拉致されたコソ泥と氷の遺体
江南の交易都市、揚州。そのきらびやかな表通りの喧騒から一歩入った路地裏は、湿った泥と生魚の臭いが立ち込める別世界だった。
「へへ、旦那、景気が良さそうだねえ」
十九歳のコソ泥、古小魚(コ・ショウギョ)は、肥った商人の脇をすれ違いざまに肩をかすめた。その瞬間、彼の細くしなやかな指先は、商人の懐からずっしりと重い絹の財布を音もなく抜き取っていた。これぞ、亡き父・古千手から叩き込まれた「神盗のすり替え術」の基本である。
小魚は足早に角を曲がり、懐の財布を確かめてほくそ笑んだ。これで数日は、酔春楼の紅おばさんのところで美味い酒が飲める。だが、彼が路地を抜けようとしたその瞬間、周囲の空気が凍りついたように重くなった。
頭上から、音もなく灰色の影が舞い降りる。小魚の鋭い直感が危険を告げ、身を翻そうとしたが、すでに遅かった。鉄の万力のような一対の手が、彼の細い両腕を掴んだのだ。
「な、なんだお前ら――」
叫ぶ暇もなく、視界は真っ黒な麻袋に覆われた。強烈な薬草の匂いが鼻を突き、小魚の意識は急速に闇へと沈んでいった。
激しい寒気で目が覚めたとき、小魚は自分がどこにいるのか分からなかった。麻袋が乱暴に剥ぎ取られ、突き刺さるような冷気が肌を刺す。
「おい、目を覚ましたぞ」
石を削り合うような冷酷な声が響く。小魚が震えながら目を開けると、そこは一面の氷に囲まれた不気味な洞窟――盟主府の深奥にある「寒潭の氷窟」だった。
目の前に立っていたのは、威厳に満ちた黒い長衣をまとった白髪の老人、華山派の大長老・沈虚舟(シン・キョシュウ)。そしてその傍らで、鋭いネズミのような目で算盤を弄んでいる細身の男、二長老・趙無極(チョウ・ムキョク)だった。
「ここは……どこだ? 俺はただの泥棒だぞ、金なら返す!」
小魚は必死に周囲を観察した。逃げ道はない。背後の重厚な石扉は閉ざされ、長老たちの足元の重心は一分の隙もない。達人の構えだ。戦えば一瞬で肉塊にされる。
「黙れ、泥棒風情が」
沈虚舟が冷酷に言い放ち、一歩脇へ退いた。その先にある巨大な氷の塊を指し示す。
小魚は息を呑んだ。氷の中に安置されていたのは、一人の男の遺体だった。白髪交じりの美髭、威厳に満ちた体躯、そして何よりも――その顔は、古小魚自身の鏡像そのものだった。年齢こそ五十代に見えるが、骨格、目元、鼻の形まで、自分に瓜二つなのだ。
「こ、これは……俺?」
「天下無双と称された我が華山派の掌門、そして武林盟主・沈長青(シン・チョウセイ)様だ」沈虚舟の声に、隠しきれない焦燥と殺気が混じる。「盟主様は数時間前、何者かに毒殺された。無色無臭の奇毒『千日酔』だ。この事実が江湖に漏れれば、正邪両派の均衡は崩れ、血の海と化す。朝廷の秘密警察『東廠』も、武林解体の好機と見て牙を剥く。だからこそ、お前が必要なのだ」
二長老の趙無極が、冷たい笑みを浮かべて算盤を弾いた。
「古小魚。揚州の貧民街出身のコソ泥。お前の過去はすべて調べ上げてある。断れば、お前をその場で切り刻み、揚州の阿妙や紅おばさんら、お前の大切な者たちを一人残らず東廠に引き渡して、九族皆殺しの刑に処してやろう」
「なっ……!」
小魚の心臓が激しく脈打つ。極限の恐怖が胃を焼き、口の中に酸っぱいものが込み上げた。慢性的な胃痛が、かつてない激痛となって彼を襲う。
小魚は一瞬、天井の通気口へ向けて軽功で逃げようと、爪先に力を込めた。だが、一歩を踏み出す前に、沈虚舟が軽く袖を振った。凄まじい内力の風圧が壁となって小魚を打ち据え、彼は氷の床に叩きつけられた。肺の空気が押し出され、激しく咳き込む。実力差は、天と地ほどもあった。
「逃げられると思うな。お前の選択肢は二つ。ここで犬死にするか、完璧な『沈長青』として盟主の身代わりを演じきり、我らの傀儡となるかだ」
沈虚舟が、冷たく光る長剣を小魚の喉元に突きつけた。剣尖から放たれる剣気が、小魚の喉の皮膚を微かに切り裂き、一筋の血が流れる。
死ぬ。確実に死ぬ。
小魚の脳が高速で回転した。泥棒として生き延びるための本能が、彼に最も「もっともらしい嘘」を選択させた。ここでただ命乞いをしても、こいつらは口封じに俺を殺す。自分が「価値のある道具」であることを今、この場で証明しなければならない。
