深淵の鉄仮面
黒金天魔殿の最深部、覇王の寝所は、凍りつくような死の静寂に包まれていた。
「――は、っ、く……っ」
風間玲央は、口元を白い絹のハンカチで押さえ、激しい喘息の発作を必死に堪えていた。喉の奥からせり上がる血の味が、肺の痛みとともに口内に広がる。生まれつき気脈が完全に閉塞した「武功未修得(武功ゼロ)」の脆弱な肉体。それが、この弱肉強食の邪派の頂点において、玲央に与えられたあまりにも過酷な現実だった。
玲央の目の前には、天魔殿の絶対君主であり、天下無双と恐れられた天魔覇王・夜叉の巨体が横たわっている。だが、その肌はすでに土気色に変色し、見開かれた双眸からは一切の生気が失われていた。
「死んでいる……」
夜叉は急死していた。外傷はない。だが、唇は不自然な紫色に染まり、全身の気脈は完全に破裂している。何者かによる毒殺――。天下を震え上がらせた魔王のあっけない最期だった。
玲央の背中に冷たい汗が伝う。恐怖が、冷酷な蛇のようにその心臓を締め付けた。この天魔殿において、玲央と彼の一族は、夜叉に拉致されたただの「人質」に過ぎない。風間書院の書生や親族たち、そして玲央が命に代えても守ると誓った実の妹・美奈。彼らは皆、地下牢獄に囚われ、夜叉の気まぐれな慈悲だけで生かされているのだ。
もし、覇王の死がこの瞬間に露見すればどうなるか。答えは明白だった。
虎視眈々と玉座を狙う四大護法――特に、最も残虐で野心に満ちた右護法・羅刹が、即座に魔殿を掌握すべく反乱を起こすだろう。その時、真っ先に血祭りに上げられるのは、何の力も持たない風間一族だ。人質としての価値を失った書生どもなど、魔兵たちの鬱憤晴らしのために八つ裂きにされるに違いない。
(逃げるか? いや、不可能だ)
玲央は寝所の重厚な漆黒の窓から外を盗み見た。遥か階下、松明の明かりが不気味に揺れている。夜警の魔兵たちが、蟻の這い出る隙間もないほどに周囲を警戒していた。あの監視の目を掻い潜り、病弱な身で地下牢から一族を救い出して脱出するなど、生存確率は零パーセント以下だった。一歩でも動けば、その瞬間に犬死にが確定する。
「――兄様」
背後から、衣擦れの音とともに細い声が響いた。玲央が弾かれたように振り返ると、そこには薄墨色の質素な小袖をまとった少女が立っていた。玲央の妹、風間美奈だった。彼女は Shinya(神谷玄庵)から預かった玲央の喘息用の薬草湯を手に、侍女に変装して寝所へ潜入してきたのだ。
美奈はベッドの上の死体に目を留め、息を呑んだ。持っていた薬碗が微かに揺れる。だが、彼女は悲鳴を上げなかった。その大きな瞳に極限の恐怖を浮かべながらも、美奈は自身の口を手で覆い、兄を見つめた。
「覇王様が……お亡くなりに?」
「ああ。毒殺だ。おそらく、四大護法の誰かの仕業、あるいは外部の者の陰謀だろう」
玲央は美奈の肩を抱き寄せ、その耳元で極限まで声を潜めて囁いた。
「美奈、よく聞くんだ。僕たちが生き延びる道は、もう一つしかない。僕が一族を救い出すまで、この男が『生きている』と世界に信じ込ませるんだ。僕が、天魔覇王になる」
美奈は驚愕に目を見開いた。武功を一切持たず、風が吹けば倒れるような病弱な兄が、天下に悪名を轟かせる魔王を演じるというのか。だが、美奈は兄の双眸に宿る、冷徹なまでの光を見た。それは、祖父から叩き込まれたあらゆる学問と兵法を極限まで稼働させた、知将の瞳だった。
