帳の裏の生者
「覇王様! 右護法・羅刹、拝謁を求めに参りました!」
地鳴りのような声が、重厚な鉄門を震わせ、寝所の中にまで響き渡る。扉の向こうから放たれるのは、超一流の武芸者だけが持つ、肌を刺すような冷たい殺気――「血海魔功」の威圧感だった。
(来たか……!)
鉄仮面の奥で、風間玲央の瞳が鋭く細められた。心臓が早鐘を打ち、全身の血が逆流するような恐怖が襲いかかる。経絡が生まれつき完全に閉塞した「武功ゼロ」の身にとって、超一流の魔功使いである羅刹の接近は、死神の鎌が首筋に触れているのも同然だった。ここで一瞬でも取り乱し、呼吸の乱れを察知されれば、その瞬間にすべてが破滅する。
玲央は深く息を吸い込み、脳の最深部へと意識を沈めた。祖父・勘兵衛から叩き込まれ、枯木禅師の瞑想法によって研ぎ澄まされた精神技術――『不動心(ふどうしん)』を稼働させる。恐怖を客観的な数字として処理し、自らの心拍数と呼吸のテンポを、大地の微細な振動と同調させるようにして強制的に一定に保つ。冷や汗が引き、指先の震えがピタリと止まった。瞳から一切の動揺が消え去り、冷徹な仮面の支配者としての精神の鎧が完成する。
玲央は部屋の隅の暗がりに潜む妹の美奈に、無言で視線を送った。美奈は青ざめた顔で小さく頷き、さらに深い闇の中へと気配を消した。
寝所の中央に置かれた巨大な天蓋付きベッド。その上には、つい先ほど毒殺された先代覇王・夜叉の死体が横たわっている。唇は不自然な紫色に染まり、全身の経絡が内側から破裂した、無惨な死顔。玲央は素早くその巨体をベッドの上に座らせ、分厚いカーテン(帳)を閉めてその姿を隠した。
そして、自身の指先に装着した特殊なリングから、光を一切反射しない黒い極細の鋼糸――『傀儡の極細鋼糸』を伸ばし、カーテンの隙間から夜叉の死体の両肩、肘、そして首の関節へと繋ぎ止める。西域の暗殺ギルドが開発したこの糸は、どれほど目の良い達人であっても暗闇で見通すことは不可能だった。
仕上げに、玲央は枕元に隠されていた香炉に火を点じた。立ち上る不気味な紫煙。これこそが、西域の遺跡から発掘された超希少な香木――『天香(てんこう)』だった。この香りを吸入した武芸者は、空気の熱対流が物理的に歪むことにより、あたかも「底知れない超一流の内力のプレッシャー」に包まれているかのような錯覚を脳内に直接引き起こされる。
「覇王様! お返事なき場合は、不敬を承知で扉を開けさせていただきます!」
羅刹の声が焦燥を帯び、ついに重厚な鉄門が不気味な音を立てて開き始めた。ゆっくりと差し込む廊下の松明の光。その光の逆光の中に、筋骨隆々とした巨体を赤黒い重鎧で包んだ男――右護法・羅刹の姿が現れた。その猛獣のような眼光が、薄暗い寝所の内部を鋭く値踏みする。
扉の外の影には、端正な黒い侍女服を着た侍女長・お清の姿が微かに見えた。彼女は羅刹の密偵であり、寝所内の動向を外から監視しているのだ。
羅刹が一歩、部屋に踏み込んだ。その瞬間、彼の「気色観察」の心眼が、室内に漂う異様な「気」の歪みを捉えた。天香の香りが彼の肺に入り込んだのだ。羅刹の足がピタリと止まる。彼の脳内では、目の前の天蓋付きベッドから、天魔山全体を押し潰さんばかりの圧倒的な暗黒の内力が、濁流のように溢れ出しているように錯覚していた。
(……この凄まじいプレッシャーは、何だ? 覇王夜叉は、本当に病に伏せっているのか……?)
