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胃を病む英雄と忍び寄る影

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「……父上、その傷、今も痛みますか? 私が内力を送り、痛みを和らげましょう」


謝青桜の冷たい、しかしどこか鋭利な刃物のような指先が、古小魚の右太ももに向けてゆっくりと伸ばされる。その距離、わずか数寸。

金糸大袍の豪華な絹の感触越しに、彼女が放つ「絶頂高手」の冷徹な内力が、小魚の皮膚をピリピリと刺した。


(しまっ……、終わった……!)


小魚の脳裏に、真っ白な絶望が広がった。自分の足には、本物の沈長青にあるはずの「三日月の傷跡」など一筋もない。彼女の指先がこの衣服に触れ、肉体の真実を確かめた瞬間、すべての嘘は物理的に粉砕される。スリとしての極限のパニック耐性を総動員しても、背中から噴き出す冷たい汗を止めることはできなかった。冷や汗が顔の輪郭を伝い、蛇皮の変装マスクの接着剤をじわじわと溶かしていく。


心臓が、肋骨を叩き割らんばかりに激しく鼓動する。その時だった。


「盟主様! 大長老の沈虚舟様より、至急の召集がございます!」


静心閣の重厚な扉の外から、鋭く、しかし格式を重んじた女性の声が響き渡った。盟主府の内政を統括する厳格な侍女長、桂ママの声だった。


「他門派からの使者が到着し、紫気閣にて緊急の長老会議が始まろうとしております。青桜様も、大長老より同席をとの仰せにございます!」


青桜の指先が、小魚の衣服に触れる直前でピタリと止まった。彼女の美しい眉が、不快そうに微かに潜められる。

室内の緊張した空気が、外からの声によって一瞬にして掻き乱された。武林盟主府の絶対的な規律と大長老の召集は、いくら実娘である青桜であっても無視することはできない。


小魚は喉の奥を震わせ、口元を一切動かさずに「死人の声」を響かせた。冷徹で、威厳に満ちた、沈長青そのものの重低音だ。


「……青桜。大長老が呼んでいる。私を煩わせるな。早く行け」


青桜は伸ばしていた手をゆっくりと引き戻し、深く一礼した。しかし、その瞳の奥にある冷たい疑念の光は、完全に消え去ってはいなかった。


「……失礼いたします、父上。どうか、ご無理をなさらず、そのお身体をお労りください」


彼女が踵を返し、静心閣の扉を開けて去っていく。重い扉が閉まり、彼女の気配が完全に遠ざかったのを感じた瞬間、小魚の身体からすべての力が抜け落ちた。


「がはっ……!」


小魚は床に膝をつき、激しく咳き込んだ。極限の緊張から解放された途端、胃の奥から焼けるような激痛が突き上げてきた。急性胃潰瘍の猛烈な発作だ。あまりの痛みに目の前が暗くなり、口の中に酸っぱい鉄の味が広がる。血を吐く一歩手前だった。金糸大袍の胸元を強く掻きむしり、小魚は冷たい床の上でのたうち回った。


「痛っ……、くそ、殺す気か……! あの娘、化け物か……!」


喉から搾り出すようなうめき声が、薄暗い静心閣に虚しく響く。武功が完全に皆無である彼にとって、絶頂高手の威圧感に耐え続けることは、文字通り命を削る作業だった。顔の変装マスクが、冷や汗と床の摩擦で剥がれそうになるのを必死に手で押さえる。


その時、静心閣の裏手、薬草園へと繋がる小さな忍び戸が、静かに開いた。夜風と共に、微かに甘く香ばしい薬草の匂いが漂ってくる。


「……盟主様? お怪我はございませんか?」


現れたのは、盟主府の薬草園を管理する純朴な少女、阿蘭だった。彼女は手にした小さな竹籠を抱え、床でのたうち回っている「沈長青」の姿を見て、驚きに目を見開いた。


「盟主様! やはり、またお腹が……!」


阿蘭は駆け寄り、小魚の傍らに跪いた。彼女は小魚が偽物であるとは夢にも思っていない。ただ、この偉大な武林盟主が、数年前から重度の胃病を隠し、激痛に耐えながら正義のために闘っているという「日記の真実」を、最も身近で目撃してきた優しい少女だった。


