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氷結の地底湖、暴かれる老兵の傷跡

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落日谷の朝は、焦燥と冷気の中にあった。先ほどの猛火が嘘のように消し止められた万剣塚の外郭には、ただ黒い煙と、焼け焦げた木々の放つ炭の匂いだけが漂っている。梶原率いる放火部隊は、突如として逆流した風と炎に巻かれ、悲鳴を上げながら敗走していった。奇跡的な鎮火。しかし、神楽坂沙耶の心にあるのは、勝利の安堵ではなく、底知れぬ疑惑だった。


「あの半円状の箒の跡……まさか、あのおじいさんが?」


 赤土の地面に深く刻まれた、大自然の風圧を強引に操作したかのような不自然な箒の跡。その軌跡は、頼りない隻腕の老墓守・枯がいつも手にしている、先がすり減った古い竹箒の幅と完全に一致していた。沙耶は胸の奥で激しく脈打つ鼓動を抑えながら、足跡を追って墓守の木小屋へと向かった。


 小屋の扉は半開きになっており、内部には人影がなかった。だが、土間の奥、いつも薪が積み上げられている暗がりに、不自然な隙間がある。近づいて薪を退けると、そこには地下へと続く、古びた木製の落とし戸が隠されていた。


 戸を開けた瞬間、沙耶は思わず息を呑んだ。立ち上ってきたのは、夏の盛りであっても一瞬で肌を粟立たせるような、肺を刺す極限の冷気だった。そして、暗い木階段の始まりには、ぽつりと、どろりとした黒い液体の滴が落ちていた。微かに鉄の錆びた匂いが混ざる、不気味な血痕。


「おじいさん……そこにいるの?」


 沙耶は背中に背負った半ばから折れた大剣『落葉』の柄に手をかけ、暗い階段へと足を踏み入れた。一歩下りるたびに、周囲の温度が急激に下がっていく。彼女の首元から下げられた『風鳴りの鍔』が、地下から吹き上げる冷たい気流を受けて「キーン、キーン」と、か細く悲痛な音色を奏で始めた。その高い金属音が、湿った石壁に反響して暗闇へと吸い込まれていく。


 冷気は次第に肌を刺す痛みに変わり、息を吐き出すたびに白い霧となって目の前を遮った。昨日の野盗との戦闘で痛めた肋骨のひびが、寒さによって締め付けられるように疼く。しかし、沙耶は歩みを止めなかった。赤土の地面には、一本の深く、不自然な引き摺り跡が残されていたからだ。それは、歩くことのできない者が、残された片腕一本で必死に身体を引き摺って進んだ、執念の跡だった。


 やがて、階段が途切れ、目の前が不自然に開けた。そこは、天井から巨大な氷の鍾乳石が牙のように垂れ下がる、神秘的で不気味な地底の空洞だった。その最奥に、青白い光を湛えた地底湖が広がっている。周囲の岩肌は完全に凍りつき、触れるだけで皮膚が張り付いて剥がれなくなるほどの極寒の世界。


 それこそが、剣塚の真下に眠る禁忌の霊水――『寒氷泉(カンピョウセン)』であった。


 沙耶は地底湖のほとりで、その光景に完全に凍りついた。


 老墓守・枯が、そこにいた。


 彼は首まで極寒の霊水に身を浸し、氷のように冷たい水面の中で完全に静止していた。彼の長い灰白の髪や眉には、すでに微細な氷の結晶が張り付き、彼を一つの彫刻のように見せていた。その呼吸は極限まで細く、心音さえも停止しているかのように静かだった。それこそが、内功の暴走と右肩の毒を強制的に冷却するための、過酷極まる『寒氷泉の瞑想法』の姿だった。


 沙耶が近づくと、枯の睫毛に付着した氷塵が微かに震え、彼の瞳がゆっくりと開かれた。普段の濁った老人の目ではない。その奥には、現世の恩讐をすべて見通したかのような、深く、そしてあまりにも哀しい静寂が宿っていた。


