覇王の試練、野獣の牙と対峙せよ
ズゥゥゥン、と腹の底に響く重苦しい地鳴りが、グレイロード城の分厚い石壁を震わせた。
「正面門が……ジュディス率いる教団本隊の猛攻に晒されています」
背後に控える老執事セバスチャンの報告は、極めて冷静だったが、その声の端には隠しきれない焦燥が滲んでいた。ヴァンとレオが正面門の防衛線を死守しているが、彼らが持ちこたえられるのは、せいぜいあと十五分。それが、現在のグレイロード領主軍が稼げる限界の時間だった。
だが、アレン・グレイロードは、自らの執務室の車椅子の上で、血に染まったハンカチを静かに握りしめたまま、冷徹な笑みを崩さなかった。彼の「極微」の肉体は、度重なる感覚共有と魔脈演算の過負荷により、すでに崩壊寸前にある。毛先からじわじわと白銀に染まり始めた漆黒の髪が、彼が支払っている寿命の代償を無言で物語っていた。
「ジュディスが正面門を叩いている今、城内の『火種』を放置するわけにはいかないな、セバスチャン」
アレンの声は掠れていたが、その瞳に宿る知性の光は、微塵も衰えていなかった。
「……はい。獣人使節団の滞在する『黄金の牙亭』ですね。彼らがこの混乱に乗じて内側から暴動を起こせば、我が城は一瞬にして内側から瓦解いたします」
「そうだ。それに、無法者連合を裏で操っていた『証拠』も手に入った。これを使わない手はない」
アレンは、膝の上に置かれた木箱に視線を落とした。そこには、霧の谷での戦闘(第8話)の際、斥候長オットーが命がけで回収した、獣王国の主戦派部族長バザックの刻印が入った武器が収められている。バザックがゲルダ女王を裏切り、人間の無法者と結託してグレイロードを襲わせた決定的な物理的証拠だ。
「黄金の牙亭へ向かう。車椅子を押せ、セバスチャン」
城の兵舎を改装した獣人たちの宿舎『黄金の牙亭』の重厚な木扉を開けた瞬間、荒々しい野生の熱気と、剥き出しの殺意がアレンの全身を包み込んだ。
室内に満ちているのは、獣皮の匂い、焙られた肉の脂の香、そして、何よりも侵入者をいつでも引き裂こうとする獣人戦士たちの唸り声。数十対の鋭い眼光が、車椅子に乗った病的で白い肌のアレンへと一斉に向けられた。彼らは正面門での戦闘の騒音を聞きつけ、すでに武器を手に取り、今にも暴れ出そうと牙を研いでいたのだ。
その殺気の渦の中心、骨と獣皮で組まれた粗野な玉座に、ラグズディール獣王国の若き覇王、ゲルダ・アイアンファングが腰掛けていた。金色の獣耳を不機嫌そうに伏せ、黄金の瞳でアレンを睨みつける彼女の傍らには、灰色の狼耳を持つ若き将軍ガウル・ルードフが、その身の丈を超える『雷鳴の大剣』に手をかけた状態で立ちはだかっていた。
「何の用だ、車椅子の死に損ない」
ガウルが鼻で笑い、アレンを侮蔑の眼差しで見下ろした。その声には、一切の容赦がない。
「外が騒がしいようだが、お前たちの貧弱な防壁が教団の光に焼き切られるのを、指をくわえて待っているのか? それとも、我々に助けを求めに這いつくばりに来たか?」
「助けなど不要だ、ガウル将軍」
アレンは静かに木箱を開け、その中からバザックの刻印が刻まれた戦斧の柄を取り出し、床へと転がした。乾いた音が室内に響き渡る。
「私がここに来たのは、お前たちの身内にいる『裏切り者』の始末を、ゲルダ陛下に直接ご提案するためだ」
転がった金属片を見た瞬間、ガウルとゲルダの表情が同時に硬直した。バザックの刻印――それは獣人たちにとって、見紛うはずのない主戦派部族の紋章だった。
「これは……バザックの紋章か。なぜ、お前がこれを持っている?」
ゲルダが玉座から身を乗り出し、鋭い黄金の瞳を細めた。アレンは冷徹に言葉を紡ぐ。
「霧の谷で我が商隊を襲撃した無法者連合。彼らに武器と資金を提供し、グレイロード領内での武力衝突を仕組んだ黒幕。それが、お前たちの国の主戦派部族長バザックだ。これは、その現場で回収した決定的な証拠だ」
「ハッ!」
ガウルが雷鳴のような嘲笑を上げ、大剣の柄を強く握りしめた。
「人間の弱者が持ってきた鉄屑など、我が国では何の証拠にもならん! 我がラグズディールの法は唯一つ、力のみだ。言葉の刃でしか戦えぬ、車椅子から立ち上がることもできん死に損ないの戯言など、誰が信じると思うか!」
ガウルが大剣を引き抜いた。刃から青白い電撃がパチパチと弾け、室内の空気が物理的に焼き焦げていく。彼が放つ圧倒的な殺気が、アレンの脆弱な肉体を押し潰そうと迫る。
さらに、ゲルダが退屈そうにため息をつき、その黄金の瞳に冷酷な光を宿した。彼女の周囲から、目に見えるほどの黄金の闘気が立ち上る。――ゲルダの『獣王覇気』の解放。
ズゥゥゥン!
