闇に潜む蜘蛛
美奈が寝所の隠し回転壁から闇へと消えていった後、風間玲央は天蓋付きベッドの縁に腰掛け、深く息を吐き出した。外套の重みが、内力を持たない彼の細い肩に容赦なくのしかかる。玲央は震える手で「覇王の鉄仮面」を外し、枕元に置いた。鏡に映る自身の素顔は、月光に照らされて幽鬼のように青白い。
「ごほっ……げほっ、ごほぅ……!」
堰を切ったように、激しい喘息の発作が玲央を襲った。喉の奥が、まるで炭火を直接押し付けられたかのように熱く爛れている。声を偽装する劇薬『変声丹』の残毒が、彼の気管を内側から破壊し続けていた。玲央は「白い絹のハンカチ」を口元に押し当て、溢れ出る鮮血を吸い込ませた。ハンカチに仕込まれた吸水砂が、音もなく血を吸い尽くしていく。だが、心臓を蝕む「天魔の呪印」の微かな疼きは、玲央に生のタイムリミットが刻一刻と迫っていることを容赦なく告げていた。
(美奈は無事に霧隠の宿場町へ辿り着けるか……。百地三太夫を雇い、朝会までに舞台のからくりを完成させねば、僕の命は明日の朝に尽きる)
玲央は『不動心』の瞑想を稼働させ、乱れる心拍を強引に一定の律動へと調律していった。肺の痙攣が静まり、寝所の中にふたたび冷徹な静寂が戻る。
その静寂の中で、玲央の脳内に宿る異能――『絶対予測』の感覚が、不気味な警鐘を鳴らした。
――*ス、スス……*――
天井裏の闇から、極めて微細な、だが不自然な音が響いた。それは風の悪戯でも、古い木造建築の軋みでもない。金属質の極細の糸が、梁の表面を滑り落ちる摩擦音。玲央の異常な記憶力と空間認知能力が、瞬時にその音の正体を割り出した。先代覇王の遺した機密簿に記されていた、右護法・羅刹お抱えの暗殺者――『山蜘蛛(やまぐも)』。天井裏や壁を四足で這い回り、鋼鉄をも切り裂く極細の「鋼糸」を垂らして標的を吊り上げる、一流の暗殺者だ。
(羅刹の刺客か……! 奴、朝会の試突を待たず、今夜のうちに僕の息の根を止めに来たか)
玲央の背中に冷たい汗が伝う。武功なき身で、超一流の暗殺者と直接刃を交えれば、一瞬で首と胴体が決別する。声を上げて警備の鉄血魔兵を呼ぶこともできない。もし普通の「戦闘」がこの部屋で発生すれば、覇王が凡夫のように無様に逃げ惑う姿が露見し、それ自体が正体露見の引き金となる。玲央は、指一本触れられず、かつ無音で、この死神を排除しなければならなかった。
玲央は『不動心』を極限まで深め、恐怖を完全に思考の外へと追いやった。彼の双眸が、月光の届かない天井の暗闇を冷徹に見据える。高い天井から、微かな埃の粒子が不自然な軌道を描いて落下していた。落下速度、風の対流の乱れ、そして埃の散らばり方。玲央の脳内で『絶対予測』の数式が狂気的な速度で展開されていく。
(落下する埃の偏りは、左から右へ三ミリ。天井裏の梁の上に、体重およそ六十キロの肉体が潜んでいる。呼吸の周波数は極めて低く、肺の伸縮音はほぼ皆無。奴は今、僕の頭上から『鋼糸』を垂らし、寝込みを襲うタイミングを計っている)
玲央は、何事もなかったかのようにベッドから立ち上がった。足元をふらつかせず、覇王としての威厳ある歩調を崩さない。彼は部屋の隅にある古い青銅製の燭台へと歩み寄り、手にした蝋燭の火を弄ぶ振りをしながら、壁に設置された装飾用の彫刻へと静かに手を伸ばした。
その彫刻の裏には、先代覇王・夜叉が狂気の実験を行うために地下から引き込んだ、天然の可燃性気体――『地脈の天然ガス』の配管バルブが隠されている。玲央は音を立てずに彫刻の指を特定の角度で押し下げ、バルブを静かに開放した。
*シュー……*――
人間の嗅覚では到底感知できない無色無臭のガスが、天井裏の隙間へと音もなく充填されていく。玲央は『絶対予測』でガスの拡散速度を計算し続けた。気圧、室温、天井裏の容積。およそ四十秒で、天井裏のガス濃度は引火限界に達する。その間、玲央はただ静かに燭台の前に立ち、蝋燭の炎を見つめ続けた。背後から迫る死の気配を、皮膚の産毛が感じ取っている。
――四十。今だ。
玲央がベッドへ戻ろうと一歩踏み出した瞬間、天井裏の闇が激しく揺らぎ、一本の光を反射しない黒い鋼糸が、玲央の首元に向けて音もなく急降下してきた。鋼糸の先端には、肉を引き裂くための鋭利な逆鉤が結ばれている。
