鞘に潜む楔と抜けない剣
朝霧が立ち込める華山派の演武場(エンブジョウ)は、肌を刺すような冷気に包まれていた。切り立った崖に囲まれた広大な石畳の上では、すでに数百人の内門弟子たちが剣を振るい、鋭い風切り音を響かせている。
その演武場を見下ろす高台に、古小魚(コ・ショウギョ)は立っていた。亡き盟主・沈長青の遺品である豪華な「金糸大袍」を身にまとっているが、細身の小魚にはサイズが大きすぎて、肩の部分が不自然に浮いている。白檀の香煙が漂う中、小魚は冷や汗を必死に抑え、威厳に満ちた絶対強者の仮面を被っていた。
(胃が……胃が捩れるように痛い……!)
小魚は内心で涙を流していた。昨夜、謝青桜の執拗な尋問を切り抜け、薬草係の阿蘭から貰った「養胃散」を服用したおかげで、激痛自体は治まっている。しかし、極度の緊張と薬の副作用のせいで、彼の顔色は病人のように青白く、それが奇妙なことに「俗世を超越した達人の風格」を周囲に醸し出していた。喉元には、拉致された夜に大長老・沈虚舟の剣によってつけられた微細なかすり傷が、今も赤く残っている。
弟子たちの視線が、高台の「盟主」に集まる。彼らの目は畏敬に満ちていた。昨夜、監視役の侍女・柳葉が「盟主様は全身を神聖な微振動で震わせ、青白い熱気を放ちながら神竜気功の極致を練成しておられた」と報告した噂は、すでに府内に広まっていたのだ。
だが、その盲目的な崇拝を物理的に粉砕しようとする影が、小魚の目の前に立ちはだかった。
「師父! 我が剣術の未熟な点、ぜひともご指導いただきたく存じます!」
重々しい足音と共に一歩前に踏み出したのは、華山派の一番弟子であり、若手世代の筆頭格である岳飛雲(ガク・ヒウン)だった。二十歳という若さでありながら端正な顔立ちに鋭い眼光を宿し、青い長衣を着こなしたその姿は、傲慢な天才そのものだった。その手には、名剣「飛雲剣」が握られている。
岳飛雲の背後には、武闘派長老・雷震天の息がかかった者たちが、冷ややかな笑みを浮かべて控えていた。この挑戦は、沈長青の復活を疑う雷震天が仕掛けた、最初の直接的な武力テストだった。
(まずい……戦えば一瞬で首と胴体が泣き別れだ!)
小魚の心臓が激しく脈打つ。内力が完全に皆無である自分が、岳飛雲のような「深遠」の境地に達した達人と刃を交えれば、次の瞬間には肉体が破壊されて死亡する。変装マスクの接着剤も、冷や汗のせいでいつ剥がれるか分からない。
岳飛雲は不敵な笑みを浮かべ、名剣「飛雲剣」の柄に手をかけた。
「師父が神竜気功の新たな境地に達したと聞き、この飛雲、胸の高鳴りを抑えられません。さあ、手合わせをお願いいたします!」
周囲の弟子たちが息を呑み、静寂が演武場を支配する。小魚は一歩も動かず、ただ右手に持った仕掛け鉄扇「玄機」を優雅に弄んだ。これこそが、泥棒としての極限の精神力――「嘘を真実にする心理術」の起動だった。恐怖を脳の奥底に押し込め、冷徹な強者の微笑みを作り出す。
そして、小魚は口元を一切動かさず、喉の奥を震わせて沈長青の重厚な声を響かせた。唐三彩から学んだ腹話術「死人の声」である。
「……飛雲よ。お前は、剣の本質を何だと考えている?」
その低く響き渡る声に、岳飛雲は一瞬、気圧されたように眉をひそめた。だが、すぐに胸を張って答える。
「剣とは、敵を討ち、己の正義を貫くための刃にございます!」
「愚かな」
小魚は冷酷に言い放ち、鉄扇「玄機」をパッと開いて見せた。その派手な動作と、金糸大袍のきらめきに、弟子たちの視線が一斉に引き寄せられる。神盗の父から叩き込まれた「視線誘導(ミスディレクション)の法則」だ。全員の注意が小魚の右手に集まったその瞬間、演武場の隅、野次馬に紛れていた肥満体の男――泥棒時代の相棒である包子(パオズ)が、静かに動き出した。
包子は盟主府の厨房の丁稚に変装し、手洗いのための温かい手拭いを盆に載せて、岳飛雲の背後へと音もなく近づいていく。弟子たちの視線が小魚の鉄扇に釘付けになっているため、誰も包子の接近に気づかない。
「真の強者は、剣を抜くことすらしない」
小魚は「死人の声」で、時間を稼ぐための説教を続けた。亡き沈長青の日記に書かれていた「武力による支配の限界」という言葉を、あたかも今思いついたかのように深遠に語る。
「剣を抜くという行為は、己の内に宿る『恐怖』と『執着』の現れに過ぎん。飛雲、お前の剣には、名声への渇望という醜い迷いが満ちている。そのような濁った心で、我が剣を受ける資格があると思うか?」
「なっ……!」
岳飛雲のプライドが激しく傷つき、その顔が怒りで赤く染まる。彼は無意識に、背後の包子の存在を完全に忘れて小魚を睨みつけた。その一瞬の隙を、包子は見逃さなかった。
