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天秤を揺らす者たち、嵐の宮廷

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朝霧がグレイロード城の石造りの尖塔を白く包み込む頃、アレン・グレイロードは静かに廊下を歩いていた。漆黒の髪を整え、使い古されたが仕立ての良い黒い貴族外套を羽織っている。その左手には、黒ずんだ木肌にグレイロード家の家紋が刻まれた一本の杖が握られていた。


「……ふぅ」


 一歩踏み出すたびに、骨の奥にじわじわと鈍い痛みが走る。しかし、昨夜エリザベートとの間で交わした「吸血同調」のパスは、今もアレンの左手薬指に嵌められた「三重誓約の指輪」を通じて、確かに機能していた。指輪のサファイアの奥で、真祖の女王から供給される真紅の魔力が細い糸のように脈打っている。それがアレンの体内の「魔力毒」を一時的に中和し、彼の肉体を、死の淵である「極微」から、辛うじて自力歩行が可能な「微弱」の状態へと繋ぎ止めていた。


 だが、これは極めて綱渡りの平穏に過ぎない。他二国の女王が城内に踏み込んだ今、指輪の「天秤」は急激にバランスを崩しつつある。均等な魔力を指輪に繋ぎ止めなければ、アレンの心臓は遠からず過負荷で破裂するのだ。


「アレン様、お体に障ります。やはり魔導車椅子をお使いに……」


 背後から付き従う老執事セバスチャンが、沈痛な面持ちで声をかけた。アレンは杖の頭部に置いた手に力を込め、微かに首を振る。


「いや、これでいい、セバスチャン。今日の円卓会議には、自らの足で歩いて入る必要がある。……弱々しく、今にも崩れ落ちそうな当主の姿を、彼女たちに見せてやるためにね」


 アレンの唇に、冷徹な打算の笑みが浮かんだ。自らが「最下層の操り人形」であると敵に錯覚させることこそが、この宮廷サバイバルにおける最強の盾となるのだ。


 重厚な鉄の扉が開き、アレンは「円卓会議室」へと足を踏み入れた。部屋の中央に鎮座する巨大な円卓。そこには、すでに三つの強大な勢力が、一触即発の魔力を孕みながら対峙していた。


 円卓の北側には、昨夜アレンと血の契約を結んだ吸血鬼の女王エリザベート・フォン・ルザリア。彼女は銀髪を美しく波立たせ、退屈そうに頬杖をついていたが、アレンが入室した瞬間、その真紅の瞳が僅かに揺れた。吸血同調のパスを通じて、彼女の胸の奥にある、アレンに対する奇妙な「独占欲」の萌芽が、アレンの脳裏に微かな熱となって伝わってくる。


 そして、円卓の南側に座るのが、アストレア精神世界の精神的指導者、皇女ファラ・エル・アストレアだった。透き通るような肌に、精緻に編み込まれた金髪。世界樹の葉を模した美しい緑の法衣を纏い、知的で冷酷な美貌を湛えている。その隣には、アストレアの天才魔導士エレノアが、アレンを侮蔑するような視線で見つめながら控えていた。


 円卓の西側には、ラグズディール獣王国の若き覇王、ゲルダ・アイアンファング。金色の獣耳と尾を時折不機嫌そうに揺らし、動きやすい革の戦闘服を纏った彼女は、野性的な色香と圧倒的な物理的質量を感じさせる体躯を誇る。彼女の背後には、狼獣人の若き将軍ガウルが、腕を組んで殺気を放ちながら立っていた。


 エルフの冷酷な精霊の風と、獣人の荒々しい闘気が、会議室の空気を物理的に歪めている。アレンが部屋に入った瞬間、その二つの巨大な圧力が、容赦なく彼の脆弱な肉体へと押し寄せた。


「ゴホッ、ゲホッ……!」


 アレンはわざとらしく激しく咳き込み、口元を白いハンカチで押さえた。杖を突く手が小刻みに震え、今にも床に倒れ込みそうな弱々しさを見せる。守備隊長ヴァンが反射的に剣の柄に手をかけたが、アレンは目線だけでそれを鋭く制した。ここで武力を見せれば、交渉の余地は消える。


「おいおい、噂通りの死に損ないじゃねえか」


 ゲルダが牙を覗かせて不敵に笑った。彼女の黄金の瞳が、アレンの細い身体を値踏みするように舐め回す。


「ルザリアの真祖ともあろう者が、こんな風が吹けば吹き飛ぶような人間に最初の夜を捧げたとはな。笑わせるぜ。なあ、エルフの姉ちゃんよ?」


 ファラはゲルダの言葉を無視し、冷ややかな青い瞳をアレンへと向けた。彼女の周囲で、微弱な精霊の光が明滅する。「精霊の息吹」を用いた精神探知。彼女はアレンの魂の波長を読み取り、その脆弱さの裏にあるものを分析しようとしていた。


