枝が描く剣路、言葉なき師弟の契り
落日谷の朝霧は、夜の間に起きた猛火の名残を吸い込んで、灰色に濁っていた。万剣塚の外郭に立ち込める空気には、焼け焦げた低木と熱せられた鉄錆の匂いが混ざり合い、奇妙な重苦しさを醸し出している。梶原率いる放火部隊は退けたものの、その爪痕は深く、無名剣士たちの古い墓標は黒く煤けていた。
地底の寒氷泉から地上へと戻った慕容枯は、残された左手で古い竹箒を杖代わりにし、冷たく硬化した左足を引き摺りながら、一歩一歩、這うようにして墓守の木小屋へと歩みを進めていた。その足が地面を擦るたびに、「ギチ……ギチ……」と、石が擦れ合うような不気味な音が泥の中に響く。右肩の「腐骨毒」の傷口からは、冷気による凍結が解け始めたことで、再びどろりとした黒い血が滲み出し、灰色の麻衣の右袖を赤黒く汚していた。
その後ろを、神楽坂沙耶は無言でついてきていた。彼女の瞳は、激しい衝撃と涙に濡れたままであった。地底湖の底で目撃した、老墓守の凄絶な肉体。失われた右腕と、その肩の根元に刻まれた、父の日記にある裏切り者・司馬無忌の「黒天斬」の奇怪な傷痕。目の前にいる、言葉を失い、泥にまみれた老人が、かつて天下第一と称された伝説の剣聖・慕容枯であるという確信が、彼女の胸を激しく締め付けていた。
木小屋の前に到達したとき、枯はふと立ち止まった。彼は振り返ることもせず、ただすり減った竹箒の柄を握り直し、静かに佇んでいた。その背中は、周囲に乱立する錆びた剣の墓標と同じように、頑なで、どこか哀しげだった。
――ぽつり、と沙耶の膝が煤けた泥の上に落ちた。
「おじいさん……いえ、無双流の継承者よ」
沙耶は泥に塗れるのも構わず、枯の背中に向けて深く頭を下げた。両手で、半ばから無残に折れた父の形見の剣「落葉」を捧げ持ち、その声は激しい震えを帯びていた。
「お願いです。私に……私に剣を教えてください! この折れた『落葉』で、父の無念を晴らし、朝廷の犬となった司馬無忌の陰謀を打ち砕く力を……私に授けてください!」
枯の懐の中で、彼女の声の震えと同調するように、「チリン……」と寂しげな楓の形見の鈴の音が鳴った。しかし、枯は動かなかった。ただ目を閉じ、灰白の髪を朝風に揺らしているだけだった。
教えるわけにはいかなかった。剣は人を殺す道具ではない。ましてや、復讐の怒りに燃えて剣を握れば、かつての自分のように、大切なものをすべて失い、地獄の恩讐の底へと堕ちていくことになる。枯の喉は焼かれ、声は出ないが、その拒絶の意思は、強固に固定された彼の背中が雄弁に物語っていた。
「私は、自分が未熟であることを知っています!」
沙耶はさらに額を泥に擦りつけ、声を張り上げた。
「昨日の野盗との戦いでも、私は自分の力だけで勝てたわけじゃない……。あの時、私を救ってくれたのは、泥の中に落ちていたあの温かい小石でした。おじいさん、あれはあなたの『剣意の刻印』だったのでしょう? 言葉はなくとも、あの石に宿っていた温もりは、私に生きろと、退くなと語りかけてくれた。あんなに澄み切った、優しい剣の心を、私は他に知りません。だから……!」
枯は静かに目を開けた。彼の濁った瞳に、微かな揺らぎが走る。沙耶の瞳にあるのは、かつての親友・神楽坂元信が持っていたものと全く同じ、真っ直ぐで嘘のない、強固な「義」の光だった。ここで彼女を突き放せば、彼女は再び、己の未熟な「浮雲気功」のまま、守備隊長・黒田の軍勢に無謀な戦いを挑み、命を落とすだろう。それは、亡き友との約束に反することだった。
(元信、お前の娘は、牙を持たぬまま嵐の中に立とうとしている……)
枯は無言のまま、手にしていた古い竹箒を木小屋の壁に立てかけた。そして、不自由な足を引き摺りながら、足元に落ちていた一本の、先が焼け焦げた松の木の枝を拾い上げた。右肩の激痛に耐えながら、左手でその枝を静かに構える。それは、言葉なき承諾の瞬間だった。
沙耶は弾かれたように顔を上げた。枯は彼女を見ることなく、ただ地面の黒い泥の上を見つめていた。
枯が左腕を微かに動かした。木の枝の先が、泥の表面に滑らかに滑り込む。それは、一寸の淀みもない、流れるような動作だった。木の枝が泥を削るたびに、「シュー……」という、風が枯葉を揺らすような静かな音が地底から響くように聞こえた。
枯は、泥の上に一本の複雑な幾何学的な曲線を、一気に描き出した。
