杯に踊る毒蛇
黒金天魔殿の奥、覇王の寝所に引き上げて扉を閉ざした瞬間、風間玲央は膝から崩れ落ちた。床に突いた両手が激しく震え、喉の奥からせり上がる熱い塊を抑えきれずに、激しく喀血した。外套の袖から素早く取り出した白い絹のハンカチが、一瞬にしてどす黒い鮮血で染まっていく。
「――はっ、ごふっ、く……っ!」
激しい喘息の発作が肺を締め付け、呼吸が物理的に遮断される。玲央は喉をかきむしりたくなったが、仮面を外す気力すら残っていなかった。首の筋肉が、引き裂かれるような激痛を訴えている。先ほどの試突の舞台で、床下に埋め込まれた『超強力吸着磁石』の凄まじい引力に、武功ゼロの首の筋肉だけで抵抗し続けた代償だった。一瞬でも首を曲げれば鉄仮面ごと地面に叩きつけられ、正体が露見していた。その極限の緊張が、彼の脆弱な肉体を内側から破壊しつつあった。
「兄様!」
物陰から飛び出してきた妹の美奈が、涙を浮かべながら玲央の身体を支えた。彼女は素早く玲央の背中をさすり、神谷医師から受け取っていた臨時の気付け薬を鼻先に近づける。ツンとする薬草の匂いが鼻腔を突き、玲央は辛うじて浅い呼吸を取り戻した。
「美奈……すまない、また心配をかけた……」
鉄仮面を外し、血に汚れた唇を拭いながら、玲央は弱々しく微笑んだ。『変声丹』の毒性によって喉は焼け爛れ、本来の美しい声はすでに掠れ、失われつつある。一族を救い出すための「嘘」の代償は、彼の命そのものを確実に削り取っていた。
「兄様、お体に障ります。お話しにならないで。羅刹は完全に屈服しました。兄様の『黒天散の呪い』というハッタリを本物と信じ込み、恐怖で自らの殻に閉じこもっています。お清も、あの凄まじい光景を見て、羅刹へのリークを躊躇っている様子でした。ですが……」
美奈の表情が、一転して曇った。彼女は周囲の気配を警戒するように、寝所の重厚な扉を振り返った。
「羅刹が使い物にならなくなったことで、奴の右腕である『毒蛇の銀次』が異常な焦りを見せています。厨房の周囲を、銀次の配下たちがうろついているのです。先ほど、料理頭の八作が食材を運び込む際、不自然に肩を震わせていました。何かを隠しているのは間違いありません」
「銀次か……」
玲央は痛む首を庇いながら、冷徹な知将の眼光を取り戻した。羅刹という大黒柱が折れた今、その傘下にいた野心家たちが暴走を始めるのは必然だった。特に毒薬と暗殺を専門とする銀次は、覇王の「呪い」が本物であるならば、羅刹が死ぬ前に覇王を物理的に排除しなければ自らも連座して粛清されると焦っているはずだ。
「美奈、八作が持ってきた薬草の籠はどうした?」
「ここにあります。神谷先生の庵から届いた、兄様の喉の痛みを和らげるための薬草です。ですが、今回は少し様子が違いました」
美奈が運んできた竹籠の中には、様々な乾燥薬草が乱雑に詰め込まれていた。その中に、一際太い「乾燥した蔦」が、奇妙な結び目で結ばれているのが見えた。玲央はその蔦を手に取り、指先で結び目の数をなぞった。彼の脳内で、幼少期に祖父・勘兵衛から叩き込まれた風間書院独自の暗号解読法が瞬時に稼働する。
この薬草を結束したのは、一族の遠戚であり、神谷医師の庵で手伝いをしている老女・お梅だ。彼女は魔殿の厳しい検閲を掻い潜るため、薬草の結び方で一族の危機を伝達する技術を持っていた。
「……結び目は三つ、右へのねじりが二回。これは、一族の者が看守から盗み聞いた極秘情報だ」
玲央の瞳が、氷のように冴え渡る。
「『銀次が八作の家族を地下牢の人質に執り、今夜の食事に毒を盛るよう脅迫した』……。盛られる毒は、無色無臭の奇毒『七歩蛇(しちほじゃ)の毒』。内力を一度でも練れば、経絡が一瞬にして破裂して即死する、邪派の秘毒だ」
「そんな……!」
美奈が息を呑んだ。八作は魔殿の料理頭でありながら、一族の安全を玲央に保証される代わりに、日常的な毒物の混入を防ぐ「防毒役」を務めていた。だが、彼自身の家族を直接銀次に人質に取られては、抗う術はなかったのだろう。
「どうするのですか、兄様? 夕餉の時間はもうすぐです。おかゆを食べなければ、覇王が『食事を恐れている』と周囲の護法たちに弱みを晒すことになります。かと言って、食べれば……」
