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破滅の淵と、冷たき真祖の牙

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凍てつくような静寂が、グレイロード城の最奥に位置する「新婚の間」を支配していた。重厚な黒檀の扉の向こうから漂ってくるのは、薔薇の甘い香りと、それを覆い隠すほどに濃厚な鉄錆の匂い――すなわち、血の気配だった。


「……ふぅ」


 アレン・グレイロードは、車椅子の肘掛けに置いた左手を微かに震わせ、深くため息をついた。その薬指にはめられた「三重誓約の指輪」が、彼の不規則な心音と同調するように、鈍い青紫色の光を放っている。


 アレンの肉体は、生まれながらにして全身の魔力回路を蝕む魔力毒により、「極微」と評される限界の状態にあった。自力で立つことすら叶わず、少しでも感情を乱せば肺から血がせり上がってくる。没落寸前の弱小領地グレイロードの「最下層の操り人形」――それが、周囲が彼に与えた無価値なレッテルだった。


 だが、アレンの漆黒の瞳の奥にある知性の光だけは、病魔に冒されてはいなかった。


「先代当主アルベルト……我が父ながら、とんでもない遺産を遺してくれたものだ」


 アレンは自嘲気味に呟いた。領地の即時滅亡を防ぐため、互いに仇敵である三大魔境の女王たちと同時に政略結婚を結ぶ。その狂気じみた「三重政略結婚」の最初の夜が、今、幕を開けようとしていた。最初の交渉相手は、北のルザリア吸血帝国を率いる若き女王、エリザベート・フォン・ルザリア。


 アレンは蒼白い手で車椅子の駆動輪を回し、ゆっくりと扉を押し開けた。


 部屋の温度は、肌が痛むほどに低かった。中央に置かれた真紅の天蓋付きベッド。その端に腰を下ろしている人影が、静かに顔を上げた。


 月光を溶かし込んだかのような銀髪。闇夜のなかで妖しく発光する真紅の瞳。漆黒のドレスを纏ったその姿は、息を呑むほどに美しく、同時に触れた者すべてを凍らせるほどの絶対的な威圧感を放っていた。


「遅かったな、人間の羽虫が」


 エリザベートの声は、心地よい鈴の音のようでありながら、氷の刃のように冷徹だった。彼女の視線がアレンに向けられた瞬間、部屋の空気が物理的な質量を持ってアレンの細い首を絞めにかかる。吸血鬼の真祖が放つ、圧倒的な魔力の圧力だ。


「ゲホッ、ゴホッ……!」


 アレンは激しく咳き込み、口元を白いハンカチで押さえた。ハンカチは一瞬にして鮮血に染まる。車椅子の上でぐったりと身を震わせる彼を見て、エリザベートは蔑むような笑みを浮かべた。


「立ち上がることすらできぬ死に損ないか。我が元老院も、これほど無価値な生贄を私の『夫』として用意するとは、随分と私を侮ったものだ」


 彼女が静かに立ち上がると、その足元から影のように黒赤い魔力の霧が這い出してきた。エリザベートの「血の檻(ブラッド・ケージ)」の予兆。アレンの車椅子は魔力の糸によって物理的に固定され、彼の細い四肢は身動きを完全に封じられた。


「安心しろ、グレイロードの小倅。貴様の命など最初から欲してはいない。ただ、私の忠実な『下僕( thrall )』として、死ぬまでその血を捧げてもらう」


 エリザベートが音もなくアレンの目の前へと滑り込んできた。冷たい指先が、アレンの顎を強引に持ち上げる。彼女の唇の隙間から、鋭く尖った白い牙が覗いた。その牙がアレンの首筋の頸動脈へと近づいていく。死の恐怖が、アレンの脳裏をかすめた。


 普通の人間の領主であれば、この時点で恐怖に悲鳴を上げ、命乞いをしていただろう。だが、アレンは血を吐いた唇を微かに歪め、不敵な笑みを浮かべた。


「……吸血する前に、一つだけご忠告を、エリザベート陛下」


 アレンの声は掠れていたが、驚くほど冷静だった。


「何だと?」


「今、あなたが私をただの下僕として噛めば、あなたはルザリア元老院の強硬派……ザカリアス議長の描いた絵図通りに、王位を失うことになりますよ」


 その言葉が響いた瞬間、エリザベートの真紅の瞳が鋭く細められた。アレンの顎を掴む指先に、さらに強い力が込められる。皮膚が裂け、一筋の血がアレンの首筋を伝う。


「羽虫が、我が国の元老院の名を口にするな。ハッタリで命が救えるとでも思ったか?」


「ハッタリかどうかは、あなたの胸が最もよく知っているはずだ」


 アレンは「心理誘導術「マインド・アライン」」を起動していた。彼の左手の指輪が微かに脈打ち、至近距離にいるエリザベートの微弱な心拍の乱れを「感覚共有」の初期共鳴によって受信する。彼女は傲慢さを装っているが、その実、本国の元老院との政治的対立に極限まで追い詰められている。


「元老院の強硬派が、なぜあなたと人間の弱小領主との政略結婚を推奨したのか、お考えになったことは?」


 アレンは冷徹に言葉を紡ぐ。一言の選択を誤れば即座に首を撥ねられる、命がけの「血の交渉」だ。


「彼らの狙いは、私を『いつでも殺せる人質』としてあなたの傍に置くことです。私がここでただの下僕になれば、元老院はいつでも私を暗殺できる。そして、その罪を『人間の裏切り』、あるいは『女王の暴走』として仕立て上げる。結果、ルザリアは人間との全面戦争に突入し、その混乱のなかで、あなたは共同謀判の責任を問われて廃位される……違いますか?」


「貴様……!」


 エリザベートの顔から余裕が消え去った。彼女の美しい顔が怒りと動揺で歪み、アレンの首を絞める手に力が加わる。アレンの喉が喘ぎ、視界が赤く染まりかける。しかし、アレンは彼女の瞳を見つめ続けた。その瞳には、恐怖ではなく、冷酷なまでの取引の意志が宿っていた。


「ゲホッ……私を殺せば、グレイロードの『魔結晶鉱山』のエネルギーは二度とルザリアには流れない。元老院に先手を打つための資金も、資源も、あなたはすべて失う……」


 アレンは喉を鳴らしながら、最後の一片の情報を叩きつけた。


「だが、私と『対等な血の契約』を結ぶなら……私は鉱山の独占的分配権をあなたに与え、元老院に対抗するための共同戦線を提供しよう。下僕ではなく、対等な盟友としてだ」


 沈黙が部屋を満たした。エリザベートの心拍数は、指輪を通じてアレンの脳裏に激しい警鐘のように伝わってくる。彼女は激しく葛藤していた。人間の、それも車椅子の病弱な男の言葉に耳を傾けるなど、彼女のプライドが許さない。しかし、アレンの指摘した元老院の陰謀は、彼女自身が薄々感じていた恐怖そのものだった。


「対等、だと……? 人間の虫ケラが、この私と……」


 エリザベートは低く唸り、牙を剥き出しにしたまま、アレンの首筋へと顔を近づけた。冷たい息がアレンの鎖骨を撫でる。彼女の牙の先端が、アレンの皮膚を物理的に貫こうとしたその瞬間――アレンはただ、静かに目を閉じて彼女の決断を待った。


 牙が、頸動脈の直上に触れた。言葉の罠は、この傲慢な真祖の女王を縛り付けることができたのだろうか。アレンの命を賭けた最初の夜は、今、極限の境界線上で火花を散らしていた。

HẾT CHƯƠNG

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