羅刹の額に、微かな冷や汗が浮かぶ。だが、彼は極めて疑い深く、野心に満ちた男だった。覇王の死、あるいは深刻な衰退の確証を得るため、彼はさらに一歩、ベッドに向けて足を進めようとした。その右手が、内力を流し込んで相手の経絡を測定する『試突(しとつ)』の構えへと微かに動きかける。
その瞬間、玲央は仮面の下で『変声丹』によって焼け爛れた喉を極限まで震わせ、鉄仮面の振動板に声を共鳴させた。
「――何奴(なにやつ)」
地鳴りのような、重々しく冷酷な重低音が室内に響き渡った。夜叉そのものの、いや、それ以上に禍々しい覇王の声。その音響の衝撃波が、部屋の石壁を物理的に震わせ、羅刹の鼓膜を激しく叩いた。
羅刹の身体が、恐怖の条件反射で硬直する。
「許可なく我が寝所に立ち入るか、羅刹。その首、胴と決別したいと見える」
玲央はベッドのカーテンの影から、指先を微細に動かした。傀儡の極細鋼糸が張り詰め、カーテンの向こうに座る夜叉の死体の首が、ゆっくりと羅刹の方へと向けられた。さらに、死体の巨大な右腕が、カーテンを内側から押し上げるようにして持ち上がり、羅刹を指し示す不気味な動作を演じた。
生きている。覇王・夜叉は、あの帳の裏で間違いなく生きて、自分を睨みつけている――。
羅刹の脳裏に、かつて夜叉に逆らった幹部たちが一瞬で肉を削ぎ落とされた凄惨な光景が蘇った。天香による内力プレッシャーの錯覚と、完璧な覇王の声、そして帳の裏の不気味な動きが、彼の「気色観察」を完全に狂わせていた。
だが、その極限のサスペンスの中で、予期せぬ事態が発生した。
夜叉の死体の肩の関節が、死後硬直によって固まりつつあったのだ。玲央が糸を引いた瞬間、関節の骨同士が擦れ合い、薄暗い部屋の中に、*ギィ……*という、乾いた不自然な摩擦音が微かに響いてしまったのだ。
羅刹の猛獣のような耳が、その音を逃さなかった。彼の眼光が、一瞬にして鋭く細められる。
(……今のは、骨が軋む音? いや、まるで肉体が強張っているかのような――)
疑念の蛇が、再び羅刹の脳裏をもたげる。彼は動きを止め、ベッドのカーテンの影をじっと凝視した。万事休す。武功のない玲央の背中に、氷のような冷や汗が吹き出す。
しかし、玲央の脳細胞は、コンマ数秒の間に因果の数式を解き明かしていた。ここで沈黙すれば、不審は確信に変わる。玲央は即座に、焼け爛れた喉の奥から、肺を物理的に押し潰すような深々とした重低音の「咳払い」を響かせた。
「――ふん。不届き者が」
その咳払いと傲慢な言葉が、関節の軋み音を完璧に覆い隠した。それどころか、覇王が羅刹の不敬に対して、不快そうに鼻を鳴らしたかのように演出したのだ。
「下がれ。我が修練の邪魔をするな。これ以上の無礼は、貴様の一族の命を以て償わせるぞ」
冷酷極まりない一言。羅刹の身体から、完全に力が抜けた。彼は、自身の不敬な疑念が覇王の逆鱗に触れたと確信し、その場に深く膝を突き、平伏した。
「は、覇王様……! 羅刹、滅相もございません! ただ、覇王様の御健勝をこの目で確かめ、魔殿の安泰を確信したかっただけにございます! この無礼、何卒ご容赦を……!」
「消えよ」
玲央の短い、だが絶対的な命令。羅刹は這うようにして後ずさり、寝室の鉄門を静かに閉めて去っていった。パタン、と重厚な扉が閉まり、廊下の足音が遠ざかっていく。
「――は、あ、がっ……!」
扉が閉まった瞬間、玲央は鉄仮面を乱暴に剥ぎ取り、その場に崩れ落ちた。喉の奥からせり上がる激しい喘息の発作。変声丹の激しい毒性によって喉は焼け爛れ、激しい喀血が床を赤く染める。玲央は白い絹のハンカチで必死に血を拭いながら、激しく喘いだ。身体が、恐怖と極限の緊張、そして外套の重さで完全に悲鳴を上げていた。
「兄様!」
美奈が闇から駆け寄り、玲央の細い身体を必死に支える。だが、最初の一歩は、確かに騙し通したのだ。
しかし、寝所の扉の向こう、立ち去る羅刹の猛獣のような瞳には、冷酷な光が残っていた。彼は去り際に、扉の向こうに向かって不気味な声を残していたのだ。
「覇王様。近日の朝会にて、覇王様の御健勝を祝う演武――『試突』を拝見できることを、魔殿の者共一同、心より楽しみにしております」
試突。相手の手首を掴み、自身の内力を直接流し込んで実力を測定する武林の一般的な儀式。それが朝会で行われれば、玲央の武功ゼロの正体は、一瞬にして魔殿の全員に露呈する。
生存の安堵は束の間、玲央の前には、さらに回避不能な「物理的な死の試練」が、刻一刻と迫りつつあった。
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