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疑心の刃と冷徹な娘

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「父上。謝青桜です。急なご病気と伺いましたが、お顔を見せぬ理由をお聞かせください」


 静心閣の重厚な扉を震わせる声は、冷徹極まりない氷の刃のようだった。門弟たちの間で「華山派屈指の天才剣士」と恐れられる盟主の実娘、謝青桜。彼女の気配が扉のすぐ向こうにあると察した瞬間、古小魚の心臓は肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がった。


(くそっ、よりによってこのタイミングで来やがるか……!)


 小魚は懐に「亡き盟主の日記」を素早くねじ込むと、机の上の銅鏡を覗き込んだ。顔には、拉致された直後に大長老たちから強引に貼り付けられた「蛇皮の変装マスク」がある。大蛇の極薄皮を加工したこの人口皮膚は、十九歳の小魚の顔を五十代の威厳ある沈長青へと完全に変えていたが、急ごしらえの接着剤が化学反応を起こし、皮膚が猛烈に痒く、そして焼けるように痛む。顔の筋肉を少しでも動かせば、端からペロリと剥がれ落ちてしまいそうだった。


 さらに、喉元には先ほど大長老・沈虚舟の剣によってつけられた微細なかすり傷がある。じわりと滲む血が、借り物の豪華な「金糸大袍」の襟元を赤く染めかけていた。この金糸大袍も、細身の小魚にはあまりにサイズが大きく、肩が不自然に浮いている。


「父上、お返事がないのであれば、失礼して中に入ります」


「待て」


 小魚は喉の奥を震わせた。役者・唐三彩から学んだ腹話術「死人の声」だ。口元をほとんど動かさず、沈長青の重厚で威厳に満ちた地鳴りのような声を再現する。これならマスクのズレを防げる。


「……入るが良い」


 ギィ、と重い扉が開いた。室内に流れ込んできたのは、夜風だけではない。謝青桜がその身から放つ、皮膚を刺すような鋭い剣気(内力)だった。彼女は青い華山派の道服を端正にまとい、腰には名剣を帯びている。一歩踏み出すごとに、部屋の空気の温度が下がっていくかのようだった。その非の打ち所がない冷徹な美貌は、父親の死を疑う執念に満ちている。


「夜分遅くに申し訳ありません、父上」


 青桜は小魚から五歩離れた位置で立ち止まり、その鋭い瞳でじっと彼を見つめた。部屋の明かりは、小魚がわざと落として薄暗くしてある。だが、彼女の視線は小魚の喉元にピタリと止まった。


「父上……その喉元のかすり傷はどうされたのですか? まるで、誰かに剣を突きつけられたかのような傷ですが」


 最初の一言から心臓が凍りつくような問いだった。小魚は冷や汗がマスクの接着剤を溶かしていく恐怖に耐えながら、表情を一切変えずに「死人の声」を響かせた。


「案ずるな。病の床にあっても、神竜気功の修行は怠っておらん。内力の調整中に、微かに経絡が暴走してな。気の乱れが皮膚を裂いたに過ぎん。大騒ぎすることではない」


「……そうですか」


 青桜の疑念は晴れていない。彼女はさらに一歩近づいた。その距離、わずか四歩。小魚の「嘘の匂い嗅ぎ」の能力が、彼女の目の微微な動きを捉えた。彼女の左目が一瞬だけ泳いだ。何かを仕掛けようとしている証拠だ。


 小魚はすかさず、机の上に置かれていた沈長青の遺品、仕掛け鉄扇「玄機」を右手で手に取った。そして、優雅な動作でパッと扇を開き、傍らの香炉から立ち上る白檀の煙を、二人の間にそっと扇ぎ送った。これぞ、父から学んだ「視線誘導(ミスディレクション)」の法則。派手な鉄扇の動きと、立ち込める煙のカーテンにより、青桜の視線を変装マスクの境界線や、自身の泳ぎがちな目元から強制的に逸らす。


「父上、実はお願いがございます」


 青桜は煙の向こうから、冷たい声を響かせた。


「あなたが病に倒れる前、私に約束してくださいましたね。母上の形見である『白玉の櫛』を、この静心閣の鉄箱から取り出して、私に授けると。今日、それを受け取りに参りました。鉄箱の鍵を開けていただけますか?」


 小魚の脳内で、警報が鳴り響いた。鉄箱? 白玉の櫛? そんなものはこの部屋のどこにもない。いや、待て。小魚は懐にある日記の内容を高速で検索した。沈長青の生前の記録――そこにはこう書かれていたはずだ。


『妻が愛した白玉の櫛は、彼女の葬儀の際、私が自らの手で彼女の棺に納め、共に墓へ埋葬した』


(罠だ……! この娘、俺が本物かどうかを試してやがる!)


 もし「分かった、探そう」などと言えば、その瞬間に偽物だと見破られ、彼女の剣で首を跳ねられる。小魚は燃えるような胃の痛みを「嘘を真実にする心理術」でねじ伏せ、あえて重々しく、そして怒りを帯びた声で一喝した。


「青桜、お前は何を言っているのだ」


 地鳴りのような声に、青桜の肩が微かに跳ね上がった。


「母上の白玉の櫛は、十数年前に私が彼女の墓に共に埋めたはず。それをこの静心閣にあるなどと……。病の私を試すために、亡き母の形見を嘘の道具にするか。お前の親不孝、いつからそれほど深くなったのだ」


 静心閣の空気が、一瞬で張り詰めた。青桜の美しい瞳に、明らかな動揺が走る。彼女は小さく息を呑み、その場に深く頭を下げた。


「……申し訳ありません、父上。私の不敬、お許しください。ただ、父上のご様子があまりに以前と違って見えたため、心魔に侵されているのではないかと案じたのです」


「もう良い。下がれ」


 小魚は冷淡に言い放ち、これで切り抜けたと胸を撫で下ろしかけた。しかし、謝青桜という娘は、それほど甘い相手ではなかった。彼女は頭を上げたが、その瞳の奥にある冷徹な光は消えていなかった。


「ですが、父上。本当に気の暴走だけなのでしょうか」


 彼女はさらに一歩、踏み込んできた。今や、小魚の鼻先に彼女の道服から漂う冷たい香りが届くほどの至近距離だった。彼女の右手が、ゆっくりと小魚の身体へと伸ばされる。


「以前、あなたが如煙叔母様を救った際、右太ももに受けた『三日月の傷跡』……。この湿った夜には、その古傷が激しく痛むと、いつも仰っていました。父上、その傷、今も痛みますか? 私が内力を送り、痛みを和らげましょう」


 彼女の手先が、小魚の右太ももに向けて伸ばされる。


(右太ももの……三日月の傷跡だと!?)


 小魚の脳裏に、真っ白な絶望が広がった。自分の足には、そんな傷跡は一筋もない。彼女の指先がこの金糸大袍を透過して、あるいは捲り上げて足に触れた瞬間、すべての嘘は物理的に粉砕される。小魚の背中に、冷たい汗が滝のように噴き出した。

HẾT CHƯƠNG

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