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沈黙の薬師と深まる疑惑

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雨が、落日谷の鬱蒼とした竹林を静かに濡らしていた。冷たい雫が青々とした葉を叩き、地面の泥を跳ね上げる。十年に一度この谷を覆うという不気味な赤い血霧は、静かに降り注ぐ雨によって徐々に洗い流され、湿った土と鉄錆の匂いが混ざり合った重苦しい空気が立ち込めていた。


 沙耶は息を切らし、泥濘に足を取られながら山道を走っていた。背中に背負った老墓守――枯の身体は、驚くほど軽かった。中身のすっかり枯れ果てた老木を背負っているかのような軽さだったが、彼の右肩から溢れ出る黒い血は、沙耶の衣服をじっとりと濡らし、氷のように冷たく彼女の肌に染み込んできた。


「はぁ、はぁ……死なないで、おじいさん……!」


 沙耶の胸の奥で、肋骨の微細なひびが激しく疼く。かつて避難集落で片目の猪が振り下ろした百斤鉄槌を受け止めた際の負傷だ。枯が粥に混ぜてくれた貴重な『活血散』の効力が薄れ、一歩踏み出すたびに胸を引き裂くような激痛が走る。それでも、沙耶は足を止めなかった。昨夜、あの赤い霧の中で、この隻腕の老人が自分を救うために見せた圧倒的な剣技。そして、その代償として彼が支払った、経絡の破裂という凄まじい代償が、彼女の脳裏に焼き付いて離れなかった。


(どうして……どうして言葉も話せない、ただの老墓守が、あんな凄まじい技を使えるの? そして、どうして命を削ってまで私を救ったの?)


 疑惑と焦燥が、沙耶の胸の奥で渦巻いていた。竹林の奥に、微かな灯りが見えた。斜面にひっそりと佇む小さな庵――お梅の薬草庵だ。庵の周囲には、侵入者を防ぐための微細な麻痺毒を放つ薬草が仕掛けられているが、沙耶は構わずに飛び込んだ。


「お梅ばあさん! 新兵衛先生! お願い、おじいさんを助けて!」


 沙耶が叫びながら、古びた木の扉を体ごと押し開けた。庵の内部は、乾燥させた生薬の香りと、薬釜から立ち上る苦い湯気に満ちていた。


「何てことだい……!」


 出迎えたお梅が、枯の姿を見るなり、その深い皺が刻まれた顔をさらに歪めた。その瞳には、単なる墓守への同情ではない、長年の因縁を知る者だけが抱く悲痛な色が浮かんでいた。


「無茶を通り越して、命をドブに捨てる気かい、あの馬鹿は……。新兵衛、急いでおくれ!」


 庵の奥から、清潔な白い長袍をまとった背の高い青年が素早く姿を現した。旅の医師、新兵衛である。その端正な顔立ちは極めて冷静だったが、枯の右袖から滴る不気味な黒い血を見るなり、その知的な瞳が鋭く細められた。


「竹の寝台へ。沙耶殿、彼を静かに横たえてください」


 沙耶は言われるがまま、枯を寝台へと運んだ。枯の顔色は土色を通り越して灰色に変色し、呼吸は細い糸のようだった。新兵衛は枯のボロボロの灰色の衣服を切り裂き、その右肩を露出させた。


「……っ!」


 沙耶は思わず息をのんだ。


 露わになった枯の右肩の根元には、見る者を慄かせる奇怪な傷痕が刻まれていた。切り口は完全に黒ずみ、まるで腐った木肌のようにただれている。そして何より、右腕が肩の根元から完全に失われていた。隻腕の老兵。その事実が、生々しい傷痕と共に沙耶の目に突き刺さる。


 新兵衛は躊躇うことなく、懐から『銀針百華』を取り出した。革の巻物から引き抜かれたのは、極細の銀の針。新兵衛の指先が、太乙真気の温和な内力を帯びて微かに光る。


「沙耶殿、お梅殿、灯りをもっと近くに」


 新兵衛は静かに告げると、枯の右肩の壊死した組織の周囲に、正確に銀針を打ち込み始めた。チッ、という微かな音が響く。最初の銀針が枯の黒ずんだ皮膚に深く刺さった瞬間、信じられない光景が起きた。純銀の針が、根元から瞬時に不気味な黒色へと変色していったのだ。


「針が……黒く……?」


 沙耶が声を震わせる。


「毒素浸食・右肩の壊死――腐骨毒(ふこつどく)だ」


 新兵衛は二本目の針を打ち込みながら、冷徹な声で言った。その顔は緊張で強張っている。


「骨を徐々に砂へと変え、経絡を内側から腐らせる極悪の劇毒。三十年前、無双流を裏切り、朝廷の犬となった男――司馬無忌の『黒天斬』が残した呪いだ。この毒が、彼の肉体の深部に未だに残留し、命を蝕み続けている」


