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奇医の金針と絶頂の脈象

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パチパチと爆ぜる松明の赤い光が、冷え切った禁書庫の石壁に不気味な影を落としていた。一歩、また一歩と近づく重苦しい足音。華山派の規律そのものの化身である執法長老、鉄面判官(テツメン・ハンガン)の気配が、本棚の影に身を潜める古小魚(コ・ショウギョ)の皮膚を刺すように冷たく包み込む。彼の右手には真鍮製の判官筆が握られ、夜気の中で鈍く光っていた。


「……ふむ。扉の角度が、コンマ数ミリずれているな」


鉄面判官の冷徹な声が、静まり返った書庫に響く。松明の光が床を舐めるように移動し、小魚が潜む本棚の角へと迫る。光が彼の借り物の金糸大袍(きんしだいほう)の裾を照らし出すまで、あと数寸。胃の奥から焼けるような激痛が突き上げ、冷や汗が顔に貼り付けた「蛇皮の変装マスク」の接着剤をじわじわと溶かしていく。肺が空気を求めて激しく痙攣するが、小魚は自らの唇を噛み切ることで強引に呼吸を止めた。ここで見つかれば、深夜の禁地侵入の罪で即座に拘束され、武功が皆無である偽物の正体が一瞬で暴かれる。


(落ち着け……。一流の嘘つきは、まず自分自身を騙す。俺は今、本物の武林盟主、沈長青だ……!)


パニック耐性を極限まで稼働させ、小魚は喉の奥を震わせた。喉の粘膜を激しく摩耗させながら、沈長青の重厚で威厳に満ちた声を完璧に再現する腹話術「死人の声」を放つ。


「……何用だ、鉄面判官」


暗闇の奥から響いたその声に、鉄面判官の足音がピタリと止まった。松明の光が激しく揺れる。鉄面判官は驚愕の表情を浮かべ、声のした暗闇に向かって深く一礼した。


「め、盟主様……! まさか、このような深夜に禁書庫におられるとは思いも寄らず、無礼をいたしました」


「案ずるな。神竜気功の乱れを整えるため、歴代先祖の瞑想法を記した古文書を調べていたのだ。人目を避ける必要があったため、深夜に一人で入った。お前の鋭い警戒眼は、華山の規律が健在である証拠。見事だ」


小魚は冷や汗を流しながらも、一分の隙もない口調で語りかけた。鉄面判官は、その言葉に一切の疑いを挟むことなく、自らの無礼を深く恥じ入った。


「私の浅はかな疑念により、盟主様の極秘の修行を妨げてしまいました。ただちに退散いたします。どうぞ、心行くまでお調べください」


鉄面判官は静かに扉を閉め、通路の奥へと立ち去っていった。その足音が完全に消え去った瞬間、小魚は床に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。懐に隠した二長老・趙無極(チョウ・ムキョク)の公金横領の裏帳簿を強く握りしめ、彼は静心閣の秘密の脱出路へと這うようにして戻った。


翌朝、静心閣の執務室に、財務担当である二長老・趙無極が呼び出された。趙無極はいつものように細いネズミのような目を光らせ、黒檀の算盤をパチパチと弾きながら、慇懃無礼な態度で小魚を見上げた。


「盟主様、急な呼び出しとは何事でございますか? からくり装置の開発資金として五千両を無心されたと包子(パオズ)から聞きましたが、盟主府の財政は火の車。そのような不審な支出は認められませんな」


小魚は何も言わず、ただ重々しい沈黙を保った。そして、懐から昨夜盗み出した裏帳簿の、趙無極の署名が入った一ページを静かに机の上に置いた。


趙無極の算盤を弾く指が、一瞬で凍りついた。額から滝のような冷や汗が吹き出し、赤ら顔がみるみるうちに土色へと変わっていく。


「こ、これは……なぜ盟主様がこれを……!」


「三万二千両。揚州の塩商ギルド・金万両(キン・マンリョウ)と結託し、過去三年間にわたり盟主府の公金を洗浄し、私腹を肥やしていた記録だ。趙無極、これがお前の言う『火の車』の正体か?」


小魚の冷徹な「死人の声」が、趙無極の耳元で死神の囁きのように響く。趙無極は椅子から滑り落ちるようにして床に跪き、床に頭を何度も叩きつけた。


「め、盟主様! どうか、どうかお慈悲を! 大長老たちには、どうかご内密に! 要求された五千両……いや、一万両でも今すぐ極秘裏に用意いたします!」


「分かればよい。その資金はすべて包子に渡せ。二度と私の要求に疑問を挟むな」


最初の脅迫交渉は完璧に成功した。主従関係は逆転し、小魚はハッタリを維持するための莫大な活動資金を確保した。しかし、勝利の余韻に浸る時間は一瞬も与えられなかった。


バタンと、静心閣の重厚な扉が乱暴に押し開けられた。現れたのは、武術指導を担当する厳格な三長老・独孤勝(ドッコ・ショウ)と、その後ろに佇む冷徹な実娘・謝青桜(シャ・セイオウ)だった。青桜の鋭い眼光は、小魚の顔の変装マスクの境界線を射抜くように凝視している。


