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毒蛇の晩餐、影縫いの牙

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夜の帳がグレイロード城を深く包み込む頃、当主の寝室には重苦しい静寂が満ちていた。


 アレン・グレイロードは、背もたれの高い車椅子に深く身を沈めていた。その青白い顔は、微かに差し込む月光を浴びて、まるで精巧に削り出された大理石のように冷ややかに見える。彼の左手薬指に嵌められた「三重誓約の指輪」が、呼吸に合わせるように青紫色の光を細く明滅させていた。


 扉が音もなく開き、一人の少女が部屋に入ってきた。アレンの専属メイドであり、その影に潜む護衛暗殺者でもあるカレンだった。


 彼女はうつむき、前髪の隙間から感情の消えた瞳を覗かせながら、銀のトレイを恭しく捧げ持っている。その上には、アレンのために用意された黒い薬膳粥の器が載っていた。


「……アレン様、お薬膳の時間でございます」


 カレンの声は平坦だった。だが、アレンはその声が僅かに、極めて微細に震えていることを見逃さなかった。


(感覚共有、起動――)


 アレンが脳内で念じた瞬間、左手の指輪が小さく脈打った。彼の意識の深淵が、カレンの精神波長と同調する。その瞬間、アレンの脳裏に雪崩のように流れ込んできたのは、冷たい汗が背中を伝うような恐怖、胸を締め付けるような自己嫌悪、そして底知れぬ絶望の波だった。


「ありがとう、カレン。そこに置いてくれ」


 アレンは穏やかに微笑み、彼女が器をテーブルに置くのを眺めた。


 立ち上る湯気の中に、微かな、だが確かに存在する鉄のような異臭が混ざっている。料理長ニコラが事前に警告してくれた通りだ。これこそが、叔父バルトが闇市場から仕入れ、侍女を脅して混入させた即死性の毒――『禁忌の黒毒液』であった。一口でも飲み干せば、魔力回路は内側から腐食し、心不全を装って死に至る。


 そして、その毒をここに運んできたカレン自身もまた、聖光教団に最愛の弟を人質に取られ、アレンを監視する二重スパイとして動かされていた。


 カレンは器の傍らに立ち、微動だにしない。その指先が、エプロンの端を不自然に強く握りしめている。


「カレン」


 アレンはスプーンを手に取り、黒いスープを静かにすくい上げた。カレンの肩が、びくりと跳ねる。


「お前は、嘘が下手だな」


「……え?」


 カレンの瞳に、初めて明らかな動揺が走った。アレンはスープを見つめたまま、淡々と言葉を紡ぐ。


「教団の異端審問官ジュディスがお前の弟を捕らえ、私を毒殺しなければその命はないと脅した。……違うかい?」


「なぜ、それを……っ!」


 カレンは半歩後退し、反射的に腰の漆黒のダガーに手を伸ばしかけた。しかし、アレンのあまりにも静かな眼光に射すくめられ、その場に凍りついた。車椅子に座るこの病弱な青年は、すべてを見抜いていたのだ。


「お前を責めるつもりはない。人質を取られた姉の絶望を、私は軽蔑しないよ。……だが、カレン。私を殺しても、教団がお前の弟を生かして返すと思うかい? 彼らにとって、用済みの暗殺者の一族など、生かしておく価値はない」


「それは……分かって、います。でも、私には、他にどうすれば……!」


 カレンの瞳から、冷酷な暗殺者の仮面が剥がれ落ち、涙が溢れ出した。彼女は床に膝をつき、声を殺して泣き崩れた。アレンはそんな彼女を静かに見下ろし、手にしたスプーンを口元へと運んだ。


