死線上の挑戦状
右護法・羅刹の重々しい足音が廊下の彼方に消え去った後も、天魔覇王の寝所には、凍りつくような沈黙が支配していた。廊下に控えていた侍女長・お清の気配もまた、闇に溶けるようにして遠ざかっていく。
「――は、あ、がっ……! う、ぐうぅ……!」
鉄扉が完全に閉まったのを見届けた瞬間、風間玲央は顔面を覆っていた黒金の「覇王の鉄仮面」をむしり取るようにして剥ぎ取り、石床の上へと崩れ落ちた。
喉の奥からせり上がる、焼けるような激痛。老医師・神谷玄庵が調合した特殊薬物『変声丹』の猛烈な毒性が、玲央の細い喉を内側から容赦なく焼き爛らせていた。肺が物理的に押し潰されるような激しい喘息の発作が襲いかかり、玲央は激しく喀血した。
「兄様!」
部屋の隅の暗がりに潜んでいた妹の美奈が、音もなく駆け寄る。彼女は震える手で、懐から「白い絹のハンカチ」を取り出し、玲央の口元に当てた。吸水性の高い砂と特殊な薬品が仕込まれたその絹布は、吐き出された鮮血を音も立てずに一瞬で吸い込んでいく。しかし、それでも溢れ出た赤黒い血が、玲央の青白い指先を濡らした。
「はぁ、はぁ……っ、う、うぅ……」
「兄様、もうお止めください。これ以上変声丹を飲み続ければ、喉だけでなく、肺も心臓も本当に壊れてしまいます……!」
美奈の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。玲央の細い身体を抱きしめる彼女の肩は、極限の恐怖と悲しみで激しく震えていた。
だが、玲央は血に染まった唇を歪め、不敵な、それでいて自虐的な笑みを浮かべた。彼は震える手で美奈の細い腕を掴み、力を込める。
「馬鹿を言うな、美奈……。僕たちが一歩でも退けば、その瞬間にすべてが破滅する。地下牢に幽閉されている父上や一族全員が、あの羅刹の巨大な戦斧『血河』の錆にされるのだ。僕が、あの化け物どもの前で完璧な『魔王』であり続けることだけが、一族を生かす唯一の盾なんだ」
玲央は『不動心』の瞑想を稼働させ、乱れる呼吸を無理やり調律していく。慈恵尼から授かった呼吸法を用い、肺の痙攣を力ずくで抑え込む。喉から火を噴くような苦痛が続くが、彼の瞳には、冷徹な知将としての鋭い光が戻っていた。
「それに……羅刹は去り際に『試突』を要求していった。朝会において、衆人環視の前で僕の手首を掴み、内力を流し込むと。それが何を意味するか、分かっているな?」
美奈は息を呑み、血の気が引いた顔で頷いた。
「試突……。脈門を掴まれ、内力を直接経絡に流し込まれれば……兄様の『経絡の完全閉塞』が一瞬で露見します。内力を一滴も持たないただの凡夫であることが、魔殿の全員に知れ渡ってしまう……」
「そうだ。武功ゼロの正体がバレれば、その場で僕たちは八つ裂きにされる。羅刹の『試突』を回避する猶予は、朝会までのわずかな時間しかない。力で防ぐことは不可能だ。ならば――奴の脳を、精神を、内側から完璧に破壊して、僕の身体に触れることすら恐れるように仕向けるしかない」
玲央は立ち上がり、重厚な黒金外套の裾を翻して、寝所の最奥へと歩を進めた。そこには、先代覇王・夜叉が狂気の実験や秘術の研究を行っていた「万魔の地下牢」へと続く、隠し回転壁が存在する。玲央は壁の特定の窪みに指を差し込み、特殊な回転鍵を作動させた。重い石壁が音もなく滑り開き、冷たく湿った、死臭の混じる風が吹き抜ける。
玲央はその暗黒の空間から、一冊の古い帳簿を取り出した。黒い漆塗りの表紙に、禍々しい天魔の紋章が刻まれた禁忌の書――『天魔機密簿』である。
「美奈、これを見てくれ」
玲央は机の上に帳簿を広げ、蝋燭の微かな火に照らした。そこには、先代覇王が数十年にわたり、天魔殿の幹部たちの弱みや不正を網羅して記録した暗号文が並んでいた。
「地下牢の父上や徳次郎叔父上は息災か?」
「はい。私が侍女の配給を装って地下牢へ近づいた際、徳次郎叔父上が看守の目を盗んで、このメモを私に託してくださいました」
美奈が差し出したのは、粗末な布切れに炭で細かく書かれた、数字の羅列だった。風間書院の帳簿を管理していた叔父・徳次郎は、武功こそないが数字に対する異常な天才だった。彼は幽閉されている黒金鉱山の強制労働の中で、天魔殿の武器製造の生命線である「黒鉄鉱山」の帳簿のわずかな不整合を、看守たちの会話から看破していたのだ。
「さすがは徳次郎叔父上だ」
玲央は叔父のメモと『天魔機密簿』の暗号を照らし合わせ、脳内で「因果の数式」を狂気的に組み立てていった。祖父・勘兵衛から叩き込まれた異常な記憶力と数理能力が、暗闇の中で火花を散らす。文字と数字が、玲央の脳内で一本の線へと繋がっていく。
「……見えたぞ。右護法・羅刹の致命的な急所が」
玲央の唇が、冷酷な弧を描いた。