「食べれば、死ぬ。内力が一滴もない僕であっても、七歩蛇の毒そのものの劇性が胃壁を破壊し、数秒で命を落とすだろう。銀次は、僕がおかゆを口に運ぶ瞬間を、その蛇のような目で凝視するはずだ。食べるフリをして袖に捨てるような小細工は、奴の『気色観察』の前には通用しない」
玲央は静かに立ち上がった。黒金外套の重みが、再び彼の脆弱な肩にのしかかる。だが、彼の頭脳はすでに、この絶対の死線を「最悪の罠」へと逆転させる因果の数式を完成させつつあった。
「美奈、今すぐ神谷先生の元へ走るんだ。先生なら、七歩蛇の毒の特性を知っているはずだ。この毒が『内力の循環』によって発症を早める劇薬であるならば、内力を一切持たない僕の肉体において、一時的に胃の粘膜を保護し、毒の吸収を数刻だけ遅らせる中和薬が必ず存在する」
「わかりました! 神谷先生の庵へ急ぎます。どうか、私が戻るまで、夕餉の手を付けないでください!」
美奈は侍女服の裾を翻し、寝所の隠し通路から音もなく闇へと消えていった。一人残された玲央は、重い鉄仮面を再び顔に装着した。冷たい金属が皮膚の裂傷に触れ、激痛が走る。だが、仮面を被った瞬間、彼は病弱な書生・風間玲央であることを完全に捨て去り、冷酷非道な天魔覇王へと同化した。
夕刻、天魔殿の大広間には、異様な緊張感が漂っていた。長大な黒檀の机を囲むように、三大護法たちが静かに着席している。その末席には、試突の舞台での敗北によって完全に精神を崩壊させ、虚ろな目で宙を見つめる羅刹の姿があった。そして、その羅刹の背後には、緑色の薄衣をまとった男――毒蛇の銀次が、ヘラヘラとした薄気味悪い笑みを浮かべて控えていた。
やがて、料理頭の八作が、青ざめた顔で一杯の「おかゆ」を乗せた銀の盆を運んできた。おかゆからは、美味そうな湯気が立ち上っている。だが、八作の指先は、玲央の目の前に器を置く際、カチカチと音を立てて震えていた。
玲央は鉄仮面の奥から、八作のその微細な動揺を見逃さなかった。そして、その背後で、蛇のような細い目をさらに細め、自らの勝利を確信している銀次の「心拍数」の乱れを、空気の振動から感じ取っていた。
(銀次は、僕がこのおかゆを一口でも食べれば、すべてが終わると信じ込んでいる。奴の脳内では、すでに僕が血を吹いて倒れ、羅刹一派が魔殿の覇権を取り戻すシナリオが完成しているのだろう)
玲央は、黒金外套の袖の裏で、美奈が直前に届けてくれた神谷医師特製の「胃粘膜保護薬」の苦い味を、まだ舌の奥に感じていた。それは胃の内壁に一時的な油膜を張り、毒素の浸透を極限まで遅らせる劇薬だった。だが、その代償として、胃が物理的に焼け焦げるような激しい灼熱感が玲央の腹部を襲い始めていた。冷や汗が外套の下で流れる。
玲央は、銀のスプーンを静かに手に取った。おかゆを軽くすくい、鼻先に近づける。微かに漂う、無色無臭のはずの七歩蛇の毒が持つ、極めて微小な「金属質の粘性」を、彼の鋭い五感が捉えた。間違いなく、致死量の毒が混入されている。
大広間の全員が、息を呑んで覇王の手元を注視していた。修羅も、夜叉鴉も、地獄極楽も、この食事が「覇王の真実」を暴く最後の天秤であることを理解していた。もし覇王が毒を恐れて杯を退ければ、その瞬間に彼の弱体化、あるいは「偽物」の疑惑が魔殿全体に決定的なものとして広がるだろう。避ける道はなかった。
玲央は鉄仮面を微かに持ち上げ、口元を露出させた。そして、一切の躊躇なく、毒入りのおかゆを口へと運んだ。
銀次の口元が、勝ち誇ったように歪んだ。だが、玲央はスプーンを止めることなく、二口、三口と、優雅な動作でおかゆを咀嚼し、飲み下していった。胃の中で、中和薬と七歩蛇の毒が激しく衝突し、まるで沸騰した熱湯を直接胃袋に注ぎ込まれたかのような、狂気的な激痛が玲央の五臓六腑を襲う。内臓が千切れるような痛みに、玲央は「不動心」の瞑想を極限まで深め、顔の筋肉一ミリすら動かさずに耐え抜いた。
一口、また一口。玲央は平然とした表情のまま、毒入りのおかゆを最後の一口まで綺麗に飲み干した。
そして、静かにスプーンを器へと置いた。
*――コツン。*
静まり返った大広間に、冷酷な鉄仮面の金属音と、スプーンが響かせる乾いた音が、不気味な余韻を残して響き渡った。銀次の顔から、ヘラヘラとした笑みが一瞬にして消え去り、その瞳が驚愕と恐怖に見開かれた。
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