「アレン様、いけません! それは本物の――」


「知っているよ」


 制止の声が響くより早く、アレンは黒い毒液を躊躇なく飲み干した。


「ごほっ……!」


 凄まじい灼熱感が喉から胃壁へと突き抜け、魔力回路が悲鳴を上げた。アレンは激しく咳き込み、口元をハンカチで押さえる。ハンカチは一瞬にして黒ずんだ鮮血に染まった。


「アレン様!」


「静かに……。ニコラに作らせた中和薬はすでに服用している。それに……これしきの毒、私の体内に渦巻く魔力毒に比べれば、ただの不協和音に過ぎない」


 アレンは深く息を吸い、目を閉じた。脳内で、盲目の師オズワルドから伝授された『毒物中和呼吸法』を起動する。息を極めて細く、長く吐き出しながら、体内の魔力循環を強制的に制御する。毒素が心臓へ達するのを防ぐため、特定の経絡の魔力流を一時的に凍結させ、毒の拡散を最大で三時間、完全に停止させた。


 アレンは血を拭い、息を整えてカレンを見つめた。その瞳には、病者とは思えぬ底知れぬ覇気が宿っている。


「カレン、お前の弟は必ず私が救い出す。義勇軍のサイラスが、すでに教団の地下礼拝堂の捜索を開始している。だから、お前のその『牙』を、私に預けてくれないか?」


 カレンは涙に濡れた顔を上げ、アレンの狂気的なまでの覚悟と、自分を救おうとする底知れぬ包容力に、魂の底から震えた。彼女は額を床に擦りつけ、声を震わせた。


「……この命、これよりアレン様の『影』として捧げます。お命じください、我が主よ」


「よく言った。では、最初の仕事を始めよう。……毒を盛られた哀れな領主が、深夜の訪問者として叔父の寝室へ向かう。案内してくれるね?」


 アレンの唇に、獲物を捕らえる毒蛇のような冷酷な笑みが浮かんだ。


 深夜二時。グレイロード城の東翼にある、バルト・グレイロードの豪華な寝室。


 バルトはベッドに腰掛け、高級なワイングラスを傾けていた。彼の太い指には、微細な毒針を仕込んだ「バルトの毒殺指輪」が嵌められている。彼は今夜、アレンが苦しみ悶えて死んだという報せが届くのを、今か今かと待ちわびていた。


「ふふふ、死に損ないの小倅め。今頃は魔力回路を黒く腐食させ、無様にのたうち回っている頃だな。グレイロードの財産も、魔結晶鉱山の利権も、すべてこの私のものだ……」


 バルトが下卑た笑い声を上げたその瞬間、部屋の空気が物理的に張り詰めた。


 音もなく、部屋の防音結界が外側から起動され、周囲の雑音が完全に遮断される。バルトが眉をひそめ、扉の方向を振り返ったとき、重厚な木製の扉が、一切の音を立てずに開いた。


 暗闇の中から滑り込むように入ってきたのは、一台の車椅子だった。


 その上に腰掛けているのは、死んだはずのアレン・グレイロード。そして、車椅子を静かに押しているのは、バルトが毒薬を渡したはずの侍女――いや、アレンの「影」となったカレンであった。


「な……っ!?」


 バルトの顔から一瞬にして血の気が引き、ワイングラスが手から滑り落ちて床で砕け散った。


「よ、夜分遅くに失礼します、叔父上。お加減はいかがですか?」


 アレンは車椅子の上で、ハンカチで微かに口元の血を拭いながら、極めて穏やかに語りかけた。だが、その漆黒の瞳は、氷のように冷たくバルトを射抜いている。


「ば、馬鹿な! なぜ貴様が生きている!? あの毒を……『禁忌の黒毒液』を飲んだはずだ!」


「ああ、あのスープですか。確かに美味とは言えませんでしたが、叔父上の『誠意』として、最後の一滴まで美味しくいただきましたよ」


 アレンは車椅子を一歩前へと進めさせた。バルトは恐怖に顔を歪め、ベッドの奥へと這いずりながら逃げようとした。しかし、その強欲な頭脳が、すぐに最後の抵抗を思いつく。


「この、死に損ないが……! ここで直接、引導を渡してやる!」


 バルトは立ち上がり、右手をアレンの喉元へと突き出した。彼の指に嵌められた「バルトの毒殺指輪」から、極細の毒針が飛び出す。握手と同時に、あるいは僅かな接触でアレンの皮膚に毒を直接注入しようとする、最後の不意打ちだった。


