偽りの聖痕、奈落への罠
蝋燭の微かな炎が、書斎の重苦しい空気を揺らしていた。薬草の苦い匂いと、微かな血の香りが鼻腔を突く。アレン・グレイロードは、執務机の前に深く身を沈めていた。彼の左腕は、まるで死んだ木石のように膝の上に力なく横たわっている。過酷な魔力同調の代償は、彼の脆弱な肉体を確実に蝕んでいた。右目の視界は完全に闇に閉ざされ、額から流れ落ちる汗が、半分ほど白銀に染まった前髪を濡らしている。
「……レガリアの駆動石の固定具は、やはりまだ調整が必要ですか、ボリス」
アレンの問いかけに、机の傍らに控えていた老執事セバスチャンが、痛ましげに目を伏せた。
「はい。ドワーフのボリスが全力で修復に当たっておりますが、教団の聖光魔力による干渉波は、浮遊石の深部回路を狂わせております。完全な浮遊能力と障壁機能を取り戻すには、今しばらくの時間を要します」
アレンはかすれた吐息を漏らし、残された左目で卓上の地図を見つめた。動かぬ身体、破損した移動手段。まさに満身創痍。しかし、彼の脳細胞は、かつてないほど冷徹に回転していた。
「アレン様、城下町の状況が極めて緊迫しております」
静かに、しかし焦燥を孕んだ声で報告したのは、斥候長のオットーだった。彼は泥に汚れた外套を翻し、アレンの前に跪いた。
「孤児院から子供たちが連れ去られた事件……街では教団の息がかかった扇動者どもが『吸血鬼の仕業だ』『領主は魔族と結託して子供たちを生贄に捧げた』と触れ回っています。貧民街を中心に領民たちの不安が爆発し、暴動の火の手が上がりかけています」
「白亜の衣を血で染めてまで、神の奇跡を偽装したいようだな、ジュディス」
アレンの薄い唇が、冷酷な弧を描いた。すべては異端審問官ジュディスが仕組んだ自作自演の狂言。魔族である三人の女王をグレイロードから駆逐し、領地を力ずくで教団の支配下に置くための、血塗られた大義名分だ。
「ジュディスは大聖堂から動いていませんが、本国へ『魔族による虐殺から領民を救うため、聖光騎士団の城内進軍を開始する』との公式親書を送った模様です。署名を拒絶された彼女は、力ずくでこの城を奪うつもりです」
「数時間の内に、怒り狂った領民たちがこの領主館の門前まで押し寄せるでしょう」セバスチャンが静かに付け加えた。「それこそが教団の狙い。暴動を鎮圧するという名目で、合法的に騎士団を城内へ引き入れる腹づもりです」
「……面白い。敵がその盤面を描くなら、こちらはその裏をかくだけだ」
アレンは微かに笑んだ。その時、彼の鋭い魔力知覚が、執務室の外の廊下で不自然に揺れる魔力の波長を捉えた。アレンの左手薬指に嵌められた『三重誓約の指輪』が、かすかに青紫の光を放つ。アレンは「感覚共有(リンク・センス)」を起動し、周囲の空間に潜む魔力波長を脳内の幾何学グリッドにマッピングした。
廊下の曲がり角、侍女の服を着た若い少女が、息を潜めてこちらの様子を窺っている。密偵ライラ――城内に潜入している教団のスパイだ。彼女はアレンの病状と、城内の防衛配置をジュディスに報告する役割を担っていた。
アレンはセバスチャンに目配せをし、わざと大きな声で語りかけた。
「セバスチャン……前回の戦闘で、我が守備隊は壊滅的な打撃を受けた。特に東門の警備は、ヴァンが負傷したこともあり、現在は一般兵が数名残るのみ。もし今、東門から教団の急襲を受ければ、我が城は一たまりもないだろう……」
「アレン様、それは……!」
「これ以上の防衛は不可能だ。私は一度、地下の書庫へ退く。東門の配置図は、この机の上に置いておく……」
アレンはそう言い残すと、セバスチャンに車椅子を押させ、わざとらしく力なく咳き込みながら執務室を後にした。背後で、廊下の気配が微かに動いたのを、彼の感覚共有は逃さなかった。
数分後。誰もいなくなった執務室に、侍女の姿をしたライラが音もなく忍び込んできた。彼女は怯えた表情を装いながらも、その目は冷酷な光を宿している。彼女はアレンが机の上に「放置」していった防衛配置図を素早く手に取り、その内容を目に焼き付けた。
