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霧の少女、亡き親友の影を追って

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落日谷(らくじつこく)の朝は、常に乳白色の重い濃霧によって支配される。特に万剣塚(まんけんづか)の外郭は、切り立った断崖の隙間から吹き下ろす冷気と、地表に乱立する数万の錆びた刃が霧を切り裂き、まるで鉄の墓標が無限に続く迷宮のようであった。湿った風が剣の隙間を通り抜けるたび、「キーン」と低く、咽び泣くような金属音が霧の奥へと消えていく。


 その冷たい静寂を破り、一人の少女が足を踏み入れた。


 神楽坂沙耶(かぐらざかさや)。十五、六歳ほどの華奢な体に、不釣り合いなほど大きな長剣を背負っている。泥と露に濡れた彼女の灰色の衣服は、過酷な旅路を物語っていたが、その瞳には、周囲の霧さえも焼き尽くさんばかりの冷たい復讐の炎が灯っていた。彼女が探し求めているのは、三十年前に非業の死を遂げた父親、神楽坂元信(かぐらざかもとのぶ)の愛剣『落葉(らくよう)』であった。


「お父さん……必ず、見つけ出してみせる」


 沙耶は小さく呟き、父の日記に記されていた「万の剣が眠る地」の地図を脳裏に描きながら、歩みを進めた。彼女の境界は「二流内家境(ないかけい)」。呼吸法を学び、体内にわずかな気流を巡らせることはできるが、実戦の経験は極めて浅い。焦りと怒りに任せて内力を練り上げているため、彼女の呼吸は不自然に荒く、周囲の危険を察知する余裕を奪っていた。


 彼女が進む先は、万剣塚の中でも特に立ち入りが禁じられている特殊エリア――『剣気凝縮の地(けんきぎょうしゅうのち)』であった。


 そこは、数百年間の戦乱で散った名もなき達人たちの「残留剣意」が地磁気と結びつき、空気中の水分を微細な氷の刃へと変貌させている死の領域。防護の気功を持たない者が立ち入れば、肉体を一瞬で切り刻まれる天然のシュレッダー防衛線である。


 一歩、彼女がその境界を越えた瞬間、大気の温度が氷点下へと急降下した。肌を刺すような冷気と共に、霧の密度が不自然に増していく。


「……!?」


 沙耶が不審に思った瞬間、チリ、と衣服の袖が音もなく裂けた。続いて、頬に冷たい感覚が走り、一筋の赤い血が流れ落ちる。目に見えない刃が、空気そのものから突き出してきたのだ。


 驚いた沙耶は、慌てて背中の大剣を引き抜いた。だが、その動作が周囲の空気の対流を激しく乱し、眠っていた剣気の嵐を刺激してしまう。大気中の水分が凍りつき、数千の微細な氷の刃となって、全方位から彼女へと襲いかかった。


「神楽流・落葉斬(らくようざん)!」


 沙耶は叫び、大剣を狂暴に振り回した。しかし、彼女の「浮雲気功(ふうんきこう)」はあまりにも未熟だった。感情の起伏によって内力の循環が激しく乱れ、剣気を受け流すどころか、大剣が放つ風圧がさらに鋭い氷の刃を呼び寄せる悪循環に陥る。四肢に無数の浅い切り傷が刻まれ、衣服がボロボロに裂けていく。


「うああっ……!」


 焦った彼女は、無理やり丹田の内力を暴発させて障壁を作ろうとした。だが、経絡の壁がその急激な負荷に耐えきれず、激しい拒絶反応を起こす。内力が逆流し、彼女は「ごふっ」と激しく喀血して、その場に膝を突いた。大剣が手から滑り落ち、地面の赤土に突き刺さる。周囲を取り囲む氷の刃の嵐が、容赦なく彼女の喉元へと収束していく。逃げ場は、どこにもなかった。


 その絶体絶命の光景を、数十歩離れた巨石の影から、静かに見つめる瞳があった。


 灰色のボロボロの麻衣をまとった隻腕の老人、慕容枯(ぼようこ)である。彼は「古い竹箒」を左手に持ち、自身の呼吸を大気と完全に同化させる『聴風剣意の呼吸法(ちょうふうけんいのこきゅうほう)』を用いて、ただの石のように佇んでいた。


