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美しき蛇、忍び寄る裏切り

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冷たい雨が、容赦なく泥濘を叩いていた。十兵衛の居酒屋から少し離れた街道の出口。赤茶けた泥水の中に倒れ伏したその女は、まるで嵐に打たれて散った桃の花弁のように儚げだった。色褪せた桃色の着物は泥に汚れ、濡れた黒髪が青白い頬に張り付いている。


「うっ……誰か……お恵みを……」


 消え入りそうな悲鳴が、雨音に混ざって沙耶の耳に届いた。沙耶は反射的に足を止め、褤褸布の外套の下に隠した『神木炭』の重みを片手で押さえながら、倒れた女の元へ駆け寄ろうとした。


「待って、沙耶姉ちゃん! 不用意に近づいちゃダメだ!」


 お咲が鋭くその袖を引いた。谷の闇市で生きてきた少女の目は、冷徹な警戒に満ちていた。朝廷の鉄資源徴発令によって荒れ果てたこの落日谷において、見知らぬ他者に手を差し伸べることは、自ら死神の鎌に首を差し出すことと同義だった。


「でも、お咲……この人、ひどく震えているわ。放っておいたら、この寒さの中で凍え死んでしまう」


 沙耶の胸を突き動かしたのは、かつて父・神楽坂元信が語ってくれた「侠客の義」だった。弱きを助け、不義を許さぬこと。そして、お梅の庵で昏睡している隻腕の老墓守――枯が、自らの命を削って自分を救ってくれたあの高潔な背中だった。自分もまた、誰かを救える強さを持ちたい。その純粋な渇望が、彼女の警戒心を鈍らせていた。


「大丈夫よ、お咲。男装もしているし、怪しい者じゃないわ」


 沙耶は泥濘に膝を突き、倒れた女の細い肩をそっと抱き起こした。女の身体は氷のように冷たく、小刻みに震えていた。泥を拭うと、そこから現れたのは、息をのむほどに整った、しかし痛々しいほどに青白い女性の顔だった。女はうっすらと濡れた睫毛を開き、怯えたような、しかし澄んだ瞳で沙耶を見つめた。


「あ……ありがとう、ございます……小僧さん……」


 その声は、掠れてはいたが、鈴の音のように美しかった。お蓮(オレン)――難民を装い、黒田源信の命を受けて万剣塚の秘密を探るべく送り込まれた、美貌の女スパイ。彼女の瞳の奥には、沙耶には決して見えない「蛇の毒」が潜んでいた。


 お蓮が沙耶の肩に縋り付いた瞬間、冷たい風が二人の間を吹き抜けた。その刹那、沙耶の襟元の奥から、極めて澄んだ、高い金属音が響いた。


 ――キーン。


 風鳴りの鍔(かぜなりのつば)。かつて先代宗主の息子・慎之介が遺し、今は沙耶が首から下げている形見の鍔が、風を吸って哀切な旋律を奏でたのだ。お蓮の細い指先が、沙耶の胸元で微かにピクリと跳ねた。その瞳の奥に、一瞬だけ、獲物を捉えた冷酷な光が走る。


(間違いない……この澄んだ共鳴。無双流の息吹が宿る、あの『風鳴りの鍔』だわ)


 お蓮は内心で冷たく嗤った。だが、その顔にはただ無垢な感謝と安堵の笑みだけを浮かべ、さらに深く沙耶の胸に顔を埋めた。


「お腹が、空いて……行くあてもなくて……守備隊の兵隊さんたちに家を焼かれて、ここまで逃げてきたのです……」


「ひどい……。大丈夫よ、もう安心してください。私たちのところへ来てください」


 沙耶はお蓮を「姉」のように慕うような、不思議な親近感を抱いていた。孤独な闘いの中で、同じ若き女性(男装してはいるが)の温もりに、心が無意識のうちに飢えていたのかもしれない。お咲は不満そうに眉をひそめたが、沙耶の頑固な決意を知っているため、それ以上は何も言わず、ただ神木炭の袋を抱え直した。