 枯は声を出そうとしたが、焼かれた喉からは「ひゅう」という掠れた乾いた息が漏れるだけだった。彼はただ、その cloudy な瞳で沙耶を静かに見つめ、首を微かに横に振った。それは、「見るな、去れ」という、無言の拒絶であり、悲痛な懇願だった。


 しかし、水面が揺れ、枯の身体が微かに浮き上がったとき、沙耶は見てしまった。


 水中に漂う、灰色のボロボロの衣服。その右袖は、肩の根元から引きちぎられたように存在せず、ただ水流に揺れているだけだった。隻腕。それも、戦いによって無理やり奪われた肉体の欠落。


 さらに、水面から露出した彼の右肩の根元には、見る者を慄かせる奇怪な傷痕が刻まれていた。切り口は完全に黒ずみ、まるで腐った木肌のようにただれ、その中心からどろりとした黒い血が、氷点下の水に触れた瞬間に黒い氷の結晶となって剥がれ落ちていた。三十年間、彼の骨を蝕み続けている『腐骨毒』の残滓。


 沙耶は恐怖と衝撃で、その場にへたり込みそうになった。目の前にいるのは、自分が「哀れで無力な老人」だと思い込み、施しを与えていた墓守ではなかった。その肉体に刻まれた無数の生々しい戦傷と、失われた右腕は、彼がかつて血で血を洗う江湖の頂点に立っていた武人であることを雄弁に物語っていた。


 だが、沙耶の視線はその奇怪な黒い傷痕の「形状」に釘付けになった。


 傷痕は、ただの刃物による切り傷ではなかった。それは、捩じれた凶悪な爪のような、あるいは漆黒の炎が渦を巻いて肉を抉り取ったかのような、奇怪極まる紋様を帯びていた。経絡の奥深くから噴き出すような、冷酷で邪悪な剣意の残照。


 沙耶の脳裏に、かつて父・神楽坂元信が遺した、あの半分破り取られた日記の記述が、雷撃のように蘇った。


『……奴の剣は、傷口に決して消えぬ黒き炎を宿す。肉を腐らせ、骨を砂へと変える「腐骨毒」の牙。その名は「黒天斬」。かつての弟弟子、司馬無忌の裏切りの刃なり……』


 沙耶は震える手を口元に当て、涙が目から溢れ落ちるのを止めることができなかった。目の前の老兵の右肩に刻まれた傷痕は、父の日記に描かれていた、あの裏切り者の独自の剣気の痕跡と、完全に一致していたのだ。


「この傷跡……まさか、司馬無忌の……?」


 沙耶の震える問いかけが、凍りついた地底湖の静寂を切り裂いた。彼女の瞳には、激しい衝撃と、運命の歯車が噛み合ったことへの恐怖が混ざり合っていた。なぜ、この老墓守が父の仇である司馬無忌の傷を負っているのか。なぜ、彼は声を失い、隻腕となってこの剣の墓場に隠れ住んでいるのか。


 枯は何も答えなかった。いや、答える言葉を持たなかった。彼は静かに寒氷泉の水面から立ち上がった。彼の左足は、太もも付近まで完全に灰色に変色し、氷のように硬化していた。歩くたびに、凍りついた関節が「ギチギチ」と不気味な軋み声を上げる。


 枯は残された左手で、氷壁を支えにしながら、不自由な脚を引き摺って一歩一歩進んだ。沙耶の横を通り過ぎるとき、彼は一度も彼女と目を合わせようとはしなかった。ただ、彼の懐から、風鳴りの鍔の音に同調するように、「チリン……」と寂しげな楓の形見の鈴の音が、冷たく響いただけだった。


 沙耶は地底湖のほとりに一人取り残され、遠ざかっていく老兵の寂しげな背中を、ただ涙に濡れた瞳で見つめ続けるしかなかった。

HẾT CHƯƠNG

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