小魚は喉元の刃を凝視しながら、泥棒の技術で鍛えた「心拍数の抑制」を強制的に行った。恐怖を脳の奥底に押し込め、呼吸を整える。父の教えが脳裏に蘇る――『一流の嘘つきは、まず自分自身を騙す』。
彼は氷漬けの沈長青の顔を凝視し、その表情、喉の形、胸の張り方を脳内で完全に模写した。そして、喉の奥の筋肉を特殊な方法で震わせる、役者・唐三彩から学んだ腹話術「死人の声」を発動させた。
「――無礼者。私の前で刃を向けるか」
沈長青そのものの、重厚で威厳に満ち、地鳴りのように響く声が洞窟内に轟いた。
沈虚舟と趙無極の顔が、一瞬で強張った。二人の達人が、本能的に半歩後退し、剣を引いた。死んだはずの盟主が、目の前で喋ったと錯覚したのだ。それほどまでに完璧な模写だった。
小魚は冷徹な眼光を大長老に向け、重々しく言った。
「沈虚舟。その剣を収めよ。私を傀儡にするというのなら、まずはその無礼な態度を改めることだな」
一瞬の沈黙の後、沈虚舟の顔に歪んだ笑みが浮かんだ。彼は剣を鞘に収め、低く笑った。
「くくく……素晴らしい。これほどの度胸と声の模写、ただの泥棒とは思えん。よし、お前を生かしてやろう。だが、猶予はないぞ。これよりお前を静心閣(セイシンカク)に監禁する。沈長青のすべてを頭に叩き込め」
華山・盟主府の奥深くにある書斎、静心閣。
豪華な黒檀の机、壁一面に並ぶ古書、そして沈長青が愛用していた仕掛け鉄扇「玄機」が置かれたその部屋で、小魚は一人、冷や汗を拭った。借り物の豪華な「金糸大袍」は、十九歳の彼の細い身体にはあまりに大きく、肩が不自然に浮いている。
部屋の外には、長老たちの息がかかった厳重な警備兵が張り付いており、窓の外からも微かな気配がする。一歩でも不審な動きをすれば、即座に暗殺される監獄だった。
「くそ、胃がちぎれそうだ……」
小魚は燃えるような胃の痛みに耐えかねて、机の上の茶を飲み干した。彼は生存のために、沈長青の過去の記録を必死に探した。長老たちの傀儡から脱却し、自分の命を守るための「切り札」がこの部屋のどこかにあるはずだ。
小魚は泥棒としての鋭い観察眼で、部屋の隅々を調べた。本棚の磨耗具合、不自然な塵のパターン。そして、特定の三冊の古書の背表紙に、微かな指の跡があるのを見つけた。
「これだ……」
彼は父親直伝の「万能鍵開け」の感覚を指先に集中させ、その三冊を特定の順番で静かに手前に引いた。
カチリ、と微小な金属音が響き、本棚の裏の壁が音もなくスライドした。そこには三畳ほどの極小の密室――「沈長青の隠し金庫」があった。
小魚は内部に滑り込み、棚に置かれた一冊の絹装丁の書物を手にとった。それこそが、本物の沈長青が誰にも見せずに書き綴っていた「亡き盟主の日記」だった。
小魚はむさぼるようにページをめくった。沈長青の筆跡、各門派の長老たちの個人的な弱み、そして彼自身が重度の胃病を患い、武功の半分を失っていたという衝撃の事実が記されていた。
「本物の盟主も、俺と同じ胃病持ちのペテン師だったってわけか……」
小魚は奇妙な運命の符号に失笑した。だが、日記の最後の数ページを読んだ瞬間、彼の体温が急速に低下した。そこには、殴り書きのような歪んだ文字で、こう記されていたのだ。
『我が経絡は日ごとに萎縮している。これは病ではない。千日酔の毒だ。私は暗殺されつつある。敵は外部の邪派ではない。私が最も信頼していた、身内の――』
その瞬間。
ドンドンドン! と、静心閣の重厚な木の扉が、乱暴に叩かれた。静寂を破るその音に、小魚の心臓が跳ね上がる。彼は日記を素早く懐に隠し、立ち上がった。
扉の向こうから、冷徹で、氷の刃のように鋭い若い女性の声が響き渡った。
「父上。謝青桜(シャ・セイオウ)です。急なご病気と伺いましたが、お顔を見せぬ理由をお聞かせください」
亡き盟主の実娘にして、華山派屈指の天才剣士――彼女の執拗な尋問が、今、始まろうとしていた。
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