包子は盆を捧げ持つ動作の陰で、肥満体とは思えぬ神速の手先を動かした。スリの技術を応用した「鞘のロック細工」である。彼のしなやかな指先が、岳飛雲の腰に帯びられた「飛雲剣」の鞘の鯉口(吸い口)に触れた。その隙間に、あらかじめ用意していた極小の、肉眼では見えない特殊な金属の楔(ウェッジ)を、音もなく一瞬で打ち込んだのだ。これで剣の刀身は、鞘の内部の金属部品と完全に噛み合い、物理的に固定された。
工作を終えた包子は、何事もなかったかのように一礼し、群衆の中へと溶け込んで消えた。高台の小魚は、包子の親指が微かに立ったのを見逃さなかった。仕掛けは完了した。
小魚は静かに鉄扇を閉じ、岳飛雲を見下ろした。
「どうしても私の指導を受けたいと言うなら、良いだろう。ただし、私はお前を傷つけたくはない。不戦の誓いを示すため、私は一歩も動かず、手も触れん」
小魚は両手を背中に回し、完全に無防備な姿勢を取った。演武場にどよめきが広がる。一歩も動かず、手も触れずに、華山派一番弟子の剣をあしらうというのか。
「飛雲。私に触れることなく、まず己の剣を抜いてみせよ。もし剣を抜くことすらできぬなら、お前には私と戦う資格はない」
「ふん、大言壮語を! 抜けない剣などあるものか!」
岳飛雲は叫び、右手に力を込めて飛雲剣を引き抜こうとした。
シャリ、という鈍い金属音が響いたが、剣は一寸たりとも鞘から出てこない。岳飛雲の顔から笑みが消えた。
「……なに?」
彼は再度、今度は腰を落として力任せに柄を引いた。しかし、鞘の内部に打ち込まれた楔は、引けば引くほど刀身を締め付ける構造になっている。剣はまるで、巨大な岩石に溶接されたかのように、完全に固着していた。
岳飛雲は焦り、体内の内力「紫気神功」を急激に練り上げた。彼の身体から青いオーラ(内力)が立ち上り、その強大なエネルギーが剣へと注ぎ込まれる。しかし、彼が内力を込めれば込めるほど、鞘の内部の楔は圧迫され、凄まじい摩擦熱を帯びていく。剣全体が微かに震え、熱気を放ち始めた。
(よし……! かかった!)
小魚は内心で快哉を叫んだ。一流の剣士は、自分の技術が通じない時、それを物理的な手品ではなく、相手の圧倒的な「見えない内力」のせいだと解釈する習性がある。父親の教えは正しかった。
岳飛雲の目には、高台に立つ「沈長青」が、微動だにせず冷徹な眼光で自分を見下ろしている姿しか映っていなかった。そして、自分の愛剣が、目に見えない強大な気功の壁によって、鞘の中に完全に「封印」されているように感じられたのだ。剣から伝わる熱気は、師父が放つ神竜気功の熱波に違いないと、彼の脳は完全に誤認した。
「くっ……、あああ!」
岳飛雲は両手で柄を掴み、全身の力を振り絞って引いたが、剣はピクリとも動かない。彼の内力が逆流し、喉の奥から微かに血の味が広がった。精神的な敗北感が、彼の傲慢なプライドを内側から粉砕していく。
「……ここまで、ですか……」
岳飛雲の手から力が抜け、彼はその場にがっくりと膝をついた。名剣を鞘に収めたまま、地面に両手をつく。その顔面は蒼白になり、額からは冷や汗が滴り落ちていた。
「師父の……目に見えぬ内力が、私の剣を、経絡ごと封印した……! 我が未熟、思い知らされました!」
岳飛雲の絶叫が、演武場に響き渡る。周囲の数百人の弟子たちは、一瞬の静寂の後、地鳴りのような歓声を上げた。一歩も動かず、手も触れずに、絶頂に達しつつある一番弟子の剣を完全に無力化したのだ。これこそが、天人合一の境地、伝説の神竜気功の威力だと、誰もが信じて疑わなかった。弟子たちは一斉に、小魚に向かって平伏していく。
小魚は、背中に回した両手を大袍の袖の中で固く握りしめ、安堵の息を吐き出そうとした。
(生き延びた……。包子、よくやった……!)
しかし、その安堵は、演武場の片隅から注がれる「冷たい視線」に気づいた瞬間、一瞬で凍りついた。
群衆の後方、大柱の影に、謝青桜(シャ・セイオウ)が静かに佇んでいた。彼女は平伏する弟子たちの中で唯一、立ったまま、冷徹な瞳で高台の小魚をじっと見つめていた。その美しい顔には、驚嘆の色はなく、ただ深淵を覗き込むような、鋭い疑惑の光だけが宿っていた。
(……父上が、こんな回りくどい、手品のような方法で弟子を指導するはずがない。あの一瞬、何が起きた?)
彼女の視線が、小魚の変装マスクの境界線へと向けられる。小魚の喉元が、恐怖でゴクリと鳴った。第一の関門は突破した。しかし、彼女の疑念という、さらに深く冷たい影が、偽りの盟主の足元へとしなやかに伸びてきていた。
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