霧に消える死神、空間の支配者
「死ね、グレイロードの虫ケラども!」
境界の略奪王オルロック・ザ・レッドの咆哮が、深く重い青き魔導霧を震わせた。身の丈ほどもある巨大な魔導鉄球「大震の鉄球」が、凄まじい質量と赤黒い闘気を帯びて、アレン・グレイロードの乗る馬車へと一直線に迫る。
ゴォォォォン!
大気を引き裂く物理衝撃音が響き渡り、馬車の前に立ちはだかる守備隊長ヴァン・クレイモアの足元が、蜘蛛の巣状に激しく陥没した。ヴァンは先代から受け継いだ魔導重盾を両手で構え、全身の魔力を大盾の表面に集中させていた。「鉄壁の守護」――いかなる物理衝撃をも不動の重心で受け止める、彼が誇る絶対の防陣。しかし、オルロックの放った鉄球の威力は、その防壁すらも内側から噛み砕かんとするほどに破壊的だった。
「ぐ、おおおおおっ!」
ヴァンの無骨な顔が苦痛に歪み、重甲冑の隙間から細い血の糸が噴き出す。盾の表面には、無数の微細な亀裂が走り、青い火花が霧の中で激しく爆ぜていた。一度は耐えた。だが、大盾の耐久力はすでに限界に近い。オルロックは不敵に笑いながら、再び鉄球を引き戻し、第二波の致命的な一撃のためにその巨躯をねじり始めた。
「ハハハ! よく耐えたが、次でその平たい鉄板ごと、病弱な主人の頭を叩き潰してやる!」
馬車の周囲では、無法者たちの先遣隊が剣や斧を振りかざし、包囲網を狭めていた。風の魔導を細剣に纏わせた新米騎士レオ・ハルトが、神速の踏み込みで何とか敵の突撃を阻んでいるものの、視界ゼロの濃霧の中、数の暴力にじわじわと押し込まれていくのは明白だった。
「ゴホッ、げほっ……!」
その時、馬車の薄暗い内部で、アレンは簡易車椅子に深く身を沈めたまま、激しく喀血した。白いハンカチが、毒素を含んだ黒ずんだ鮮血で濡れていく。彼の左腕はすでに完全に麻痺し、右目の視界は暗闇に閉ざされたままだった。さらに最悪なことに、体内の魔力毒が、遠く離れた城で瀕死の病床にある実妹マリーの魔力暴走と「魂の共鳴」を起こし、彼の脆弱な心臓を内側から万力のように締め付けていた。
――マリー。お前は私の唯一の光だ。お前を救うためなら、私の身体がここで塵になろうとも、構いはしない。
アレンは冷酷な、しかし狂気的なまでの決意を秘めた瞳を、残された左目だけで開いた。彼の右手は、左手薬指に嵌められた「三重誓約の指輪」を強く握り締める。指輪はエリザベートの血の魔力を片側に固定したまま、アレンの神経網に鋭い警告を伝えるように、狂ったように青紫色の光を点滅させていた。
「感覚共有(リンク・センス)……起動」
アレンの左目の瞳孔が、一瞬にして妖しく紅く輝き始めた。その瞬間、彼の脳内で、視界を遮っていたはずの「青い濃霧」が、精緻な三次元の幾何学グリッドへと変貌していく。霧の中に潜む約五十名の無法者たちが放つ「殺意の魔力波長」と、彼らの肉体から発せられる微細な熱量が、脳内のチェス盤の上に配置された「青白いノード(点)」として、一ミリの狂いもなくマッピングされていく。
さらに、アレンの脳細胞は「魔力制御法「魔脈演算」」を開始した。この霧の谷は、かつて古代帝国「始源」が敷設した世界魔脈のバイパス回路が露出した特異な地政学的空間。大気中を流れる魔力の奔流と、足元の不安定な軟弱地盤、そしてオルロックが持つ「大震の鉄球」の圧倒的な物理的質量。すべての変数が、アレンの脳内で一つの巨大な数式として可視化され、超高速で演算されていく。
