妹の命、霧の谷への決死行
バルタザールが血の海に沈んだ歓迎夜会から数時間後。深夜の静寂に包まれたグレイロード城の奥深く、マリーの療養室には、重苦しい血の匂いと絶望が立ち込めていた。
「マリー! しっかりしろ、マリー!」
アレン・グレイロードは、感覚を完全に失い、だらりと垂れ下がった左腕を右腕で抱えながら、妹のベッドの傍らで叫んでいた。彼の右目の視界は、昼間の円卓交渉と先ほどの決闘による魔脈演算の過負荷によって未だ暗い霧に閉ざされている。だが、残された左目が見つめる先では、十二歳になる最愛の妹マリー・グレイロードが、シーツを黒い鮮血で染めながら激しく咳き込んでいた。
「ゲホッ……ごほっ! に、兄様……身体が、熱くて……痛いよ……」
マリーのアッシュグレーの細い髪が寝汗で額に張り付き、その小さな身体は激しい拒絶反応で痙攣している。城内専属医師のルイーゼが必死に治癒魔術を施し、ハーフエルフの薬師セレナが調合した薬液を飲ませようとしているが、マリーの喉はそれを受け付けず、すべて血と共に吐き出されてしまう。
「ルイーゼ! これはどういうことだ! なぜ急に発作が起きた!」
アレンの詰問に、ルイーゼは涙を浮かべながら首を振った。
「アレン様……マリー様の体内の魔力毒が、あなたの魔力消費と『共鳴』してしまっているのです。グレイロードの血脈……あなたとマリー様が共有する『始源の君主』の血の波長が、先ほどの決闘での過酷な魔脈演算によって激しく乱れ、マリー様の未覚醒の魔力を暴走させてしまいました。このままでは、あと半日も持たずにマリー様の心臓が停止します……!」
アレンの胸に、鋭い氷を突き刺されたような衝撃が走った。
――私のせいだ。私が領地を守るため、己の限界を超えて『魔脈遮断』を放った代償が、この無垢な妹の命を削り取っているというのか。
徹底的な現実主義者を自称し、他者を切り捨てることに躊躇のないアレンにとって、マリーだけは唯一の「人間らしい弱さ」であり、彼の暗闇を照らす唯一の光だった。彼女を救うためなら、自らの命など何度でもチップとして投げ出す覚悟があった。
「治療法は……彼女を救う方法は本当にないのか!」
アレンがセレナの肩を掴む。セレナはフードの奥の知的な瞳を曇らせ、静かに口を開いた。
「一つだけ、方法があります。領地境界の無法地帯……『霧の谷』の最深部、魔力が最も乱れた湿地帯にのみ自生する『霧の谷の魔導霧草』。あの草には、周囲の魔力探知を遮断するだけでなく、体内の暴走した魔力回路を一時的に完全凍結し、毒素を中和する特異な薬効があります。それを今すぐ採取し、煎じて飲ませれば、マリー様の魔力暴走は確実に鎮まります」
「霧の谷……」
アレンはその不気味な地名を噛み締めた。常に濃い魔導霧に包まれ、不法占拠者や他国の暗殺者、狂暴な魔獣が蠢く無法地帯。今の「極微」にまで衰弱し、左腕の感覚を失ったアレンが赴くには、あまりにも死地に近い場所だった。
「アレン様、危険すぎます! 今のあなたの身体で霧の谷へ入るなど、自殺行為です!」
ルイーゼが叫ぶが、アレンは冷酷な、しかし底知れぬ決意を湛えた瞳で彼女を遮った。
「私の命など、マリーの命の重さに比べれば、一ルーン金貨の価値もない。ヴァン、レオ、オットーを呼べ。今すぐ『霧の谷』への決死行を開始する」
数時間後。夜明け前の薄暗い闇の中、グレイロード領の国境を越え、一台の頑強な魔導馬車が「霧の谷」へと滑り込んでいった。馬車の中には、古代の浮遊石を組み込んだ魔導車椅子「レガリア」に深く身を沈めたアレンが乗っている。彼の左手薬指に嵌められた「三重誓約の指輪」は、エリザベートの魔力を片側に固定したまま、不気味に青紫色の光を放っていた。
馬車の周囲を固めるのは、実直なる守備隊長ヴァン・クレイモア、アレンの知略を盲信する若き騎士レオ・ハルト、そして霧の谷の地理を熟知した斥候長オットー・クラウス。彼らの表情は、一様に硬かった。
「アレン様、これより『霧の谷』の本格的な深部へと入ります。魔導霧の濃度が急激に上昇しています。視界は数メートルが限界です」
御者台からオットーの低い声が響く。窓の外を見つめると、そこには不気味な、生の純粋魔力が液化したかのような「青い濃霧」が渦巻いていた。大気が物理的に重く、呼吸をするだけで肺の奥が焼けるように痛む。時折、霧の奥から未知の魔獣の咆哮が地響きのように伝わってきた。
「ゴホッ、がはっ……!」
アレンは激しく咳き込み、ハンカチを黒い血で染めた。車椅子「レガリア」が周囲に展開する簡易的な魔導結界が、霧の中の chaotic な魔力圧力と衝突し、パチパチと不快な放電音を立てている。それを維持するだけでも、アレンの脆弱な神経網には耐え難い負荷がかかっていた。
「アレン様、大丈夫ですか!」
レオが心配そうに馬車に並走する。アレンは血を拭い、冷徹な微笑を浮かべた。
「気にするな、レオ。それよりも周囲の警戒を怠るな。この霧の谷への移動……城内のバルトの残党、あるいは獣人の主戦派バザックの耳に届いていないはずがない」