「これをお飲みください。急ぎ調合してまいりました」


彼女が竹籠から取り出したのは、小さな紙包みだった。中には、薬草園で極秘に栽培されている「沸血草」の葉と、複数の胃痛緩和ハーブを調合した特製の粉末薬「養胃散」が入っていた。


小魚は震える手でその紙包みを受け取り、水もなしに口の中へ放り込んだ。舌を刺すような強烈な苦味と、微かな熱気が口いっぱいに広がる。それを無理やり飲み込むと、数呼吸のうちに、胃の粘膜が温かい膜で覆われていくような感覚がした。激しい痙攣が、徐々に和らいでいく。


「はぁ……、はぁ……。す、救われた……」


小魚はベッドの端に背中を預け、荒い息を吐き出した。養胃散の副作用により、彼の顔色は一時的に青白く染まっていたが、あの焼けるような痛みは確実に引いていく。彼は泥棒としての警戒心を保ちながらも、目の前の無垢な少女に対して、微かに声を和らげた。


「阿蘭……。感謝する。お前のおかげで、また命を繋ぎ止めることができた」


「そんな、滅相もございません!」阿蘭は慌てて首を振った。「盟主様が、これほどの苦痛に耐えながら、武林の平和のために一人で戦っておられるのです。私にできることなど、この薬をお届けすることくらいしか……」


彼女の澄んだ瞳には、本物の盟主に対する絶対的な尊敬と、その弱さを知る者としての深い同情が宿っていた。小魚は内心、激しい罪悪感に苛まれた。自分はただの保身のために嘘を吐いている薄汚いコソ泥に過ぎない。しかし、この少女の優しさが、今の自分にとって唯一の物理的な命綱であることもまた、紛れもない事実だった。


「この薬のことは、誰にも……」


「はい、分かっております。大長老様たちにも、青桜様にも、決して口外いたしません。盟主様が病を隠しておられるのは、敵を油断させるための高度な策なのですから」


阿蘭は力強く頷き、空になった紙包みを回収すると、再び忍び戸から夜陰に紛れて去っていった。静心閣に、再び静寂が戻る。


しかし、小魚の泥棒としての鋭い直感が、その静寂の裏に潜む「異変」を瞬時に察知した。人の視線や気配に異常に敏感なスリの感性が、静心閣の窓の外、月光が届かない暗がりに、誰かが張り付いていることを告げていた。


(……誰かいる。長老の放った隠密か? それとも……)


小魚はベッドの上で硬直した。窓の外の気配は極めて微かだが、呼吸のテンポからして、それは華山派の基礎呼吸法を習得した者――謝青桜の侍女、柳葉だった。青桜が、父の日常を監視するために送り込んだスパイに違いない。


(まずい。ここで私がただ寝転んで胃痛に耐えていたり、薬の匂いを漂わせていれば、即座に『病が重篤である』、あるいは『武功を失っている』と報告される。そうなれば、大長老たちに口封じのために殺されるか、青桜に正体を暴かれる!)


胃の痛みは養胃散で和らいだものの、身体の奥からの不規則な震えはまだ止まっていない。極限の緊張による寒気と、薬の副作用による筋肉の痙攣が、小魚の身体を小刻みに震わせていた。この震えを、スパイの目から隠すことはできない。


小魚の脳が、火花を散らすように高速で回転した。泥棒の父、古千手の教えが脳裏に蘇る。

『一流の嘘つきは、自分の弱点を最大の武器に変える。敵が見たいと望む「幻影」を、お前自身の肉体で演じてみせろ』


(……そうだ。震えを隠せないなら、この震えそのものを、奴らにとって最も恐ろしい『神技』に見せかけてやる!)


