逆巻く烈風、炎を喰らう無心の箒
赤黒い炎の牙が、容赦なく万剣塚を舐め尽くしていく。重油の混ざった不浄の炎は、大気を黒く染め、熱せられた数千の錆びた剣たちが「キィィィン」と甲高い悲鳴を上げていた。金属の熱膨張による歪みが、まるで死者たちの断末魔の嘆きのように響き渡る。
「嫌……やめて……! お父さん……!」
神楽坂沙耶は、泥濘の中に膝を突き、激しく咳き込みながら涙を流していた。彼女の手は、避難させようとしていた亡き父の戦友たちの木製墓標を必死に抱きしめている。だが、迫り来る炎の熱気は、彼女の未熟な『浮雲気功』を容易に焼き砕き、衣服の袖を焦がしていた。肋骨の微細なひびが、激しい呼吸のたびに胸の奥で疼き、彼女の意識を朦朧とさせる。
風上に陣取る守備隊の副官・梶原は、冷酷な笑みを浮かべてその様子を見つめていた。放火工作兵たちが、さらに火矢を番える。このままでは、万剣塚も、少女も、すべてが灰燼に帰すのは時間の問題だった。
その時、沙耶の首元に下げられた『風鳴りの鍔』が、吹き荒れる熱風を受けて「キィィィン」と澄んだ金属音を奏でた。
その高い音色が、黒煙の向こうに佇む隻腕の老人――慕容枯の鼓膜に触れた瞬間、彼の懐深くにある小さな真鍮の鈴が、冷たく震えたような錯覚が走る。脳裏に、火の海の中で冷たくなっていた妹・楓の最期がフラッシュバックする。激しいトラウマと、亡き友・元信への誓いが、枯の内に眠る乾いた経絡を激しく揺さぶった。
(元信……お前の娘を、これ以上傷つけさせはしない。そして、この剣の墓場は、先人たちの魂の安息の地だ。朝廷の不浄な火に、焼かせるわけにはいかん)
声を失った老墓守は、一切の言葉を発することなく、ただ静かに一歩を踏み出した。彼の左足は、すでに半ば石のように硬化し始めており、地面を踏みしめるたびに骨が軋む音が体内に響く。だが、枯はその激痛を明鏡止水の心境で受け流した。
彼は『古い竹箒』を左手で握り、失われた右腕の空白を補うように、右肩の残された質量を僅かに前へと傾けた。不完全な隻腕の重心を、腰の微細なひびきと足裏の『湧泉穴』から大地へと逃がし、大地の龍脈と完全に一体化する。隻腕の重心制御法が、動けぬはずの彼の肉体を完璧な静寂の中に固定した。
枯は、深く息を吸い込んだ。体内の細く、しかし極限まで研ぎ澄まされた経絡に、『無双内功心法』の静水のような内力を巡らせる。
ドクン、と彼の心臓が大きく脈打った。
強引に内力を拡張した瞬間、右肩の黒ずんだ傷跡――三十年前に司馬無忌から植え付けられた『腐骨毒の傷跡』が、狂暴な熱を帯びて暴れ始めた。衣服の右袖の奥から、どろりとした黒い血が滲み出し、麻の衣服を赤黒く染めていく。全身を切り刻むような劇痛が走るが、枯の瞳には一寸の揺らぎもなかった。
彼は『古い竹箒』を大上段に構えた。その瞬間、竹箒の先まで無双の内力が静かに通り抜け、すり減った竹の繊維が微かに青白い光を帯びて激しく振動し始める。周囲の大気が、枯の箒を中心に不自然なほど静まり返った。
ハッ――!