大聖堂での戦闘の地鳴りとは異なる、圧倒的な「質量」の圧力が部屋全体を支配した。重力が倍加したかのような錯覚。アレンの背後に立つ人間の守備兵たちが、その凄まじい威圧感の前に、骨を軋ませながら次々と膝を屈し、床に這いつくばった。セバスチャンでさえも、アレンの車椅子を守るように身を固め、その重圧に歯を食いしばっている。
アレンの「極微」の肉体は、その覇気を浴びた瞬間、内臓が押し潰されるような激痛に襲われた。彼の左手薬指に嵌められた『三重誓約の指輪』が、エリザベートの魔力を固定したまま、不規則に激しく明滅し始める。心臓が早鐘のように脈打ち、喉の奥から熱い血の味がせり上がってきた。今、ここで僅かでも恐怖を示せば、獣人たちはグレイロードを「価値なき弱者」と見なし、内側からすべてを蹂躙するだろう。
――獣人は強者を尊ぶ。だが、彼らの言う強さとは、単なる肉体の武力だけではない。死を前にしても1ミリも揺るがない、不退転の「魂の強さ」だ。
アレンは、血に染まった唇を微かに歪め、不敵な冷笑を浮かべた。彼は震える右手で、自らの身体を支える『当主の杖』を握りしめ、車椅子の手すりに手をかけた。
「アレン様、いけません! そのお体では――」
セバスチャンの悲痛な制止を、アレンは鋭い左目の眼光だけで制した。
そして、アレンは、自らの足で床に立った。車椅子から降り、その脆弱な肉体を、ゲルダの『獣王覇気』が渦巻く部屋の中心へと晒したのだ。
「なっ……!?」
ガウルが目を見開いた。這いつくばるはずの人間が、震えながらも、自らの足で立っている。
一歩。アレンが足を踏み出した瞬間、両膝に焼きごてを押し当てられたような激痛が走った。魔力毒が神経を蝕み、全身の筋肉が拒絶反応を起こしている。
二歩目。彼の膝が激しくよろめき、杖の先が滑って床に倒れかけた。獣人戦士たちから、嘲笑のような息漏れが響く。だが、アレンは自らの舌を奥歯で噛み切り、その激痛によって脳を強制覚醒させた。口内を満たす鉄の味とともに、彼は執念で立ち直り、再び背筋を伸ばした。彼の漆黒の髪は、その瞬間にも、さらに白銀の領域を広げていた。
アレンは一歩、また一歩と、ゲルダに向けて歩み進む。彼の瞳は、暗く、底知れぬ深淵。心理誘導『マインド・アライン』の波長をその視線に乗せ、ゲルダの黄金の瞳を真っ向から見つめ返した。その瞳には、死への恐怖など微塵も存在しなかった。
「力こそが法、か。ならばゲルダ陛下。死を恐れず、自らの命をチェス盤のポーンのように差し出す私の『意志』は、お前たちの言う『力』に値しないか?」
アレンの尋常ならざる精神的プレッシャーに、ガウルは本能的な脅威を覚えた。この男は狂っている。死を前にして、なぜこれほどまでに冷酷でいられるのか。ガウルは野生の本能に突き動かされ、一歩踏み出すと同時に、その『雷鳴の大剣』をアレンの喉元に向けて突き出した。
キィィィン、と冷たい金属音が響き、鋭い剣先がアレンの喉元の皮膚にミリ単位で触れた。鋭い刃が皮膚を裂き、一筋の紅い鮮血が、アレンの白い首筋を静かに伝い落ちる。
だが、アレンは瞬き一つしなかった。喉元に大剣を突きつけられた極限の膠着状態の中で、彼は冷徹にガウルの瞳を見つめ、そして、その奥に座るゲルダを見据えた。
その瞬間、ゲルダの黄金の瞳に、これまでにない強烈な動揺と、燃え上がるような強烈な関心が宿った。
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