠の宿場町にある五万両の裏金口座から、最近、不自然な資金の移動があったな。お前はその資金を用いて、羅刹に無断で、独自の密殺薬物を闇市場から仕入れていた。この翡翠の瓶が、その証拠だ」


 玲央は『天魔機密簿』から暗記していた、羅刹の口座の隠しデータをこの場で冷酷に暴露した。羅刹の横領口座は、すでに財務官の半兵衛を通じて玲央が完全に凍結している。銀次が自身の私利私欲と焦りから、羅刹の資金を勝手に流用して毒薬を買い揃えていたという「不都合な真実」は、羅刹一派の内部に決定的な亀裂を生じさせた。


「お、おのれ、銀次……! 貴様、私の資金を勝手に……!」


 廃人のようだった羅刹が、裏切りの事実に激怒し、血走った目で銀次を睨みつけた。一派の結束は、玲央が手を下すまでもなく、内側から完全に崩壊したのだ。


「覇王様、違います! 私は、私はただ、羅刹様のために……!」


 銀次はパニックに陥り、大広間の石床に何度も頭を打ち付けた。額から血が流れ、床を赤く染める。だが、玲央の鉄仮面は、その無様な姿をただ冷徹に見下ろしているだけだった。


「天魔殿の掟は絶対だ。覇王の食事に毒を盛り、謀反を企てた不届き者には、死以外の慈悲は与えぬ」


 玲央は外套の内ポケットから、黒い玉石で鍛えられた『天魔覇王の印章』を静かに取り出した。その底部に、先代の血を模した特殊な薬品を素早く塗布し、机の上の白紙の処刑命令書へと、重々しく押印した。


 *――ドン。*


 印章が押された瞬間、大広間の最前列に控えていた『鉄血魔兵の隊長』剛田が、巨大な黒鉄の鉄槌を床に叩きつけた。ズシン、という地響きが、銀次の死刑執行の合図だった。


「剛田。銀次を連れて行け。その経絡をすべて破壊し、魔殿の門前に吊るせ。逆らう者がどうなるか、魔兵たちに身をもって示してやるのだ」


「ははっ! 仰せのままに!」


 剛田の頑強な巨体が銀次に迫り、その太い腕が銀次の首根っこを鷲掴みにした。銀次は「羅刹様! 修羅様! お助けを!」と絶叫し、恐怖のあまりその場で失禁し、床を汚しながら、剛田の鉄血魔兵たちによって大広間の外へと引きずられていった。


 大広間に、再び重々しい静寂が戻ってきた。


 玲央は玉座に深く腰掛け、鉄仮面の奥から、残された護法たちをゆっくりと見渡した。修羅は、覇王の「毒すら効かない絶対の神体」と、一切の武力を使わずに敵の右腕を合法的かつ完璧に排除した知略に、完全に圧倒され、深く頭を垂れていた。夜叉鴉も、地獄極楽も、もはや覇王に逆らうことなど自殺行為であると、その魂に刻み込まれたようだった。


 (終わった……。羅刹の右腕を、完全に排除した……)


 玲央は、仮面の下で安堵の息を漏らそうとした。だが、胃を灼く激痛は今や限界に達しており、一刻も早く寝所に戻って神谷医師の本格的な解毒処置を受けなければ、本当に胃壁が穿孔して死亡するタイムリミットが迫っていた。冷や汗が全身を濡らし、指先が不自然に震え始めるのを、彼は黒金外套の重い袖で必死に隠した。


 「朝会を解散する。余は奥の院へ戻る」


 玲央が立ち上がろうとした、その瞬間だった。


 大広間の重厚な扉が、勢いよく開け放たれた。息を切らし、全身に埃をまみれさせた密偵が、慌てふためいた様子で滑り込んできた。その背後には、密偵部隊を統括する烏丸の、ただならぬ緊張を孕んだ眼光があった。


「覇王様! 緊急の報せにございます!」


 跪いた密偵の声が、大広間の静寂を切り裂いた。


「正道連盟の先鋒隊、剛腕の金剛率いる数千の精鋭兵が――天魔山の麓、東門の関門に向けて、進軍を開始いたしました!」


 その一言が、大広間にいた全員の心臓を物理的に跳ね上がらせた。


 玲央の鉄仮面の奥で、瞳が鋭く見開かれた。胃の激痛さえも一瞬で忘れるほどの、巨大な外部からの死線。魔殿内部の粛清を完了したその夜に、天下の正道が、天魔殿を根絶やしにするための総攻撃を開始したのだ。


 (正道連盟……ついに、動き出したか……!)


 武功ゼロの偽物の王の前に、今、国家規模の大戦の幕が、容赦なく引き上げられようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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