「司馬無忌……父の日記に書いてあった、あの裏切り者……」


 沙耶は首元の『風鳴りの鍔』を強く握りしめた。風が吹くたびに「キーン」と澄んだ音を奏でるその鍔が、悲痛な現実を証明しているかのようだった。


「このおじいさんは、どうしてその毒に……? まさか、おじいさんの正体は……」


 沙耶が問い詰めようとした瞬間、お梅が静かに、しかし断固とした態度で彼女の肩を遮った。


「沙耶、今は治療が先だよ。新兵衛の邪魔をしてはならない」


 お梅の冷たい、しかしどこか哀しげな声音に、沙耶は口を閉ざすしかなかった。


 新兵衛は治療を続けた。彼の指先が、枯の右肩の周囲のツボを次々と突き、気の流れを制御していく。


「彼が昨夜の戦闘で放ったのは、無双流の極意……だが、彼の主要な経絡はすでに破壊されている。彼は、皮膚に近い細い経絡を無理やり拡張する『経絡のバイパス』を全開にして戦った。その結果、全身の細い血管が破裂し、経絡が崩壊しかけている」


 新兵衛は黒く染まった銀針を次々と引き抜き、新しい針を打ち込んでいく。


「お梅殿、急ぎ『活血散』を。彼の暴走した内力を鎮静化させ、経絡の炎症を抑えなければ、数時間以内に全身の血管が破れて死亡します」


 お梅は素早く薬棚から、微細な灰色の粉末を取り出した。お梅が長年かけて調合した『活血散』だ。


「沙耶、この薬を水に溶かしておくれ。私が彼の喉に流し込む」


 沙耶は言われるがまま、震える手で薬を水に溶かした。お梅が枯の頭を優しく持ち上げ、その乾いた唇の隙間から薬水を静かに注ぎ込む。薬水が喉を通るにつれ、枯の激しい喀血は収まり、その荒かった呼吸が徐々に静かなものへと落ち着いていった。


「……一命は取り留めました」


 新兵衛が額の汗を拭い、銀針を片付けながら息を吐いた。


「ですが、これは一時的な延命に過ぎません。彼の経絡の崩壊は深刻です。そして……彼の左足の硬化(石化)は、もう太ももの付け根まで達しています。大地の霊気を強引に操った代償でしょう。彼はもう、自力で歩くことはおろか、一歩も動くことはできません」


「一歩も……動けない……?」


 沙耶は、寝台に横たわる枯の顔を見つめた。その顔は静かだったが、右肩の黒ずんだ傷痕と、石のように冷たくなった左足が、彼が支払った代償の重さを物語っていた。


(どうして、そこまでして……)


 沙耶は枯の冷たい左手を握りしめた。その手は、毎日箒を握り続けてきたため、手のひらが硬く、無数の豆ができていた。その無骨な手が、今は氷のように冷え切っている。


「おじいさんは、人を殺さないために、あの竹箒を使っていたのね」


 沙耶の呟きに、お梅が静かに頷いた。


「あの男はね、自らに『不殺の誓い』を課しているんだよ。過去の罪を購うためにね。彼の剣は、人を殺すための道具じゃない。大切な者の命を守るための、神聖な盾なんだ。だからこそ、彼は自分の命が削れると知りながら、昨夜、お前を救うためにあの極限の技を放ったのさ」


 沙耶の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。


 自身が抱いていた復讐の怒りが、どれほど独りよがりで、この隻腕の老兵を追い詰めていたか。彼が言葉を使わず、ただ背中で語り続けてくれた「武の真理」が、今、沙耶の魂の奥深くに重く響いていた。


「おじいさん……ごめんなさい……私、何も知らなくて……」


 沙耶は枯の手を額に当て、静かに泣き崩れた。お梅はそんな沙耶の背中を、優しい眼差しで見つめていた。


「沙耶、泣いている暇はないよ。あの男の命をこれ以上削らないためにも、お前がやらねばならないことがある」


 お梅の言葉に、沙耶は涙を拭い、顔を上げた。


「私が、やるべきこと……?」


 お梅は、沙耶の背中に背負われた、半ばから無残に折れた大剣『落葉』を指し示した。


「その剣さ。昨夜の戦いで、その剣は完全に限界を迎えている。刃こぼれとひびが深刻で、これ以上戦えば、一撃で粉々に砕け散るだろう。あの男が動けない今、お前が剣塚を守るための盾にならねばならない。そのためには、その『落葉』を修復する必要がある」


「でも、この剣を修復するには……」


「普通の火じゃ駄目さ」


 お梅の言葉を引き継ぐように、新兵衛が静かに語りかけた。


「名剣の再鋳造には、極めて高い火力を誇る特別な燃料が必要です。落日谷の北側に群生する特殊な硬木から作られる『神木炭(しんぼくたん)』。それがあれば、鉄の不純物を完全に焼き尽くし、剣を修復することができます」


「神木炭……どこにあるの?」


 沙耶が身を乗り出す。お梅の顔に、厳しい影が差した。


「あれは今、黒田源信の守備隊が目を光らせる『炭焼き窯』に厳重に保管されている。朝廷の鉄資源徴発令により、すべての燃料と鉄は彼らの管理下にある。そこへ侵入し、神木炭を盗み出すのは、死地へ飛び込むようなものさ」


 沙耶は首元の『風鳴りの鍔』を強く握りしめた。冷たい雨の音が、庵の屋根を静かに叩き続けている。


(お父さんの剣を直す。そして、今度はおじいさんを、私が守る……!)


 枯の静かな寝顔を見つめ、沙耶の瞳に、かつてない強固な決意の光が宿った。

HẾT CHƯƠNG

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