(やはり……東門の警備は完全に瓦解している。アレン・グレイロードはもう、自力で立つことすらできない死に損ないだわ)
ライラは懐から、教団独自の通信魔導具である「伝音の魔石」を取り出した。彼女が魔石に微弱な精神波を注ぎ込むと、冷たい白亜の光が灯る。
『ジュディス様、ライラです。アレンの執務室から防衛図を確保しました。アレンは極限まで衰弱しており、歩行すら不可能です。そして――城の東門の警備は完全に形骸化しています。今すぐ東門から急襲部隊を侵入させれば、無傷で城塞を制圧できます』
魔石の向こうから、ジュディスの冷酷な笑い声が微かに響いた。
『見事な働きです、ライラ。やはり、あの病弱な虫ケラにこれ以上の知略を巡らせる余力はなかったようですね。ただちに聖光騎士団の先遣隊を東門へ向かわせます。暴動が始まるのと同時に、城内を神聖なる光で満たしなさい』
通信が切れた瞬間、ライラは満足げな微笑を浮かべて書類を元に戻し、何事もなかったかのように部屋を立ち去った。
だが、彼女は気づいていなかった。執務室の天井の梁の上で、漆黒の衣装を纏った専属メイドのカレンが、その一部始終を死神のような冷たい瞳で見下ろしていたことを。
城の地下通路へと繋がる薄暗い回廊で、アレンは車椅子を止め、カレンからの思念伝達を受信した。
『アレン様、ライラがジュディスへ連絡を入れました。計画通り、東門の偽情報を本物と信じ込んでおります』
「よくやった、カレン。……ライラはそのまま泳がせておけ。彼女が『自分は完璧に任務を遂行している』と信じている限り、教団はこちらの罠に自ら飛び込んでくる」
アレンは冷酷に囁いた。彼の脳内では、すでにジュディスを自滅させるための完璧なシナリオが構築されていた。
「セバスチャン、サイラスに連絡を。東門の周囲の廃屋や地下水道の出口に、義勇軍の精鋭を極密裏に配置させろ。教団の急襲部隊が東門をくぐった瞬間、彼らの退路を完全に遮断し、逆包囲する」
「かしこまりました。……しかし、アレン様。拉致された子供たちの救出はどうされますか? 彼らを人質に取られている限り、領民たちの暴動を根本から止めることはできません」
アレンは目を閉じ、指輪を通じてカレンの精神の波長を強く引き寄せた。カレンの胸の奥にある、張り裂けんばかりの焦燥と恐怖。彼女の唯一の家族である弟が、この拉致事件の人質として教団に捕らえられているのだ。カレンがどれほどアレンに忠誠を誓っていても、弟の命を前にして彼女の心は極限まで揺れ動いていた。
「カレン。お前の弟がどこに囚われているか、すでに特定した」
アレンの声が、カレンの脳裏に直接響いた。カレンは息を呑み、天井の闇の中で身体を硬直させた。
『アレン様……それは、本当ですか……?』
「ああ。オットーが調査した教団の魔力通信の残響波形、そしてバルトの残党が残した地下廃水道の隠し地図……すべてが一点を指し示している。城下町の地下最深部、かつて教団が異端者を秘密裏に処理するために建設した『禁忌の礼拝堂』だ」
禁忌の礼拝堂。その地名は、グレイロードの歴史における暗部そのものだった。聖光の届かぬ地下廃水道の奥深く、そこは教団の非公式な拷問所であり、魔族撲滅のための秘密兵器の保管庫だった。
「ジュディスは子供たちをそこに監禁し、吸血鬼の儀式の生贄にされたという偽の証拠を捏造している。カレン、お前に最後の、そして最も過酷な任務を与える。……地下の礼拝堂へ潜入し、お前の弟と子供たちを救出するんだ」
『……私一人の力で、教団の警備を突破できるでしょうか』
「お前は一人ではない。私の『感覚共有』がお前の目となり、耳となる。そして、サイラスの義勇軍が、地下の隠密移動ルートを通ってお前の背後を固める。カレン、お前の弟を必ず生きて連れ戻す。……私を信じろ」
アレンの言葉には、病弱な肉体からは想像もつかないほどの、絶対的な覚悟と支配力が宿っていた。カレンは涙を堪え、闇の中で深く頭を下げた。
『はい……我が主よ。この命、貴方に捧げます』
カレンの気配が、音もなく影の中に溶けて消えた。