「わかりました」美奈は小さく、だが断固とした声で頷いた。「私は兄様の影となります。 Shinya 先生の薬草と、私の知る限りの調合知識で、兄様を支えます」
時間がない。羅刹がいつ「拝謁」と称してこの部屋に踏み込んでくるか分からないのだ。
玲央は夜叉の巨体から、禍々しい彫刻が施された黒金の「覇王の鉄仮面」を剥ぎ取った。ずっしりとした金属の冷たさが、玲央の指先を痺れさせる。続いて、肩幅を広く見せるための頑強な内骨格が仕込まれた「覇王の黒金外套」を回収し、自身の細い身体に羽織った。外套のあまりの重さに、玲央の膝が物理的に崩れそうになる。骨が悲鳴を上げ、呼吸が再び浅くなるのを、玲央は歯を食いしばって堪えた。
そして、玲央は懐から一本の小さな薬瓶を取り出した。老医師・神谷玄庵の庵から、万が一の時のために美奈が極秘裏に盗み出していた特殊薬物――『変声丹』だった。
(これを飲めば、僕の喉は焼け爛れる。本来の声を失う代償を支払うことになる)
だが、躊躇している時間は一秒もなかった。玲央は瓶の栓を引き抜き、中の赤黒い液体を一気に喉へと流し込んだ。
「――っ、あ、ぐっ……!」
凄まじい激痛が玲央を襲った。喉の奥に沸騰した溶岩を直接注ぎ込まれたかのような、凄まじい灼熱感。声帯の筋肉が物理的に硬化し、無理やり引き伸ばされていく。玲央は床に膝を突き、激しく喀血した。白い絹のハンカチが、一瞬にして鮮血で赤黒く染まる。激しい喘息の発作が誘発され、肺が破裂しそうな苦痛にのたうち回るが、玲央は声を出さずに耐え抜いた。
「兄様!」美奈が駆け寄り、背中をさする。玲央は手を振って彼女を制し、這い上がるようにして立ち上がった。
鉄仮面を顔に装着する。冷たい金属が肌に密着し、仮面の内部にある真鍮の振動板が、玲央の呼吸を不気味な金属音へと変換した。玲央は、焼け爛れた喉を震わせ、初めて「声」を発した。
「……美奈、聞こえるか」
その口から発せられたのは、玲央の病弱な声ではなかった。地鳴りのように重々しく、聞く者の魂を直接震わせるような、あの冷酷無比な覇王・夜叉の「重低音」そのものだった。変声丹の毒性と、鉄仮面の音響増幅機能が見事に融合し、完璧な偽装の声を作り出したのだ。
「はい、兄様……完璧です。まるで、本物の覇王様がそこに立っているかのような……」
美奈の言葉に、玲央は仮面の下で静かに冷笑を浮かべた。生存確率ゼロの絶望の淵から、ハッタリという唯一の武器を握りしめ、僅か一パーセントの生存の可能性を掴み取ったのだ。
その瞬間だった。
天魔殿の廊下の奥から、地響きのような足音が近づいてきた。重厚な鉄の甲冑が擦れ合う不気味な音。そして、超一流の武芸者だけが放つ、周囲の空気を物理的に歪ませるほどの圧倒的な内力(気)のプレッシャーが、寝室の扉を抜けて室内に流れ込んできた。
右護法・羅刹――覇王の死を最も強く疑い、簒奪の機会を狙う死神が、ついに動いたのだ。
足音は寝室の扉のすぐ前でピタリと止まった。次の瞬間、地鳴りのような内力を帯びた拳が、重厚な鉄門を乱暴に叩き叩く音が室内に響き渡った。
「覇王様! 右護法・羅刹、覇王様の御体を案じ、拝謁を求めに参りました!」
扉を震わせる羅刹の傲慢な声が、玲央の耳元に突き刺さる。正体がバレれば、一族即処刑。武功ゼロの偽物の命が、今、極限の死線の上に晒されようとしていた。
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