 雨が小降りになる頃、彼女たちは万剣塚の外郭(まんけんづかのがいかく)へと戻ってきた。荒涼とした斜面に、数万の折れた錆びた剣が墓標のように乱立している。その異様な光景に、お蓮は恐怖を装って身を縮めた。


「ここは……剣の墓場……?」


「ええ、万剣塚よ。でも怖がらないで。ここには、優しいおじいさんがいるから」


 沙耶はお蓮を支えながら、墓守の木小屋(はかもりのきごや)へと足を踏み入れた。お梅の庵での応急処置を終え、ようやく木小屋へと戻っていた慕容枯(ぼようこ)は、土間の隅で静かに竹箒を手入れしていた。彼の右袖は肩の根元から固く結ばれ、左足は石のように硬化して動かない。白髪が乱れて顔を覆い、ただの薄汚い、言葉を失った老墓守にしか見えなかった。


 だが、お蓮が土間に足を踏み入れた瞬間、枯の手にする竹箒の動きが、ほんの一分(いちぶ)だけ止まった。彼の cloudy な瞳は開かれなかったが、その耳が、皮膚が、周囲の大気の流れを完璧に捉えていた。


 『聴風の心眼(ちょうふうのしんがん)』――五感を研ぎ澄ました枯の精神世界において、お蓮の存在は、あまりにも「異質」だった。


(……呼吸が、浅すぎる)


 枯は無言のまま、箒の竹繊維を静かに撫でた。お蓮は震え、息を切らしているように見えた。だが、その呼吸の周期は、極限まで統制された内家(ないか)の呼吸法――息吹を完全に隠蔽する忍びのそれだった。心拍数は、恐怖に震える難民のそれではなく、冷徹に獲物を観察する一流の暗殺者のように一定だった。さらに、彼女が泥を踏みしめる足音。泥濘に足を取られているように見えて、その体重の置き方は、いつでも跳躍できる軽功(けいこう)の重心移動を隠し持っていた。


(黒田の猟犬か。いや、この歩法は……司馬無忌の影)


 枯の右肩の『腐骨毒の傷跡』が、不気味な悪寒と共に微かに疼いた。この女は、万剣塚の秘密を奪うために送り込まれた美しき蛇だ。左腕一本を振るえば、この女の首を一瞬で撥ねることは容易だった。だが、枯は動かなかった。ただ黙々と、先が裂けた箒で土間の泥を掃き続けた。


 枯は、隣で甲斐甲斐しくお蓮の世話を焼き、十兵衛から手に入れた神木炭の袋を嬉しそうに床下に隠している沙耶の姿を見つめていた。沙耶の瞳には、お蓮に対する完全な信頼と、孤独から救われた温かい光が宿っている。


(沙耶よ……江湖は、お前が思うほど美しくはない。人を信じることの尊さと、その裏にある血の痛みを、お前は自らの肉体で知らねばならん。そうでなければ、お前は無双の誇りを継ぐ真の侠客にはなれぬのだ)


 それは、言葉を持たぬ師としての、あまりにも冷酷で、しかし最も深い慈愛に満ちた「無言の試練」だった。枯はあえて介入せず、ただ静かに箒を掃き続けた。


 夕暮れ時、雨が上がり、万剣塚に血のように赤い夕日が差し込んだ。荒涼とした剣の海が、黄金色と赤銅色に染まり、儚くも厳かな美しさを放っている。沙耶とお蓮は、木小屋の前に置かれた古い倒木に腰掛け、並んでその光景を見つめていた。


「綺麗ね……」


 お蓮がぽつりと言った。その横顔は、夕日に照らされて本当に儚げで、美しかった。彼女の指先は、泥を洗い流され、白く細かった。沙耶はその手をそっと握りしめた。


「お蓮お姉ちゃん。私ね、お父さんの剣をどうしても直したいの。あの『落葉』をおじいさんと一緒に直して、この万剣塚を、お父さんの戦友たちの魂を、朝廷の魔手から守り抜くって決めたの」