アレンの不吉な予感は、最悪の形で的中した。
突如、馬車の地磁気方位計が狂ったように回転を始め、周囲の空間が物理的に軋むような異音が響いた。
「アレン様! 地磁気の乱れを感知! 退路の空間座標が完全に歪められました! 退路が、塞がれています!」
オットーが叫んだ瞬間、霧の奥から、無数の不気味な影が音もなく立ち上がってきた。彼らは赤い毛皮や錆びた鉄甲冑を身に纏い、殺気に満ちた武器を構えている。無法地帯を根城にする「無法者連合」。そして、その中心から、地響きのような笑い声と共に、巨大な体躯の男が歩み出てきた。
「ハハハ! 噂通りの死に損ないだな、グレイロードの小倅! 妹を救うためにのこのこと死地へやってくるとは、随分と優しい領主様だ!」
男の名は、境界の略奪王オルロック・ザ・レッド。バザックから密かに武器の供給を受け、グレイロード領への侵攻を狙う残虐な盗賊王だった。彼の片手には、禍々しい魔力の光を放つ巨大な鉄球「大震の鉄球」が握られていた。
「オルロック……! やはりバザックの手先か」
アレンは車椅子の上で、冷徹に敵の包囲網を観察した。無法者たちの数は約五十。視界ゼロの霧の中で、完全に馬車の周囲を取り囲まれている。退路は空間歪術によって塞がれ、物理的な突破は極めて困難だった。
「死ね、グレイロードの虫ケラども!」
オルロックが咆哮し、身の丈ほどもある巨大な魔導鉄球を力任せに投げ放った。鉄球は魔導霧を物理的に切り裂き、凄まじい質量と破壊の衝撃波を伴ってアレンの馬車へと一直線に迫る。
「オットー、敵の指揮官を狙え!」
ヴァンが叫び、大盾を構えて馬車の前に飛び出した。オットーは霧を透過する特殊な「遠視の単眼鏡」を覗き込み、オルロックに向けて魔力銃の照準を合わせる。だが――
「くっ、だめです! 魔導霧の乱反射により、光の軌道が物理的に歪められる! 照準が合いません!」
放たれたオットーの弾丸は、霧の歪みによって軌道を逸らされ、オルロックの肩を虚しくかすめるに留まった。狙撃による速戦即決は不発に終わった。
次の瞬間、オルロックの巨大鉄球がヴァンの目の前へと迫る。ヴァンは重甲冑の脚部を地面に固定し、先代の魔導重盾を両手で構えた。ヴァンの「鉄壁の守護」が展開される。
「おおおおおっ!」
ドゴォォォン!
大気を引き裂くような物理衝撃音が響き渡り、ヴァンの足元の地面が蜘蛛の巣状に激しくひび割れた。鉄球が放つ凄まじい運動エネルギーがヴァンの大盾を直撃したのだ。だが、ヴァンは「絶対不動の重心」を維持する硬化魔術を用い、その破壊的な衝撃をすべて自らの肉体と地面へと受け流してみせた。盾の表面から青い火花が散る。
「チッ、硬い盾だな! だが、いつまで持つかな!」
オルロックが鉄球を引き戻し、第二波の攻撃のために再び振り回し始める。その凄まじい風圧だけで、周囲の魔導霧が渦を巻く。さらに、無法者たちの先遣隊が、剣や斧を抜いて馬車へと一斉に突撃を開始した。
「アレン様は私が守る! 近づく者はすべて斬る!」
レオが風の魔導を剣に纏わせ、神速の踏み込みで無法者たちの先遣隊へと斬り込んでいった。鋭い金属音が霧の中に響き、レオの剣が敵の防具を切り裂く。だが、敵の数はあまりにも多く、視界の悪さも手伝って、防衛線は徐々に押し込まれていく。
「ゴホッ、がはっ……!」
衝撃の余波を受け、アレンは馬車の中で再び激しく吐血した。レガリアの簡易結界を維持するための魔力供給が、彼の脆弱な心臓を内側から締め付ける。左腕は完全に麻痺し、右目の視界は失われたまま。肉体的な生命力は完全に「極微」の限界点に達していた。
――このまま物理的な防衛戦を続ければ、ヴァンの盾が砕けるか、レオが数の暴力に圧殺されるのが先か。マリーを救うための時間(タイムリミット)は、刻一刻と消え去っていく。
アレンは、血に染まった右手で、左手の「三重誓約の指輪」を強く握り締めた。彼の脳細胞が、再び狂気的な速度で回転を始める。
――視界がゼロだというのなら、目など必要ない。この『霧』そのものを、我がカモフラージュとして利用する。
アレンは「感覚共有(リンク・センス)」を強制起動した。指輪の魔力天秤を微弱に傾け、霧の中に渦巻く無法者たちが放つ「殺意の魔力波長」と、彼らの肉体から発せられる微細な熱量を、彼の脳内に直接「ノード(点)」としてマッピングし始めた。
アレンの左目の瞳孔が、妖しく紅く輝き始める。暗闇の視界の隅に、霧の中に潜む敵の位置、動き、そしてオルロックが鉄球を振り回す物理的な軌道が、青白い幾何学的な数式として鮮明に投影されていく。
「ヴァン、レオ、オットー……私の指示に従え。これより、この霧の谷を我々の『戦場(チェス盤)』に変える」
アレンは血を吐いた唇を吊り上げ、冷徹な「空間支配」の罠を構築するための超精密演算を開始した。しかし、その時、オルロックの本隊が、魔導鉄球の出力を最大値へと引き上げ、ヴァンの防壁を粉砕しようと、霧の奥から一斉に突撃を開始したのだった――。
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