「……奇妙ですね。彼の肉体は確かに崩壊寸前です。ですが、その瞳の奥にある魔力の流れには、不自然なほどの静謐さを感じます。エリザベート陛下、あなたが彼を完全に隷属させられなかった理由が、そこにあるのでしょうか?」


 ファラの鋭い指摘に、エリザベートが不快そうに鼻を鳴らした。


「戯言を、アストレアの小娘。この男がどうあろうと、すでに私の『所有物』だ。私の許可なく、その汚らわしい精霊の目を向けることは許さん」


「おやおや、ずいぶんなご執心だな」


 ゲルダが口笛を吹く。二人の女王の間で、再び猜疑心と独占欲の嵐が吹き荒れようとしたその時、重々しい足音が会議室に響いた。


「使節団の皆様、我が甥であるアレンの無様な姿をお見せし、一族の者として深くお詫び申し上げます」


 現れたのは、アレンの叔父、バルト・グレイロードだった。肥満体をきらびやかな絹の衣装で包み、指には安物の宝石を嵌めた彼は、傲慢な笑みを浮かべて円卓の側へと歩み寄った。


「見ての通り、アレンは魔力毒に侵され、自力で立つことすらままならぬ身。三大魔境の境界に位置するこのグレイロードを、このような病人が統治することなど不可能です。領民もまた、明日の生存すら見えぬ恐怖に怯えております」


 バルトはアレンを「死に損ない」と見下し、使節団に向けて両手を広げた。


「ここは一族の最長老たる私、バルトが当主代理として実権を握り、皆様との新たな平和条約を結ぶべきかと存じます。アレン、お前は奥の病室で静かに余生を過ごすがいい。署名用の書面はすでに用意してある」


 公然たる退位の要求。バルトは使節団の武力を背景に、一気にアレンを廃位しようと企んでいたのだ。会議室内のグレイロードの家臣たちに動揺が走る。


 ヴァンが怒りに顔を染め、バルトに向けて一歩を踏み出そうとした。だが、アレンは杖を突き直しながら、弱々しく息を吐き出した。


「……叔父上、お気遣い、痛み入ります」


 アレンの声は掠れ、消え入りそうだった。


「私の体が万全でないのは事実です。ですが、父アルベルトが遺したこの領地を、正式な手続きもなしに明け渡すわけにはまいりません。ゴホッ……皆様、本日は長旅でお疲れでしょう。私も……少し、胸の痛みが激しくなってまいりました」


 アレンはハンカチで口元を拭い、弱々しく円卓の女王たちを見渡した。


「グレイロードの誠意として、今宵は当主館の厨房が腕によりをかけた極上の薬膳と晩餐を用意させます。どうか、今夜は旅の疲れを癒やしてください。円卓会議の正式な開催は、明日の朝に延期させていただけないでしょうか」


 ファラはアレンの青白い顔をじっと見つめ、その瞳の奥にある「知性の光」を観察していた。彼女は、アレンのこの弱々しさが、周囲を油断させるための高度な演技ではないかと疑い始めていた。だが、現時点で確証はない。


「良いでしょう」


 ファラが冷酷に告げた。


「不健康な交渉相手と話しても、建設的な議論は望めません。明日の朝、あなたがまだ生きていれば、その時に話をしましょう」


「肉があるなら、私は文句ねえさ」


 ゲルダも退屈そうに立ち上がった。エリザベートはアレンを一瞥し、何も言わずに部屋を後にした。バルトは、アレンが交渉を恐れて逃げ出したと確信し、勝ち誇ったような笑みを浮かべて家臣たちを引き連れて去っていく。


 誰もいなくなった会議室で、アレンは杖を突き、深く息を吐き出した。その瞳から、先ほどまでの弱々しさは完全に消え失せ、冷徹な蛇のような光が宿っていた。


「……セバスチャン、バルトの動きを監視しろ。彼は今夜、確実に動く」


「御意に、アレン様。すでに網は張ってございます」


 アレンは静かに窓の外を見つめた。最下層の操り人形を演じる時間は、間もなく終わる。脳内では、叔父バルトを奈落へと突き落とす冷酷な排除計画が、すでに音もなく始動していた。


 その頃、城の薄暗い回廊の影で、バルトは一人の若い侍女の腕を強く掴んでいた。彼の太い指の間には、闇市場から仕入れた不気味な黒い液体が入った小瓶が握られている。


「いいか、今夜アレンの寝室に運ぶ薬膳に、この『禁忌の黒毒液』をすべて混ぜろ。これは人間の純血と、このグレイロードを救うためだ。失敗すれば……お前の家族がどうなるか、分かっているな?」


 侍女は恐怖に震えながら、震える手でその毒瓶を受け取った。暗闇の中で、新たな暗殺の陰謀が、静かにアレンの夕食へと忍び寄ろうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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