「これは……」
沙耶はその線を見た瞬間、息を呑んだ。ただの泥の上の傷ではない。その曲線は、驚くべきことに、万剣塚の外郭に乱立する数千の錆びた剣の「配置」と、完璧に一致していた。さらに、枯が毎日、何時間もかけて黙々と行っていた、あの竹箒による掃き掃除の軌道――大気を受け流し、落ち葉を一箇所に集めるための、あの円の動きそのものだった。
脳裏に、稲妻のような衝撃が走る。枯が毎日行っていたあの退屈な掃除は、ただの雑用ではなかった。彼は、この万剣塚の大地そのものを秘伝書とし、毎日「無双剣譜の立体的な伝承」をその肉体で描き続けていたのだ。
枯は木の枝の先で、その描かれた曲線の始まりの地点を、トン、と軽く叩いた。そして、沙耶に向けて顎を微かにしゃくった。やってみせろ、という無言の命令だった。
「はい!」
沙耶は立ち上がり、折れた『落葉』を両手で構えた。彼女は泥の上の軌跡をなぞるように、鋭く踏み込もうとした。しかし、彼女の「浮雲気功」は怒りと焦りで乱れており、踏み込んだ一歩の勢いが強すぎた。右肩を失った枯の左右の非対称な動きを模倣しようとするあまり、自身の身体の重心が激しくブレる。
「きゃっ……!」
沙耶の体はバランスを崩し、煤けた泥の中に無様に転倒した。昨日の肋骨のひびが激しく疼き、彼女は顔を顰めて呻いた。剣の重さに振り回され、重心が完全に外側に逃げてしまっているのだ。
枯は倒れた彼女を冷たく見下ろしたまま、一歩も動かなかった。彼はただ、手にした木の枝の先を伸ばし、沙耶の左足の裏のツボ――「湧泉穴(ゆうせんけつ)」を、ピッと軽く叩いた。
その瞬間、沙耶の足裏から、極微細だが極めて純粋な内力が、針のように侵入してきた。それは彼女の乱れた経絡を刺激し、身体の重心をどこに置くべきかを、肉体の感覚として直接叩き込んできた。失われた右腕の質量を、左肩の角度と足裏の吸引力で完璧に相殺する「隻腕の重心制御法」の極意が、言葉を介さずに、彼女の筋肉へと直接刻印されたのだ。
沙耶は目を見開いた。痛む肋骨を抑えながら、再び立ち上がる。今度は、力任せに踏み込むのを止めた。枯の静かな呼吸に、自らの呼吸を同期させる。風の抵抗を皮膚で感じ、足裏の湧泉穴に意識を集中させて、もう一度踏み込んだ。
――シュッ!
今度は倒れなかった。沙耶の身体は、まるで泥の上を滑るように不規則かつ滑らかに移動し、折れた『落葉』の刃が、朝霧を真一文字に切り裂いた。一寸のブレもない、完璧な重心の移動。霧の奥から、風が小さく歌うような音が響いた。
枯はそれを見て、静かに木の枝を下げた。その瞳に、ほんの一瞬だけ、亡き友・元信の面影を見たような、温かい光が宿った。しかし、彼はすぐにその光を消し、再び竹箒を手にして、黙々と掃き掃除を始めた。
修行が始まった。言葉なき師弟の、鉄と泥の契り。しかし、彼らの頭上に広がる落日谷の崖の上には、すでに新たなる死神の影が、静かに忍び寄っていた。
落日谷の入り口にある守備隊の本陣。その暗い作戦室で、守備隊長・黒田源信は、泥に汚れた机を拳で激しく叩きつけていた。
「役立たずどもめ! 放火作戦まで破られるとは何事だ! あの墓場には、確実に朝廷に反抗する強力な達人が潜んでいる!」
黒田の前に、漆黒の襤褸をまとい、不気味な骸骨の仮面を被った男が、影のように音もなく佇んでいた。羅刹門(らせつもん)の凄腕暗殺者――『骸骨(ガイコツ)』。その両手には、触れるだけで肉を腐らせる劇毒が塗られた、玄鉄の鋭い爪が不気味な光を放っている。
「大金を払ったはずだ、骸骨よ」
黒田は懐から重い金の袋を机に投げ出した。
「夜の闇に乗じて剣塚へ侵入し、あの隻腕の老いぼれを確実に暗殺しろ。そして、あの形見の剣を持つ小娘を、生きたまま俺の前に連れてくるのだ」
骸骨の仮面の奥から、「キィ……」という、骨が擦れ合うような不気味な笑い声が漏れた。彼は一言も発せず、ただ影の中に溶けるようにして、作戦室から消え去った。
万剣塚を包む朝霧が、徐々に不気味な赤みを帯びていく。10年に一度、谷を覆い尽くすという「血霧の夜」の訪れを告げるように、風が錆びた剣の間をすり抜け、哀しげな金属音を奏で始めていた。暗闇の森の奥から、死神の爪が、静かに木小屋に向けて伸ばされようとしていた。
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