小魚は意を決し、ベッドの上で厳かに結跏趺坐を組んだ。金糸大袍の裾を美しく整え、沈長青の「影武者の歩行法」の応用である、一定の深い呼吸法を維持する。胸の上下動を極限まで抑えながら、全身の筋肉をわざと微細に振動させた。


それは、胃痛の残滓による生理的な震えだった。しかし、小魚はそれを、あたかも内力を極限まで練り上げているかのような「意図的な微振動」へと演出した。さらに、先ほど飲み込んだ養胃散に含まれる「沸血草」の成分が体温を急上昇させ、小魚の口元や皮膚から、白い、青みがかった湯気がかすかに立ち上り始める。


窓の外の暗闇で、柳葉は木の葉の隙間から静心閣の内部を覗き込んでいた。彼女の任務は、盟主の日常の細かな不審点を冷徹に観察し、青桜に報告することだった。だが、彼女が目撃したのは、想像を絶する光景だった。


薄暗い部屋の中、月光を浴びて座る「沈長青」の身体は、まるで一本の弦のように、不気味なほど一定のテンポで、視認できないほどの超高速で小刻みに震えていた。その顔色は青白く、まるで俗世の肉体を捨て去ったかのようであり、彼の全身からは、神秘的な白い熱気(実際は胃薬のハーブの湯気と冷や汗)が、龍のうねりのように立ち上っている。


(なっ……、あれは……!)


柳葉は小さく息を呑み、全身に鳥肌が立つのを感じた。華山派の禁書に記された、伝説の「神竜気功」の極致――。内力を体内で無限に循環させ、肉体の分子を微振動させることで、あらゆる毒素や不純物を purging するという、生死の境界を超えた修行の姿そのものだった。


(盟主様は……病などで衰えてなどいない。健在どころか、神竜気功の新たな禁忌の領域に達しておられる……!)


柳葉はその底知れぬ威圧感(実際は小魚の必死のハッタリ)に圧倒され、恐怖のあまりそれ以上の監視を断念し、音もなく屋根を伝って退散した。


気配が消えたのを感じ、小魚は結跏趺坐を解いて、ベッドに倒れ込んだ。全身が汗でぐっしょりと濡れ、変装マスクの端が微かに浮き上がっている。


「はぁ、はぁ……。騙されてくれたか……?」


小魚は震える手で顔を押さえ、荒い息を吐いた。泥棒の知恵と身体能力のすべてを賭けた芝居だった。しかし、この嘘がどのような波紋を広げるか、この時の彼はまだ知る由もなかった。


翌朝。柳葉からの報告を受けた謝青桜の胸中には、深い衝撃と、さらなる複雑な疑念が渦巻いていた。父が「神竜気功の極致」に達している。それは門派にとっては最大の吉報だが、なぜ父は自分に対してあれほど冷淡で、不自然な態度を取るのか。彼女の冷徹な瞳は、依然として真実を追い求めていた。


そして、その噂は盟主府の servant たちを通じて、瞬く間に華山派の内部へと漏れ出していった。


「沈長青が……神竜気功の新たな境地に達しただと?」


盟主府の南館。赤みがかった虎のような髭を蓄え、炎のような赤い長衣をまとった巨漢――盟主の座を虎視眈々と狙う武闘派長老、雷震天は、報告を持ってきた部下の言葉に、激しい怒りと不信感を露わにした。


「気の暴走で死にかけているという噂は、我らを欺くための罠だったというのか? いや、信じぬ。あの老いぼれが本当にそこまでの力を取り戻したというなら、この奔雷剣法で直接その肉体を叩き割り、真偽を確かめてやるまでだ!」


雷震天の鋭い眼光が、殺気に満ちて光る。彼は傍らに置かれた名剣「奔雷剣」を掴むと、地鳴りのような足音を立てて、古小魚が潜む静心閣へと向けて歩き始めた。


忍び寄る雷撃の影。胃を病む偽りの英雄の前に、最初にして最大の「物理的な災害」が、刻一刻と近づいていた。

HẾT CHƯƠNG

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