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無言の食卓、闇に蠢く野獣の爪

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乳白色の冷たい霧が、壁の隙間から容赦なく這い込んでくる。万剣塚の入り口に佇む『墓守の木小屋』は、今にも朽ち果てそうな一棟の平屋だった。天井は煤け、湿った谷風が吹き抜けるたびに、古びた梁が「ギィ、ギィ」と軋んだ悲鳴を上げる。どこか遠くで、風が数万の錆びた剣の隙間を通り抜ける「キーン」という、咽び泣くような金属音が響いていた。


「……う、あ……」


 粗末な藁床の上で、神楽坂沙耶は跳ね起きるようにして目を開けた。直後、胸を刺すような激痛が走り、思わず口元を押さえて身をよじる。昨日、禁地『剣気凝縮の地』で荒れ狂う目に見えない氷の刃に切り刻まれた無数の傷口が、熱を持って疼いていた。さらに悪いことに、無理に内力を暴発させた報いで、体内の経絡が焼き切れるように熱く、呼吸をするたびに血の味が喉の奥からせり上がってくる。


「ここは……どこ……?」


 沙耶は朦朧とする意識の中で、本能的に背中に手を伸ばした。しかし、そこにあるはずの大きすぎる大剣――父の形見である『落葉』の感触がない。心臓が跳ね上がる。


「お父さんの、剣が……!」


 パニックに陥りかけた彼女の視界に、一人の老人の姿が映り込んだ。


 ボロボロの灰色の麻衣をまとった老人だった。乱れた白髪が顔を覆い、泥まみれのその姿は物乞いと何ら変わりない。右袖はちぎれて固く結ばれており、右腕が根元から失われていることは一目で分かった。老人は、先がすり減った古い竹箒を左手一本で持ち、黙々と小屋の土間を掃いていた。不器用で、遅く、引きずるような足取り。その姿には、かつて天下を震撼させた武人の面影など微塵もなかった。


「あなた、は……。私の剣をどうしたの!」


 沙耶は鋭い声を上げ、藁床から立ち上がろうとした。だが、足首の経絡が完全に麻痺しており、一歩を踏み出す前に畳の上へと崩れ落ちそうになる。その華奢な体を、老人の唯一の左手が音もなく支えた。


 触れられた瞬間、沙耶の全身に緊張が走る。相手が何者か分からない。彼女は冷たい瞳で老人を睨みつけ、その左手を激しく振り払おうとした。しかし、老人の手は驚くほど優しく、そして大岩のように微動だにしなかった。老人は言葉を発しない。ただ、深く刻まれた眉間の皺を和らげ、静かに首を横に振るだけだった。その瞳には、哀しみと、嵐の後の凪のような深い諦念が宿っていた。


 老人は沙耶をそっと藁床へと戻すと、土間の隅に立てかけられていた大剣『落葉』を指し示した。半ばから無残に叩き折れたその刃は、丁寧に泥を拭き取られ、古い布の上に静かに横たえられていた。それを見て、沙耶は安堵の息を漏らすと同時に、己の無力さに唇を噛んだ。


 老人は何も言わず、竈の前に腰を下ろした。薪をくべるその動作は、隻腕ゆえにどこか不器用だったが、無駄がなかった。竈の火が爆ぜる「パチパチ」という音が、小屋の静寂を埋めていく。


 枯――世間からそう呼ばれる老墓守は、沙耶に背を向けたまま、竈にかけた鉄鍋を見つめていた。彼の右肩の壊死した傷跡は、昨日の急激な内功の使用によって今も熱く疼き、黒い血が衣服の右袖の奥で微かに滲み出していた。だが、枯はその激痛を眉一つ動かさずに耐え忍んでいた。それよりも彼を苦しめていたのは、彼女の首元から聞こえる音だった。


 風が吹くたびに、沙耶の胸元にある『風鳴りの鍔』が「キーン」と澄んだ音色を奏でる。その音が枯の鼓膜を震わせるたび、彼の懐にある小さな真鍮の鈴――妹・楓の形見が冷たく冷えていくような錯覚に囚われる。亡き友・元信の面影が、目の前の傷ついた少女の姿と重なり、枯の胸を締め付けた。


(元信、お前の娘を、これ以上傷つけさせはしない……)


 枯は静かに息を整えると、懐からお梅が調合してくれた貴重な粉末薬『活血散』を取り出した。それは微細な灰色の粉末で、独特の苦味と鉄のような匂いがある。枯は、じっくりと炊き上げた野草のお粥の中に、その粉末を気づかれないように素早く混ぜ込んだ。隻腕の指先が、お粥の湯気の中でかすかに震えた。