――見えた。オルロック、お前のその自慢の『質量』こそが、この不安定な地盤における最大の呪いだ。
アレンは血に染まった唇を微かに歪め、不敵な冷笑を浮かべた。彼は馬車の窓枠に指先をかけ、外で無法者と交戦しているレオに向けて、指輪のパスを介して直接その脳内へ精神波の指示を送り込んだ。
『レオ。私の指示を聴け。迷うな、ただ私の言葉を信じて身体を動かせ』
突如、脳内に直接響いたアレンの冷徹な声に、レオは一瞬だけ目を見開いた。だが、アレンの知略を盲信する若き騎士は、すぐにその指示を魂で受け入れた。
『はい、アレン様!』
『正面、角度三十二度、距離十五メートル。そこにお前の狙うべき『隙』がある。風の魔導を脚部に全開で集中させ、一歩で間合いを詰めろ』
レオはアレンの指示した座標に向けて、深くひざまずいた。彼の周囲の霧が、一瞬にして風の魔導によって渦を巻く。全身の魔力を「ゼロ」から「最大値」へと跳ね上げる、レオの「神速の一撃」の予兆。
「ハハハ! そこでおとなしく震えていろ、小僧!」
オルロックが鉄球を頭上で旋回させ、最大出力の重力エネルギーを闘気に宿して、ヴァンに向けて投げ放とうとした。その瞬間――
「おおおおおっ!」
レオの身体が、霧を切り裂く緑の突風の光条と化した。一瞬にして霧の死角をすり抜け、アレンが指示した「角度三十二度、距離十五メートル」の座標へと突撃する。そこは、オルロックが鉄球を投げ放つために、右肩の筋肉を最大に引き絞り、物理的に防御が完全に「無」になっていたミリ秒の隙だった。
キィィィィン!
鋭い金属音が霧を割った。レオの細剣が、オルロックの右肩の結合組織を正確に、深く切り裂いた。闘気の鎧を透過し、筋肉を両断されたオルロックの右腕が、激しく血を噴き出す。
「がはっ!? な、何だと……!?」
想定外の痛撃に、オルロックの姿勢が大きく崩れた。投げ放たれるはずだった魔導鉄球は、推進力を失い、その凄まじい自重によって地面へと激しく落下した。ズゥゥゥン! という重苦しい地鳴りとともに、鉄球はオルロックの足元の泥濘へと深く沈み込む。
「おのれ、よくも私の腕を! だが、この程度の傷、私の肉体硬化の前には――」
オルロックが激昂し、左腕で鉄球を引き戻そうとした。しかし、アレンはその一瞬の好機を、決して見逃さなかった。
馬車の中で、アレンは右手の人差し指を、静かに無法者たちが密集する足元の地面へと向けた。彼の白銀に染まり始めた髪の毛先が、魔力の激流によって激しく逆立つ。脳神経が焼き切れるような激痛が走り、心臓が悲鳴を上げる。だが、アレンは冷酷に術式を起動した。
「魔脈遮断(ルーン・カット)――」
アレンの指先から、目に見えないほど細い、青白い逆位相の魔力針が放たれ、オルロックの足元の地中に流れる魔脈の「結節点(ルーン・ノード)」へとピンポイントで突き刺さった。大地の流動を繋ぎ止めていた古代の魔力バイパスが、一瞬にして完全に切断される。
地脈のエネルギーを失った霧の谷の軟弱な地盤は、一瞬にしてその構造的安定性を失い、泥水のような流砂へと「液状化」した。さらに、オルロックが持つ「大震の鉄球」の数十トンに及ぶ物理質量が、その地盤崩壊を爆発的に加速させる。
ズズズズズ……!