「盟主、お体の具合はいかがかな?」


独孤勝が、大剣を背負った巨躯を揺らしながら歩み寄ってきた。その声には、隠しきれない不信感が混じっている。


「手合わせを拒み、不戦の教えなどという奇妙な理屈で弟子を煙に巻く。沈長青ともあろう者が、あまりにも弱腰ではないか。我ら華山派の威光を保つためにも、お前の内力が本当に回復しているか確かめねばならん」


小魚は胃の奥がキュッと縮こまるのを感じた。隣に立つ謝青桜が、冷たい声で追撃する。


「父上。三日後、盟主府の最深部にある『封印石室(フウインセキシツ)』にて、三長老全員と私の立ち会いのもと、内力測定の儀式を強行いたします。直接手首を握って脈を診れば、神竜気功の回復具合は一目瞭然。拒否は許されません」


内力測定。直接の手首の接触。それは武功が皆無である小魚にとって、完全な死刑宣告に等しかった。達人たちが彼の脈を診れば、内力が塵ほどもない「凡人」であることが一瞬で露呈する。


「……よかろう。三日後、その目で確かめるがいい」


小魚は「死人の声」で超然と答えたが、彼らが去った瞬間、ベッドの上で胃を押さえてのたうち回った。冷や汗でマスクが剥がれかけ、呼吸が荒くなる。


「死んだ……。今度こそ本当に死んだぞ、包子……!」


部屋の隅から現れた包子も、顔面蒼白で頭を抱えていた。しかし、包子は何かを思い出したように顔を上げた。


「小魚、まだ手が一つだけある! 華山の麓の宿場町『玉泉鎮(ギョクセンチ)』の廃屋に、数日前から『盲目の奇医・沈黙(ジン・モク)』が極秘裏に滞在しているらしい。あのお方は、かつて俺たちの親父・古千手に命を救われた恩義がある。あの人の医術なら、お前の脈を一時的に達人のものに偽装できるかもしれない!」


その日の深夜、小魚は「極秘の瞑想修行に入る」という嘘の看板を静心閣の前に掲げ、包子の手引きで山を下りた。夜霧が立ち込める玉泉鎮の路地裏。湿った土と、干した薬草の強烈な匂いが漂う、荒れ果てた廃屋の扉を叩いた。


ギィと不気味な音を立てて扉が開く。薄暗い部屋の奥、麻の粗末な衣をまとった老人が、一本の竹の杖を膝に置いて静かに座っていた。長い白髭を蓄え、その両目は白く濁っている。彼こそが、江湖で恐れられる盲目の奇医、沈黙だった。


「……誰だ。足音が軽いな。内力の響きが一切ない、ただの凡人の足音だ」


沈黙の濁った目が、正確に小魚の方向を捉えた。小魚は意を決し、変装マスクの端を少しだけ剥がして、自身の本物の声を絞り出した。


「沈黙先生。俺は古千手の息子、古小魚です。今、訳あって沈長青の身代わりを演じています。三日後に内力測定があり、脈を達人のものに偽装しなければ、俺も、俺の仲間も全員殺されます。助けてください」


沈黙は一瞬だけ表情をこわばらせたが、次の瞬間、地鳴りのような大笑いを響かせた。


「ワハハハハ! 古千手の小倅が、あの天下無双の沈長青を演じているだと? 武功も内力も皆無のドブネズミが、武林の頂点に座っているとは、これ以上の傑作はない!」


沈黙は笑いながら立ち上がり、目にも留まらぬ速さで小魚の手首を掴んだ。その指先が小魚の橈骨動脈に触れた瞬間、沈黙の笑いが消えた。


「……確かに、完璧な凡人の脈だ。経絡は細く、内力の『な』の字もない。だが、お前、この極限の状況で心拍数が全く乱れていないな。恐怖を脳の奥に押し込める、異常な精神の持ち主だ。父親譲りの大嘘つきめ」


沈黙は掴んでいた手を離し、竹の杖で床を叩いた。


「いいだろう。朝廷の拷問で目を潰されたこの老いぼれにとって、武林の傲慢な達人どもが泥棒のハッタリに騙される姿を見るのは、この上ない娯楽だ。お前に『脈象偽装術(みゃくしょうぎそうじゅつ)』を授けてやる」