 やがて、枯は木椀にお粥を盛り、沙耶の枕元へと静かに置いた。温かい湯気と共に、かすかに薬草の苦い匂いが立ち上る。


「……お粥?」


 沙耶は差し出された碗を見つめ、すぐに鼻を動かした。お粥の奥から漂う、微かな、しかし鋭い金属的な匂い。彼女の警戒心が再び跳ね上がる。


「これ、何が入っているの……? 毒を盛る気?」


 沙耶の言葉の棘が、冷たく木小屋の空気を突き刺す。父を朝廷の陰謀で失って以来、彼女は誰も信じられなくなっていた。目の前のしがない老墓守が、朝廷の手先である可能性も捨てきれない。


 枯は沙耶の疑念に満ちた視線を真っ向から受け止めた。彼は弁解の言葉を持たない。喉を焼かれ、声を失ったフリをしている彼は、ただ無言で自身の左手を伸ばした。そして、沙耶の目の前で、木椀のお粥を自ら一口すくい、静かに口へと運んだ。咀嚼し、飲み込む。その顔には、一切の邪念も、恐れもなかった。


 枯は沙耶を優しく見つめ、もう一度木椀を彼女の方へと押し出した。


 沙耶はしばらく沈黙していた。空腹と疲労で、彼女の胃袋は限界を迎えていた。ゴクリと唾を飲み込み、彼女は震える手で木椀を取り上げた。一口、お粥を口に含む。


「……苦い」


 思わず眉をひそめたが、お粥が喉を通った瞬間、彼女は目を見開いた。驚くべき温かさが、胃の底から全身の経絡へと急速に広がっていくのを感じたのだ。まるで、凍りついていた体内の気の流れが、春の陽気に溶かされるように滑らかに巡り始める。傷口の疼きが和らぎ、肺の奥の熱い痛みが嘘のように引いていった。


(これは……ただのお粥じゃない。私の乱れた内力を、治療している……?)


 沙耶は信じられない思いで枯を見つめた。老人は相変わらず、竈の火を見つめながら、静かに佇んでいるだけだった。その広い背中には、言葉以上の温もりと、言葉にできないほどの深い哀愁が漂っていた。沙耶は無言のまま、お粥を最後の一滴まで平らげた。体内に満ちる確かな力に、彼女の凍りついた心が、ほんの少しだけ揺らいだ。


 その頃、落日谷の入り口近く、街道沿いの鬱蒼とした森の影では、全く異なる「血の匂い」が漂い始めていた。


「おい、野郎ども。準備はいいか」


 不気味な声が、薄暗い木々の隙間から響く。地方野盗『赤目一味』の頭目、赤目であった。彼の右目は血のように赤く充血しており、無精髭を生やした顔に、野獣のような凶暴な笑みを浮かべていた。その手には、無数の人間の血を吸って赤黒く錆びついた重く巨大な『赤斬りナタ』が握られている。


「赤目の兄貴、本当にやっていいんですかい? 守備隊の黒田の旦那に怒られやしませんかね」


 手下の野盗が、不安そうに尋ねる。赤目は鼻で笑い、ナタの刃を太ももで擦り合わせた。


「黒田の野郎は、手柄のために剣塚の鉄を喉から手が出るほど欲しがっている。だが、公に軍を動かせば、上からの目がうるさい。だから、俺たちに『汚い仕事』を任せたんだよ。難民の集落を襲い、鍋釜から農具に至るまで、すべての鉄を強奪する。逆らう奴は全員ぶち殺せ。黒田は見て見ぬ振りをするさ」


 赤目の瞳に、残忍な光が宿る。守備隊の黙認を得た無法者たちは、松明と刃を手に、落日谷の最底辺に生きる貧しい難民たちの集落――『落日谷の避難集落』へと向けて、静かに進軍を開始しようとしていた。武器を持たない難民たちが、野獣の爪の前に晒されようとしていた。


 木小屋の内部に、再び不穏な風が吹き抜けた。


 枯は竈の前で静かに耳を澄ませていた。『聴風の心眼・先読み』が、谷の境界から漂ってくる微細な「殺気」と、大気を揺らす不吉な足音を捉えていた。彼の左手が、再び竹箒の柄を強く握りしめる。


 次の瞬間、木小屋の古びた扉が、激しい音を立てて蹴破られた。


「沙耶ちゃん! おじいちゃん! 大変、大変だよ!」


 息を切らせ、泥まみれになって飛び込んできたのは、避難集落の少女、お咲だった。その後ろには、恐怖に身を震わせた小助が縋り付いている。お咲のくりくりとした大きな瞳は涙で濡れ、その顔は恐怖で完全に白引いていた。


「野盗だよ! 赤目一味が、松明を持って集落へ向かってる! このままじゃ、みんな殺されちゃう!」


 お咲の絶望的な叫びが、静かだった木小屋の空気を一瞬にして引き裂いた。沙耶は弾かれたように立ち上がり、背中の『落葉』の柄へと手を伸ばした。枯の瞳に、避けることのできない「嵐」の到来を告げる、鋭い光が宿った。

HẾT CHƯƠNG

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