枯は無言の呼気と共に、箒を地面に向けて一気に振り下ろした。箒払い・合気円閃。
一振りから放たれたのは、物理的な風を遥かに超越した、極限まで圧縮された無形の大気の壁だった。半球状に広がった風圧の盾が、迫り来る炎の熱気を真っ向から押し返し、炎の勢いを一瞬にして「窒息」させるように遮断した。
だが、火の勢いはまだ衰えない。油の混ざった炎は、空気の壁を迂回して再び周囲を焼き払おうとする。枯はさらに深く腰を落とし、顔を上げて遥か上方の『風鳴りの断崖』を見上げた。彼の「聴風の心眼」は、断崖から吹き下ろす極寒の突風の気流パターンを完璧に捉えていた。
(風を、喰らうのだ……)
枯は箒の柄を滑らかに回転させ、手首の角度だけで風のベクトルを操作した。箒による風圧相殺法。彼の放った風圧の渦が、風鳴りの断崖から吹き下ろす強烈な冷気を強引に引きずり下ろし、剣塚の外周へと巻き込んだ。
ゴォォォォッ!
凄まじい風の唸りが谷に響き渡り、巨大な冷気の渦が炎を包み込んだ。酸素を完全に奪われた炎は、一瞬にしてその輝きを失い、行き場を失った。枯はさらに、全身の経絡を千切れんばかりに白熱させ、箒を風上に向けて鋭くなぎ払った。
その瞬間、奇跡が起きた。
渦巻く冷風に押し流された炎の波が、不自然なほど急激に方向を反転させ、油の煙と共に、風上に陣取っていた梶原の放火部隊に向けて一気に逆流し始めたのだ。大自然の猛威が、そのまま朝廷の工作兵たちへと牙を剥いた。
「な、何事だ!? 風向きが逆転しただと!?」
梶原は驚愕し、細身の甲冑を揺らして後退した。しかし、逆流した炎は容赦なく工作兵たちを包み込み、彼らの衣服や油の樽へと引火していく。悲鳴と混乱が朝廷軍の陣営を満たし、工作兵たちは自らの火に焼かれながら、武器を投げ捨てて敗走していった。
「馬鹿な……風を、大気を操る達人が本当にいるというのか……!」
梶原は、熱風に顔を歪めながら、不気味な沈黙を保つ剣塚の奥を睨みつけた。正体不明の「風の達人」への恐怖が彼の胸を支配し、彼はこれ以上の放火工作は不可能と判断して、撤退の合図を命じた。
炎は完全に消え去り、剣塚には再び黒い煙と、焼け焦げた木々の静寂が戻った。
「お父さん……みんな……無事だったの……?」
沙耶は激しく咳き込みながら、涙で歪む視線で周囲を見回した。あんなに猛威を振るっていた炎が、まるで大自然の意思によって一瞬で消し止められたかのように、冷たい風だけが吹き抜けている。彼女は立ち上がり、火災が消え去った不自然な方向を見つめた。
地面の赤土には、まるで巨大な獣が尾を振ったかのような、半円状の奇妙な箒の跡が深く刻まれていた。その跡の先には、ただ風に吹かれる錆びた剣の墓標が並んでいるだけだった。
「そんな……まさか、あのおじいさんが……?」
沙耶は疑惑を抱きながら、木小屋へと視線を走らせた。しかし、そこには老墓守の姿はなかった。
その頃、慕容枯は、沙耶の視線から完全に隠れた巨石の影で、冷たい地面に倒れ込んでいた。彼の右肩からは、どくどくと黒い血が溢れ出し、灰色の衣服を染めている。強引に内力を放出した代償として、腐骨毒が体内の経絡を激しく侵食し、彼の全身の骨を軋ませていた。さらに、左足の感覚は完全に失われ、氷のように冷たく、まるで本物の石のように硬化していた。もはや自力で立つことすら困難な状態だった。
枯は、自身の荒い呼吸を「聴風の呼吸法」で極限まで殺しながら、木小屋の奥に隠された地下通路へと、残された左腕一本で這い進んだ。沙耶に自身の醜い肉体の限界を見せるわけにはいかない。彼は、体内の熱暴走を強制的に冷却するための、極寒の地底湖――『寒氷泉』へと、暗闇の中を静かに消えていった。
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