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炙り出される影、黒き煙の包囲網

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朝靄が落日谷の湿った大気に溶けていく頃、神楽坂沙耶は泥を握りしめたまま、万剣塚の入り口に佇む粗末な木小屋へと戻っていた。


 昨夜、老墓守の「枯」が差し出してくれた野草のお粥――その中に秘かに混ぜられていた『活血散』の温かい残滓が、未だ彼女の経絡を巡り、片目の猪の鉄槌によってひびの入った肋骨の激痛を奇跡的に和らげていた。だが、彼女の左手には、泥を拭い去った一粒の丸い小石が固く握りしめられていた。指先に触れた瞬間、それは泥の冷たさを撥ね退けるように、微かに、そして確かに温かかった。その奥から伝わる、凛とした温もり。それは、彼女の乱れた内功を優しく宥めるような、極めて純粋で、かつ圧倒的な『無双内功』の剣意そのものだった。


「おじいさん……」


 声には出さず、沙耶は木小屋の前に佇む老人の背中を、射抜くような視線で凝視した。


 灰色のボロボロの麻衣をまとい、白髪を乱した隻腕の老人。彼はいつもと変わらず、先がすり減った古い竹箒を左手一本で持ち、黙々と庭の落ち葉を掃いていた。右袖はちぎれて固く結ばれ、風に力なく揺れている。時折、彼は左足を引きずり、いかにも年老いた、哀れな墓守の姿を晒していた。その挙動のどこを見ても、昨夜、あの巨漢の鉄槌を小石一つで弾き飛ばし、経絡を完璧に破壊した伝説の達人の面影など微塵も感じられない。


 枯は、沙耶が背後から注ぐ疑念に満ちた視線を「聴風の心眼」で完全に察知していた。だが、彼は声を失った哀れな老人を演じ続けるため、ただ黙々と箒を動かし、砂の上に不器用な円を描き続ける。彼の右肩の傷口からは、昨夜、無理に内力を迂回させて点穴を放った代償として、腐骨毒が激しく暴走し、黒い血が衣服の内側をどろりと濡らしていた。骨を削るような劇痛が全身を苛み、左足の硬化も確実に一段階進んでいる。だが、彼は眉一つ動かさず、ただの無力な老人としての擬態を維持していた。


(元信、お前の娘の疑念は深い。だが、まだ私の正体を明かすわけにはいかないのだ。この壊れかけた肉体では、彼女を朝廷の牙から守り抜く盾にすらなり得ん……)


 枯が内心で静かに嘆息したその時、落日谷の静寂が、不気味なパチパチという音によって破られた。風上から漂ってきたのは、鼻を突く重油の臭いと、天を覆い隠すような黒い煙だった。


「焼き払え。一本の草も、一本の木も残すな。墓場に隠れているネズミを炙り出すのだ」


 谷の入り口を封鎖した守備隊長・黒田源信の右腕であり、冷酷な戦術家である副官・梶原が、冷たい笑みを浮かべて工作兵たちに命じていた。野盗の副頭目である片目の猪が、何者かの「目に見えない点穴」によって無残に敗走したという報告を受け、梶原は剣塚に「正体不明の達人」が潜んでいることを確信した。力任せの突撃ではなく、罠と火を用いて効率的に標的を追い詰める――それが梶原の冷徹な戦術だった。


 工作兵たちが風上から油を撒き、一斉に火矢を放つ。乾燥した秋の森は、油を吸って瞬時に地獄の火の海と化した。赤い炎の舌が、万剣塚の外郭へと急速に這い寄ってくる。


 チリチリ、キィィィン……。


 炎が近づくにつれ、外郭に乱立する数千の錆びた剣たちが、急激な熱を浴びて悲鳴を上げ始めた。金属が熱膨張によって歪み、ひび割れていくその音は、まるでかつてこの地で戦死した無名剣士たちの断末魔の叫びのように、重苦しく谷に響き渡る。熱せられた鉄の匂いが、黒煙と共に鼻を刺した。


「そんな……お父さんの戦友たちの墓標が……!」


 沙耶は叫び、背中の折れた大剣『落葉』を揺らしながら、近くの井戸から木桶で水を運ぼうとした。しかし、吹き荒れる熱風と炎の勢いは凄まじく、彼女の未熟な「浮雲気功」では、熱気の防壁を突破することすら叶わずに弾き返される。衣服の袖が焦げ、肌が熱さで赤く腫れ上がっていく。


「無駄だ、逃げろ! 火の中に油が混ざっている!」


 集落から駆けつけた権造たち避難民が、必死に土をかけて消火を試みようとした。しかし、梶原の工作兵たちは、消火活動を行う難民たちに向けて、容赦なく次の火矢を放ち始めた。矢の雨が難民たちを襲い、逃げ場を失った人々が次々と泥の中に倒れ、悲鳴が集落を満たす。


 枯は静かに、天を焦がす炎の向こうにそびえ立つ『風鳴りの断崖』を見上げた。彼の心眼は、断崖から吹き下ろす強烈な突風の流れと、上昇する熱気による気圧の乱れを完全に読み解いていた。この広範囲の火災を消し止めるには、水を運ぶことなど不可能だ。大自然の風を操り、酸素を一瞬で遮断するしかない。


 だが、それを行うには、自身の壊れかけた経絡に全盛期に近い『無双内功』を流さねばならない。右肩の毒素が心臓に達し、左足の石化がさらに進行する致命的な代償を伴う。


 パチパチと、火の粉が枯の木小屋の茅葺き屋根に降り注ぎ、煙が彼の灰色の白髪を黒く染める。タイムリミットが訪れていた。


 沙耶は、自身が炎から遠ざけようと、必死に安全な場所へと引き抜いて避難させていた、父の戦友たちの古い墓標の数々を見つめていた。しかし、容赦なく迫る火の海は、彼女の目の前でその木製の墓標たちを次々と包み込み、黒い灰へと変えていく。


「嫌……やめて……! お父さん……!」


 崩れ落ちる墓標の前に跪き、沙耶が絶望の涙を流したその瞬間、枯の伏せられた瞳の奥に、かつて天下第一と恐れられた伝説の剣聖の、静かで、冷徹な怒りの炎が灯った。


 老墓守は、左手で握りしめた古い竹箒の柄を、大地の底に向けて静かに突き立てた。箒の先端から、目に見えない微細な振動が地脈へと伝わり、彼の右肩の傷口から、どろりとした黒い血が再び衣服を濡らし始めた――。

HẾT CHƯƠNG

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