「カレン」


 アレンが短く呟いた瞬間、部屋の影が物理的に立ち上がった。


「――影縫い」


 カレンの「影縫いの歩法」が起動する。彼女の姿が夜霧のように掻き消えたかと思うと、次の瞬間にはバルトの背後に実体化していた。鋭い金属音が響き、カレンの放った「漆黒のダガー」が、バルトの右袖を、そして彼の背後に伸びる「影」を床へと深く縫い留めた。


「ぎゃあああっ!?」


 バルトは右腕を完全に固定され、床に無様に這いつくばった。いくら力を込めても、影を縫い合わされた肉体は一ミリも動かすことができない。ダガーは彼の「バルトの毒殺指輪」のすぐ横に突き刺さり、毒針の起動スイッチを物理的に破壊していた。


「静かにしてください、叔父上。声を荒らげても、この部屋の結界はカレンが完全に支配しています。誰にも、あなたの悲鳴は届かない」


 アレンは車椅子から静かに立ち上がった。杖を突き、一歩、また一歩と、這いつくばるバルトへと近づいていく。毒を一時的に呼吸法で抑えているとはいえ、アレンの肉体には激しい痛みが走っていた。だが、彼の表情には微塵の揺らぎもない。


 アレンはテーブルの上に置かれていたワインボトルを手に取り、バルトが落としたグラスの破片の代わりに、予備のグラスへ赤ワインを静かに注いだ。そして、懐から小さなガラス瓶を取り出し、その黒い液体を数滴、ワインの中へと滴らせた。


「さて、叔父上。等価交換の話をしましょう」


 アレンは毒入りのワイングラスを、バルトの目の前の床へと置いた。


「これを飲み干して今すぐここで死ぬか。それとも、その毒をあなたに与えた『黒幕』の名を吐いて、明日の朝まで生き延びるか。……選ぶのはあなたです」


「ひ、ひぃっ……!」


 バルトは床に滴る黒い毒液を見つめ、全身を小刻みに震わせた。自分が仕組んだ死の罠が、そのまま自らの喉元へと突きつけられている。アレンの瞳にあるのは、冷酷な現実主義者の光。この男は、交渉に応じなければ本当に自分に毒を飲ませる。バルトは本能的にそれを理解した。


「い、言う! 言うから、それだけは許してくれ!」


 バルトは涙と鼻水を流しながら、床に額を擦りつけた。


「バルタザールだ! ルザリア帝国の元老院強硬派、バルタザール・フォン・ルザリア閣下から授かったのだ! 彼らはエリザベート女王の婚姻を侮辱と捉え、お前を殺して、人間との全面戦争を引き起こそうとしている! 私は、ただその手伝いをしただけだ!」


「……やはり、バルタザールですか」


 アレンは冷ややかに呟いた。すべては彼の計算通りだった。バルトの背後にいる吸血鬼の強硬派。明日の歓迎夜会で、彼らを一網打尽にするための決定的なパズルのピースが、これで揃った。


「カレン、叔父上を地下牢の最奥へ。明日の夜会まで、誰にも見つからないように幽閉しておくれ。彼には、明日の舞台で大事な『役割』を果たしてもらう」


「御意」


 カレンが影の中から音もなく現れ、バルトの首筋を叩いて気絶させた。バルトの肥満体が床に崩れ落ちる。


 アレンは杖にすがり、激しい咳を漏らした。口元を押さえたハンカチに、再び赤い血が滲む。体内の『禁忌の黒毒液』を呼吸法で抑え込む限界が、刻一刻と近づいていた。白銀に染まり始めた彼の髪が、月光を浴びて妖しく輝く。


「……まだ、倒れるわけにはいかない」


 アレンは自らの脆弱な胸元を押さえ、静かに微笑んだ。明日、歓迎夜会の円卓は、血塗られたパワーバランスの戦場となる。毒蛇の牙は、すでに吸血鬼の強硬派の喉元へと向けられていた。

HẾT CHƯƠNG

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