沈黙は懐から、鈍い光を放つ小さな木箱を取り出した。中には、髪の毛よりも細く、しかし異様な硬度を持つ十二本の「脈象偽装用の銀針」が整然と並んでいた。


「『金針渡劫(きんしとごう)』。手首の『内関穴(ないかんけつ)』からこの針を刺し込み、特定の経絡を物理的に圧迫することで、一時的に心臓の鼓動を暴れ馬のように変え、達人の『龍脈(りゅうみゃく)』を人工的に発生させる。だが、これには凄まじい代償が伴う」


沈黙は一本の銀針を指先で弄びながら、冷酷な笑みを浮かべた。


「針が骨の隙間を通り、経絡を直接押し潰す。その痛みは、骨をノコギリで削られるが如き激痛だ。お前のような凡人の肉体では、痛みのあまりショック死するか、あるいは恐怖で心拍数を乱せば、血流が逆流して心臓が破裂し、即死する。それでもやるか?」


小魚の喉が、緊張でゴクリと鳴った。手首の内側を見つめる彼の目は、恐怖で微かに震えていた。しかし、ここで逃げ出せば、三日後に待っているのは華山派の刃による、さらに無惨な死だ。揚州の阿妙や紅おばさんの顔が、脳裏をよぎる。


「……やります。俺には、嘘を真実にする以外に生きる道はない」


「気に入った」


沈黙は小魚の左手首を強引に引き寄せ、机の上に固定した。そして、一本の銀針を手に取り、その先端を小魚の手首の、青い血管が浮き出た位置へと押し当てた。


「『麻沸散(まふつさん)』を飲ませてやるが、経絡の奥の痛みまでは消えん。鼓動を一定に保て。恐怖に支配された瞬間、お前はここで死体となる」


小魚は包子から渡された麻沸散の液体を喉に流し込んだ。全身の感覚が微かに痺れていく。しかし、沈黙が銀針を垂直に皮膚へと突き刺した瞬間、その痺れなど一瞬で吹き飛ぶほどの、この世のものとは思えない激痛が小魚の肉体を貫いた。


「ぎ、あ、あアアアッ――!」


悲鳴が喉元までせり上がったが、小魚は自らの奥歯が砕けるほど強く噛み締め、声を殺した。痛い。痛い。熱い鉄の釘を、骨の芯に直接打ち込まれているような感覚。針がミリ単位で皮膚の奥へと侵入するたびに、全身の筋肉が激しく硬直を始める。


(鼓動を……一定に……。乱すな……!)


小魚は「嘘を真実にする心理術」を起動し、自身の脳に「この痛みは偽物だ、俺は今、静かな水面に浮かんでいる」と強烈な自己暗示をかけた。心臓が恐怖で激しく叩きそうになるのを、泥棒の極限の精神力で無理やり抑え込む。額から脂汗が吹き出し、床の塵を濡らしていく。


沈黙は小魚の脈動を指先で測りながら、驚嘆の声を漏らした。


「ほう……。この激痛の中で、心拍数をこれほど一定に保つとはな。凡人でありながら、お前の精神の硬度は、一流の達人をも凌駕しているぞ」


沈黙は針の深さを微調整した。小魚の手首の経絡が物理的に圧迫され、彼の内側で、まるで暴れ馬が駆け抜けるような、重厚で力強い鼓動が脈打ち始めた。それは、脈象の九段階における最高峰、天人合一の達人だけが持つとされる伝説の「龍脈」そのものだった。


「……できたぞ。これが達人の脈だ」


沈黙が手を離した。小魚は激しい虚脱感と貧血に襲われ、机の上に倒れ込んだ。手首からは一筋の黒い血が流れ落ちていた。麻沸散の効果が切れ始め、骨の奥からのたうち回るような鈍痛が再び襲ってくる。指先は完全に麻痺し、泥棒としての器用な動きすら一時的に失われていた。


「この針は三日間、お前の手首に留まる。測定の直前、指先で針をさらに一ミリ押し込めば、五分間だけこの龍脈が発現する。だが、五分を過ぎれば経絡が破裂し、本物の廃人となる。忘れるな」


小魚は震える右手で、左手首の内側に埋め込まれた、皮膚の裏で微かに青く光る針の感触を確かめた。これは、彼が手に入れた最強にして最凶の命綱だった。


静心閣へ戻る道中、夜霧の中から、包子が血相を変えて走ってきた。その手には、華山派の緊急の伝令書が握られていた。


「小魚! 大変だ! 三長老の独孤勝が、予定を早めて、明朝に『内力測定の儀式』を強行すると盟主府内に通達した!」


「な、んだと……?」


小魚は左手首の激痛を抱えながら、絶望の淵に立たされた。三日間の猶予は消え去り、残された時間は、あと数時間しかなかった。

HẾT CHƯƠNG

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