「羅刹は、天魔殿の年間予算の七割を占める黒鉄鉱山の採掘資源を、過去五年にわたり組織的に横領している。その総額、実に五万両。奴はその莫大な裏金を、正邪の緩衝地帯である『霧隠の宿場町』の闇市場へ流し、密かに私兵五百人を雇い入れている。これこそが『右護法・羅刹の隠し財産』の真実だ」
美奈は驚愕に目を見開いた。
「私兵を五百人も……? それは、先代覇王様に対する謀反の準備だったということですか?」
「その通りだ。羅刹は覇王の座を奪うため、虎視眈々と牙を研いでいた。だが、先代覇王が急死したことで、奴は焦っている。僕の正体を暴き、自らが新たなる魔王として君臨するためにね。この横領と私兵の証拠を朝会で突きつければ、奴は『不敬の謀反人』として、他の護法たちや三千の鉄血魔兵から命を狙われることになる。これ以上の脅迫材料はない」
玲央は天魔機密簿を静かに閉じた。だが、彼の表情から緊張は消えなかった。彼の鋭い大局観は、それだけでは「試突」を完全に回避できないことを予測していた。
「しかし、美奈。羅刹は戦闘狂だ。精神的に追い詰められた奴が、理性を失ってその場で僕に襲いかかる可能性は極めて高い。その瞬間、僕が奴の突撃を物理的に回避できなければ、その場で押し潰されて死ぬ。僕には奴の内力を防ぐ術がないからな」
「では、どうするのですか? やはり、試突の舞台に上がる前に、羅刹を毒殺するしか……」
「いや、毒殺は足がつく。奴の『力』そのものを、舞台の上で物理的に無力化する装置が必要だ。羅刹の愛用する戦斧『血河』は、黒金鉱山から採掘された純度の高い『黒鉄』で鍛えられている。極めて頑強だが、それゆえに『磁力』に対して致命的に弱い」
玲央は机の上に、天魔殿の中庭にある「試突の舞台」の設計図を広げた。
「舞台の下の地盤を削り、そこに天然の巨大な磁鉄鉱を敷き詰める。僕が足元の隠しスイッチを踏んだ瞬間、舞台の下の鉛の遮蔽板がスライドし、超強力な磁力が開放されるからくりを作るんだ。羅刹が突撃してきた瞬間、奴の戦斧は強烈な磁力で地面に吸い付く。奴は自身の内力の慣性によって、勝手に前方に転倒し、自滅する。誰もがそれを『覇王の不可思議な妖術』と錯覚するはずだ」
美奈は兄の恐るべき神算鬼謀に、言葉を失って立ち尽くした。武功を持たない兄が、物理法則と敵の武器の材質すらも利用して、超一流の達人をハメ殺そうとしているのだ。
「そのからくりを設置できるのは、一人しかいない」
玲央は懐から、半兵衛の帳簿から監査・没収した「魔殿の横領裏金」の金印を取り出した。魔殿の予算とは隔離された、数万両の黄金の割符。これがあれば、裏社会のいかなる怪物も動かすことができる。
「伊賀流の抜け忍にして、伝説の罠師――百地三太夫(ももちさんだゆう)。金さえ払えば、天魔殿の周囲に即死の罠を仕掛ける工作員だ。美奈、この裏金の割符と、僕の書いた設計図を、霧隠の宿場町にいるお蓮に届けてくれ。彼女のルートを使えば、百地三太夫に極秘裏にコンタクトが取れる」
玲央は懐から絹の書状を取り出し、美奈の手へと握らせた。そこには、百地三太夫が解読できる特殊な暗号と、中庭の舞台の改築指示がミリ単位で記されていた。
「美奈、これは極めて危険な任務だ。お清や夜叉鴉の密偵が、お前の動きを監視している。細心の注意を払ってくれ。お前が捕まれば、僕たちの命はそこで終わる」
「わかっています、兄様」
美奈は書状をしっかりと小袖の奥へと隠し、その澄んだ瞳に決死の覚悟を宿した。
「一族の命と、兄様の命……私が必ず守り抜きます。お蓮様の元へ、無事にこの書状を届けてみせます」
「頼んだ、美奈。……気をつけて行くんだぞ」
美奈は小さく頷くと、寝所の隠し扉から、闇に紛れるようにして音もなく這い出していった。扉が静かに閉まり、玲央は再び、広い寝所の中に一人取り残された。
静寂が、玲央の周囲を重苦しく包み込む。喉の焼け付くような痛みが再びもたげ、玲央は力なくベッドの縁に腰掛けた。鉄仮面を傍らに置き、青白い月光が差し込む窓をじっと見つめる。
(百地三太夫が舞台の工作を完了するまで、あと三日……。それまでに羅刹が動けば、すべては瓦解する。僕は、この薄氷の上の盤面を、最後まで欺き通せるか?)
その時だった。
玲央の脳内に、祖父から叩き込まれた「絶対予測」の感覚が、微かな不協和音を響かせた。耳を澄ませた玲央の鼓膜に、寝所の天井裏から、極めて微細な、不自然な音が届いたのだ。
――*ス、スス……*――
それは、風の音ではない。人間の衣擦れの音でもない。まるで、極細の粘着質な糸が、冷たい石壁の表面を滑り落ちるような、不気味で金属質な摩擦音だった。
玲央の身体が、一瞬にして凍りついた。天井裏の闇の中に、何者かの殺気が、静かに、だが確実に漂い始めている。
美奈が去ったばかりのこの寝所に、防壁のない玲央の真上に、目に見えない死の糸が、今、ゆっくりと垂れ下がろうとしていた。
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