「な、何だ!? 地面が、沈む……!?」
オルロックの黄金の瞳が、初めて本物の恐怖に大きく見開かれた。彼の巨躯と、自慢の巨大鉄球が、まるで底なし沼に吸い込まれるように、急速に地面の地割れへと引きずり込まれていく。地盤沈下は瞬く間に広がり、周囲に密集していた無法者連合の戦士たちも、足元の大地が泥水のように崩落し、次々と陥没した地割れへと落下していった。
「助けてくれ! 地面が、地面が消える!」
「オルロック様! 鉄球を捨てて――」
「だ、だめだ! 鉄球の重さで、身体が動かん!」
無法者たちの絶叫が霧の中に響き渡る。オルロックは鉄球を捨てようとしたが、大震の鉄球に宿る重力闘気が、彼の肉体と魔力的に半ば融合していたため、即座に切り離すことができなかった。自らの最強の武器の質量が、今や彼を奈落へと引きずり下ろす絶対的な死神の錨となっていたのだ。
轟音とともに、直径数十メートルに及ぶ巨大な陥没穴が形成され、無法者連合は自らの武器の重さと崩落する土砂に飲み込まれ、完全に壊滅した。霧の谷に、不気味な静寂が戻る。
「はぁ、はぁ……ゴホッ……!」
アレンは車椅子の上で激しく前かがみになり、胸を押さえて荒い息を吐いた。感覚共有と魔脈演算の過負荷により、彼の脳は焼けるように熱く、全身の血管が引き裂かれるような激痛に襲われていた。彼の黒髪の毛先は、さらに白銀の領域を広げ、退色していた。
「アレン様!」
レオとヴァンが、息を切らしながら馬車へと駆け寄ってきた。ヴァンの盾はボロボロに砕け散っていたが、その実直な瞳には、アレンに対する狂信的なまでの崇拝と畏怖が宿っていた。車椅子から一歩も動かず、指先一つで天災規模の地盤崩壊を引き起こし、大軍を自滅させた病弱な主。その知略は、すでに人知を超えていた。
「私は……大丈夫だ。オットー、急ぎ『霧の谷の魔導霧草』を回収しろ。マリーの時間が……ない」
「は、はい! ただちに!」
オットーが陥没穴の周囲の湿地帯へと走り、不気味な青い光を放つ魔導霧草を慎重に刈り取っていく。その最中、オットーは泥濘の中に転がっている、無法者たちが使用していた錆びた大剣の柄に目を留めた。
「アレン様……これを見てください」
オットーが持ち帰った大剣の柄には、獣の頭部を模した、見覚えのある不気味な「刻印」が深く刻まれていた。ラグズディール獣王国の主戦派部族長バザック――その直属の私兵にのみ下される武器の証だった。
「やはり、バザックか……」
アレンは残された左目でその刻印を冷酷に見つめ、微かに笑った。獣人の女王ゲルダの足元を脅かす裏切り者の影。この武器は、ゲルダにバザックの反逆を認めさせ、彼女を完全に支配下に置くための「法的な絶対証拠」となる。
「オットー、その武器を厳重に保管しろ。……ゴホッ、う、あ……」
激しい目眩がアレンを襲い、彼の視界が急速に闇へと溶けていく。感覚共有の過負荷が、ついに彼の肉体の限界を完全に超えたのだ。アレンはそのまま車椅子の上で、深い昏睡状態へと滑り落ちていった。
数時間後。魔導霧草を回収し、満身創痍の状態でグレイロード城へと帰還したアレンの部隊を待っていたのは、勝利の祝祭ではなかった。
城の正面玄関には、白銀の甲冑に身を包んだ「聖光教団」の騎士たちが整然と整列し、不穏な殺気を放っていた。そして、その中心から、金色の刺繍が施された白亜の戦闘ローブを纏った、美しくも冷酷な眼光の女性が歩み出てくる。
聖光教団の異端審問官ジュディス。表向きは「平和の使者」として来訪した彼女の瞳には、領内の魔族を根絶やしにするための、狂信的な偽善の光が宿っていた――。
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