だが、玲央の脳内では、その鋼糸が描く死の軌道が、一秒前に「青い光の線」として完璧に可視化されていた。玲央は走ることも、避ける動作を大きく見せることもせず、ただ優雅に歩みを進めながら、首を右斜め前方へわずか三センチメートルだけ傾けた。
*ヒュッ*――
極細の鋼糸が、玲央の耳元をミリ単位の隙間で通り抜け、黒金外套の襟元をかすめて床の絨毯に突き刺さった。襲撃を躱されたことに驚愕した山蜘蛛が、天井裏の梁から直接身を躍らせ、第二の鋼糸を両手に構えて玲央の脳天へと急降下してくる。
その瞬間、玲央は手にした蝋燭を、ガスが充填された天井裏の通気口に向けて、迷いなく投げ放った。
「天魔の火に、灼かれるがいい」
玲央が鉄仮面のない素の声で、冷酷に呟いた。
*――ボォンッ!*
天井裏の隙間で、充填されていた天然ガスが一気に引火し、局所的な爆発を引き起こした。密閉された空間での爆風は、逃げ場を失って通気口から凄まじい熱風となって噴き出した。山蜘蛛が両手に握っていた「鋼糸」は極めて熱伝導率の高い隕鉄製であった。引火したガスの超高温が一瞬にして鋼糸を伝わり、山蜘蛛の両手の皮膚と筋肉を骨まで焼き爛らせた。
「ぐっ……あ、がっ……!?」
悲鳴を上げる間もなく、山蜘蛛の喉は逆流した熱風によって物理的に灼かれ、その肺胞は一瞬で熱傷によって破壊された。全身を炎に包まれた暗殺者は、天井から無様に石床の上へと落下し、激しくのたうち回った。玲央は一歩も動かず、ただ冷酷な眼光で、床の上で炭化していく山蜘蛛の肉体を見つめ続けた。爆発は天井裏の狭い空間に限定されていたため、寝所全体が炎上することはなく、不気味な硝煙の臭いだけが室内に立ち込めた。
やがて、のたうち回っていた肉体が静まり返り、黒焦げの骸へと変わり果てた。玲央は静かにベッドの脇に歩み寄り、鉄仮面を拾い上げて顔に装着した。金属の冷たさが、興奮で沸騰しそうになっていた彼の脳を冷静に引き戻す。変声丹の効果が残る重低音で、玲央は静かに呟いた。
「片付いたな」
その時、寝所の影から、一条の黒い霧が滑り込むようにして現れた。それは、気配を完全に同化させていた天魔殿の若き暗殺者――『影丸(かげまる)』だった。
影丸は床に横たわる山蜘蛛の焦げた死体と、それを一歩も動かずに見下ろす鉄仮面の覇王の姿を目にし、全身を激しい戦慄で震わせた。彼は覇王が一切の武功(内力)を使わず、ただ指先を微かに動かしただけで、一流の暗殺者を「天魔の業火」によって一瞬で焼き殺したのだと誤認していた。そのハッタリの威力は、影丸の想像を遥かに超えていた。
「……おお、覇王様……。なんと恐るべき神業……。この影丸、天魔の業火を目の当たりにし、魂の底から平伏いたします!」
影丸は石床に両膝を突き、額を激しく叩きつけるようにして平伏した。その瞳には、恐怖を超えた狂信的な忠誠の光が宿っている。
「羅刹の放った蜘蛛めが、覇王様の御前で無様に灰になるとは。奴の謀反の企み、この影丸がすべて闇に葬り去りましょう」
玲央は鉄仮面の奥から、平伏する狂信者を見下ろした。心臓の激しい鼓動を隠し、声を低く響かせる。
「影丸よ。この塵を片付けよ。朝会の前に、余の寝所を汚すことは許さぬ」
「御意にございます!」
影丸は素早く立ち上がり、山蜘蛛の死体を黒い布で包み込むと、気配を消して闇の中へと消え去っていった。その手際の良さは、玲央の計画にとってこれ以上ない物理的な実行力となるだろう。
影丸が去った後、寝所の扉が微かに揺れ、一枚の真鍮の割符が床を滑って玲央の足元へと届いた。それは、美奈が霧隠の宿場町へ辿り着き、お蓮を通じて伝説の罠師「百地三太夫」との交渉を成立させた証であった。
割符の裏には、百地の特殊な暗号で、一言だけ刻まれていた。
――*舞台の底、黒鉄を吸い寄せる『超強力吸着磁石』の敷設、完了せり*――
玲央は割符を拾い上げ、外套の内ポケットへと深く忍ばせた。彼の唇が、冷酷な勝利の確信に歪む。明日の朝会、羅刹が「試突」のために大剣を振り下ろした瞬間、奴の運命は完全に決するのだ。
*ゴーーーン……*――
天魔山の静寂を切り裂き、決戦の朝会を告げる巨大な銅鑼の音が、重々しく響き渡り始めた。夜明けの冷たい光が、窓から寝所の床を白く染めていく。玲央は鉄仮面を撫で、重厚な外套を翻して、数千の魔兵が待ち受ける玉座の間へと歩みを進めた。
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