アレンは車椅子の上で激しく咳き込み、口元を抑えた。ハンカチにじわりと赤い血が滲む。右目の暗闇が、じわじわと脳の奥を侵食していくような激痛が走る。だが、彼は杖を強く握りしめ、前を見据えた。城下町からは、怒れる民衆の地鳴りのような叫び声が、風に乗って城塞へと届き始めていた。
――ジュディス、神の光を騙るお前たちの偽善が、どれほど醜いものか。その白亜の仮面を、今夜、完璧に剥ぎ取ってやろう。
一方、グレイロード城の地下廃水道。湿った泥とドブ川の不快な臭気が立ち込める暗闇の中を、カレンは「影縫いの歩法」を用いて風のように進んでいた。彼女の身体は、周囲の壁の影に物理的に同化し、いかなる魔力探知結界にも引っかかることなく、地下の奥深くへと侵入していく。
彼女の脳裏には、常にアレンの静かな声が響いていた。アレンの「感覚共有」は、彼女の視界の隅に、地下廃水道の精緻な三次元地図を投影していた。曲がり角の先に配置された聖光騎士の歩数、仕掛けられた浄化の罠の正確な座標。アレンの超精密な「魔脈演算」は、カレンを完璧な安全ルートへと導いていた。
(アレン様……貴方はなぜ、これほどまでに私のために命を削るのですか……)
カレンは自らの胸元を握りしめた。彼女はかつて、教団に弟を人質に取られ、アレンを毒殺するためのスパイとしてこの城に送り込まれた。裏切り者であり、いつ処分されてもおかしくない自分を、アレンは救うと言った。そのために、彼は自らの寿命を消費する演算を全開で行っているのだ。
やがて、廃水道の突き当たりに、頑強な石造りの隠し扉が現れた。扉の隙間から、不気味な青白い光と、子供たちの怯えた泣き声が微かに漏れ聞こえてくる。
カレンは息を殺し、扉のロックをアレンから指示された周波数で解除した。音もなく開いた扉の先には、広大な地下空間が広がっていた。崩れかけた白亜の円柱、打ち捨てられた十字架――そこが、教団の秘密作戦地である『禁忌の礼拝堂』だった。
礼拝堂の中央には、巨大な鉄格子の檻が置かれ、その中には城下町から拉致された十名の子供たちが、互いに抱き合って震えていた。そして、その中には、カレンが何よりも愛する最愛の弟の姿もあった。
「……無事だったのね」
カレンは影から実体化し、檻に向けて駆け寄ろうとした。だが、彼女の鋭い暗殺者としての本能が、異様な魔力の波動を察知して足を止めさせた。
子供たちの檻のすぐ傍ら、祭壇の上に、不気味な紋様が刻まれた巨大な黒い結晶体が設置されていた。結晶体は不規則に明滅し、周囲の大気を物理的に歪めている。教団が城塞を基礎から吹き飛ばすために仕掛けた「魔導爆弾」だった。爆弾の信管は、子供たちの生命力(魔力)と繋がっており、無理に子供たちを救出しようとすれば、その瞬間に爆弾が起動し、地下街ごとすべてが蒸発する極悪な設計となっていた。
「そんな……これでは、手が出せない……」
カレンが絶望に息を呑んだ、その瞬間だった。
礼拝堂の奥の暗闇から、パチ、パチ、と、ゆっくりとした拍手の音が響き渡った。冷酷で、軽薄な男の笑い声が、冷たい石壁に反響する。
「素晴らしい隠密技術だ、カレン。まさか、本当にここまで辿り着くとはね」
暗闇から姿を現したのは、ジュディスに酷似した白亜の戦闘ローブを着た細身の青年――ジュディスの冷酷な腹心、ウルリヒ・ルミナスだった。彼の傍らには、十名の聖光騎士が魔導剣を抜いて控えており、その瞳には獲物を追い詰めた猟犬の冷酷な光が宿っていた。
「だが、残念だったね。ジュディス様は、お前たちの小賢しいネズミのような動きを、すべてお見通しだったのだよ」
ウルリヒは不敵に笑い、自らの指先を鳴らした。その瞬間、礼拝堂の周囲の壁に仕掛けられていた聖光の結界が起動し、カレンの退路を物理的に遮断した。さらに、ウルリヒは懐から一枚の呪符を取り出し、子供たちの檻に向けて掲げた。
「さあ、お前の弟の命……そしてグレイロードの命運は、すべてこの私の手の中にある。どうする、哀れな裏切りの暗殺者よ?」
ウルリヒの冷酷な笑い声が、奈落の底のような礼拝堂に響き渡り、カレンは完全に身動きを封じられた――。
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