 沙耶は自身の胸の内を、堰を切ったように語り始めた。お蓮は、握られた沙耶の手のひらの温もりを感じていた。その温もりは、嘘偽りのない、純粋な信頼の熱だった。お蓮の胸の奥に、一瞬だけ、奇妙な、冷たい針で刺されたような痛みが走った。


(この小娘……本当に、何の疑いもなく私を信じている。私の手が、これまで何人の喉を剃刀で切り裂いてきたかも知らずに。なんて愚かで……哀れな子供なのかしら)


 お蓮は内心で自嘲した。だが、彼女は朝廷の密偵であり、任務の遂行こそがすべてだった。彼女の視線は、沙耶の首元で夕日に赤く輝く『風鳴りの鍔』へと注がれた。この鍔さえ手に入れば、万剣塚の地下に眠るという古代遺産の封印を解くことができる。黒田源信、そしてその背後にいる司馬無忌の信頼を勝ち取ることができるのだ。


「あなたのそのお守り……とても不思議な音がするのね。少し、触らせてもらってもいいかしら?」


 お蓮は甘い、優しい声で囁きながら、細い指先を沙耶の首元へと伸ばした。沙耶は嬉しそうに微笑み、自らその鍔をお蓮の手に委ねた。


「ええ、いいわよ。これ、風が吹くと、お父さんの声みたいに優しく鳴るの」


 お蓮の指先が、風鳴りの鍔に触れた。その瞬間、鍔は「キィン……」と、どこか警告するような、鋭く哀しい音を奏でた。お蓮はその冷たい金属の感触を脳裏に刻み込み、今夜、すべてを終わらせることを決意した。


 夜が更け、落日谷は深い闇と激しい嵐に包まれた。木小屋の屋根を叩く雨音は怒号のようになり、風が古い木板の隙間から吹き込んで、竈の残り火を不気味に揺らしていた。沙耶とお咲は、旅の疲れと安心感から、藁床の上で深い眠りに落ちていた。


 深夜、土間の隅で、一つの影が音もなく立ち上がった。


 お蓮だった。彼女の動作には、昼間の弱々しさは微塵もなかった。関節の音一つ立てず、大気と同化するように滑らかに移動するその姿は、まさに闇に潜む美しい蛇そのものだった。彼女は髪飾りに偽装された薄い剃刀を抜き、沙耶の枕元へと静かに近づいた。


 沙耶は、無防備に寝息を立てていた。お蓮の鋭い瞳が、沙耶の首元に結ばれた細い糸――『風鳴りの鍔』を繋ぐ赤い紐を捉えた。お蓮は剃刀の刃をその紐に当て、音もなく切り裂いた。沙耶の体温が残る鍔が、お蓮の白い手のひらへと収まった。


 その瞬間、木小屋の最も暗い隅から、一対の cloudy な瞳が、闇を透かして彼女の背中を静かに見つめていた。


 慕容枯は、起きていた。彼の左手は、壁に立てかけられた古い竹箒の柄を固く握りしめていた。内力を一瞬でも解放すれば、逃げようとするお蓮の経絡を破壊し、鍔を取り戻すことは容易だった。だが、枯の箒は動かなかった。彼の瞳には、ただ深い、石のように冷たい諦念だけが宿っていた。


(行け、美しき蛇よ。お前がもたらす裏切りの痛みが、この娘を真の『無双』へと導く刃となるのだ……)


 お蓮は背後に気配を感じ、一瞬だけ身体を硬直させた。だが、老墓守がただの動けぬ老人であると信じ込んでいた彼女は、それ以上振り返ることはなかった。彼女は鍔を懐に深くねじ込み、嵐の吹き荒れる木小屋の扉を開け、夜の闇へと音もなく消え去った。


 翌朝、嵐が去った静寂の中で、沙耶は首元の冷たさに目を覚ました。形見の鍔が消え、お蓮の姿がないことに気づいた瞬間、彼女の絶叫が、万剣塚の霧を激しく引き裂いた。

HẾT CHƯƠNG

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