 枯は、無謀にも禁地に立ち入った少女を静かに見守っていた。不殺の誓いを持つ彼は、他者の争いには滅多に介入しない。だが、霧の隙間から吹き抜けた突風が、少女の首元を揺らした瞬間、枯の全身が凍りついた。


 チリン、と澄んだ金属音が響いたのではない。


 少女の胸元から、風が通るたびに「キーン」という、哀しくも美しい音色を奏でる剣の鍔が露出したのだ。それは、先代宗主の息子であり、枯の最愛の弟弟子であった風間慎之介(かざましんのすけ)の遺品――『風鳴りの鍔(かぜなりのつば)』であった。


 その音が枯の鼓膜に触れた瞬間、彼の脳裏に、生涯消えることのない最も深いトラウマがフラッシュバックした。一族が皆殺しにされたあの惨劇の夜、小さな鈴(慕容楓の形見の鈴)を握りしめたまま冷たくなっていた最愛の妹・楓の最期の姿。そして、司馬無忌の裏切りによって、無数の槍に貫かれて盾となった親友・神楽坂元信の血まみれの笑顔。


(元信……お前の、娘なのか……?)


 枯の唯一の左手が、竹箒の柄を握りしめたまま激しく震えた。彼の右肩の壊死した傷跡(腐骨毒の傷跡)が、過去の悔恨と呼応するように「ピキリ」と小さく軋み、皮膚の奥で激しい激痛が走る。だが、彼には躊躇う時間など残されていなかった。氷の刃の嵐が、今まさに元信の忘れ形見の命を刈り取ろうとしている。


 枯は目を静かに閉じた。


 ――『聴風の心眼・先読み(ちょうふうのしんがんさきよみ)』。


 五感を閉じ、大気の微細な振動と温度変化を皮膚感覚だけで捉える。乱反射する数千の剣気の中で、わずかに風が淀み、外へと逃げる「空気の通り道(安全なルート)」が、彼の脳裏に立体的な光の線となって浮かび上がった。


 枯は一歩も歩みを動かさなかった。足裏の湧泉穴を大地の奥深くへと固定し、不自由な左足の重心を完璧に制御する。そして、左手一本で古い竹箒を、天地の運行に即した軌道で鋭く一振りした。


 ――箒による風圧相殺法。


 一見すると、ただの老墓守が霧に向けて箒を不器用に振り回しただけに見えた。しかし、箒の先が描いた無形の円は、大気を極限まで圧縮し、強烈な温かい風圧となって霧を突き抜けた。その風は、沙耶を取り囲んでいた氷の刃の嵐を、力学的に完璧な角度で押し戻し、無力化していく。


「きゃあっ!」


 突如として背後から吹いた温かい強風に押され、沙耶の体は、枯が先読みした「安全なルート」へと弾き飛ばされるように転がり出た。彼女の体が剣気凝縮の地から完全に脱出した瞬間、背後の霧の中で、行き場を失った氷の刃たちが激しく衝突し、キィィンと虚しい金属音を立てて霧散していった。


 赤土の上に倒れ込んだ沙耶は、激しく咳き込みながら、自身の体を確かめた。左腕に浅い切り傷を負い、衣服はボロボロだが、命に別条はない。彼女は信じられない思いで、突き刺さった大剣を支えに立ち上がった。


「今のは……ただの風じゃない。誰かが、私を救った……?」


 沙耶は鋭い瞳で周囲の霧を睨みつけ、大剣を構え直して激しく警戒した。しかし、霧の奥には、ただ静かに佇む錆びた剣の群れがあるだけだった。救い主の気配は、完全に消え去っていた。


 巨石の影で、枯は壁に背を預け、静かに息を整えていた。強引に内力を動かした代償として、彼の右肩の傷口から黒い血が微かに滲み、衣服の右袖を汚していく。だが、彼の瞳には、亡き友との約束を果たすための、静かで強固な決意が宿っていた。


 その頃、落日谷の境界線上にある鬱蒼とした森の影から、不気味な視線が剣塚へと向けられていた。地方野盗「赤目一味」の斥候が、霧の中に残された沙耶の新鮮な足跡を発見し、その不敵な顔に邪悪な笑みを浮かべていた。

HẾT CHƯƠNG

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