血霧の死闘、骨を穿つ鉄爪
十年に一度、落日谷を赤黒く染め上げる「血霧の夜」は、万剣塚のすべてを底知れぬ沈黙の中に沈めていた。木小屋の隙間から這い入る霧は、乾いた血の匂いと湿った土の香りを孕み、竈の残火が放つかすかな赤光を不気味に屈折させている。
土間の泥の上に倒れ伏した神楽坂沙耶は、全身を襲う恐るべき麻痺に喘いでいた。骸骨が放った羅刹門の秘薬『骨砕き粉』。その極微細な白い毒粉は、肺腑に吸い込まれた瞬間から彼女の十二経絡を氷のように凍りつかせ、四肢の自由を完全に奪い去っていた。指先一つ動かすことすら叶わず、背中に背負った形見の剣『落葉』の重みだけが、泥の冷たさと共に背中に圧しかかる。
「体が……動かない……おじいさん……!」
声帯すらも麻痺し、喉の奥から漏れるのはかすかな吐息だけだった。沙耶の瞳に、絶望と恐怖が広がる。その視線の先で、不気味な骸骨の仮面を被った暗殺者が、両手の『玄鉄の爪』を「カチ、カチ」と噛み合わせながら、音もなく迫っていた。
だが、その死神の歩みを阻むように、隻腕の老墓守――慕容枯が静かに立ちはだかっていた。彼の左手には、先が裂けた「古い竹箒」が握られている。その箒の柄は、無音の内に青白い『無双内功』を帯びて白熱し、微細な金属音を立てて振動していた。
「キィ……! 隻腕の老いぼれが、そのなまくらで我が爪を防ぐつもりか」
骸骨の仮面の奥から、金属を擦り合わせるような掠れた声が響く。骸骨は地を蹴った。彼の身体が『枯骨功』によって異様に縮み、赤い霧の中を滑るようにして、枯の絶対的な死角――失われた右腕の側(右肩側)へと回り込む。骨が軋むような不気味な音が狭い木小屋に響き渡り、黒い劇毒に染まった玄鉄の爪が、枯の無防備な右肩の傷口を目がけて、最速の突きとなって放たれた。
それは、目で見ることすら不可能な、闇からの致命的な一撃だった。
しかし、慕容枯は最初から目を使ってはいなかった。彼の『聴風の心眼』は、血霧の湿度、大気の揺れ、そして骸骨の爪が空気を切り裂く微細な風の抵抗を、完璧に立体的な光の軌跡として捉えていた。耳が微かにピクピクと動き、敵の呼吸音と筋肉の収縮の「起こり」を十手先まで予知する。
(右肩……そこが、お前の狙いか)
枯は一歩も動かなかった。石化した左足は微動だにせず、大地の底に根を張った大樹のように佇んでいる。『不動の剣境』。彼は失われた右腕の質量を脳内で再構築し、『隻腕の重心制御法』を用いて上半身を数分だけ滑らかに傾けた。
シュッ、という鋭い風切り音と共に、玄鉄の爪が枯の灰色の衣服をかすめ、空を裂いた。繊維一枚の差で、劇毒の刃を完璧に回避したのだ。
「な、に……!?」
骸骨が驚愕の声を上げる暇もなく、枯の左手が動いた。白熱する竹箒が、完璧な円の軌道を描いて掃き出される。箒払い・合気円閃。箒の先が骸骨の腕の『曲池穴』を正確に叩いた。枯が放った無双の内力は、箒の竹繊維を通じて骸骨の肉体を透過し、彼の関節の力を一瞬にして地面へと受け流した。
ズゥゥン!
凄まじい衝撃波が泥の土間を揺らし、木小屋の太い支柱が悲鳴を上げて軋む。骸骨は自身の突進の力をそのまま地面に叩きつけられ、体勢を大きく崩してよろめいた。
床に倒れる沙耶は、その光景を信じられない思いで見つめていた。動けないはずの隻腕の老人が、箒一本で、一流の暗殺者を赤子のようにもてあそんでいる。その無駄のない、あまりにも美しい動きは、かつて父が語っていた、あの「天下一の無双流」の面影そのものだった。沙耶の心に、老墓守に対する深い疑惑と、言葉にできない畏怖が急速に膨らんでいく。
「キィィ! 小癪な真似を……!」
骸骨の仮面の奥で、狂暴な殺意が爆発した。男は『枯骨功』を極限まで発動し、自身の肩や肘の関節を意図的に脱臼させ、腕の長さを通常よりも一尺以上も伸ばした。蛇のようにうねる不規則な軌道を描きながら、左右の玄鉄の爪が、枯の首元と心臓を同時に貫こうと迫る。
回避は不可能。しかも、狭い小屋の中には『骨砕き粉』の毒煙が充満し、枯の呼吸を徐々に蝕みつつあった。枯の右肩の黒ずんだ『腐骨毒の傷跡』が、急激な内功の循環によって熱く燃え上がり、衣服の右袖の奥からどろりとした黒い血が滲み出る。全身を切り刻むような劇痛が、彼の意識を刈り取ろうとする。
(ここで退けば、元信の娘が死ぬ。……我が命など、とうに捨てたはずのもの)
枯は静かに息を整え、空海の教えを胸に、体内の『経絡のバイパス』を強引に全開にした。破壊された主要な経絡を避け、皮膚に近い細い経絡を無理やり拡張して内功を通す。彼の全身の皮膚が真っ赤に白熱し、衣服の隙間から青白い雷光のような内力がパチパチと放電を始めた。
そして、枯は左手の掌から、かつて寒氷泉で蓄積した極限の冷気を一気に放出した。寒氷泉の氷結発動。
キィィィン――!
白熱していた竹箒の先が、一瞬にして純白の氷の刃へと変貌した。周囲の血霧が急激に凍りつき、美しい結晶となってきらめきながら舞い散る。枯が箒の先を静かに突き出すと、極寒の霧が骸骨の玄鉄の爪へと襲いかかった。
「な、これは……氷の気功……!?」
骸骨が叫んだ瞬間、彼の両手に装着された玄鉄の爪が、不気味な音を立てて真っ白に凍りついた。金属の分子が極限の冷気によって収縮し、ガラスのように脆く変化していく。枯は目を閉じたまま、箒の先で凍りついた爪の「骨折線」を正確に、軽く叩いた。
パリィィィン!
澄んだ破壊音と共に、闇の世界で恐れられた玄鉄の爪が、無数の青白い氷の破片となって四散した。骸骨の武器は、跡形もなく粉砕されたのだ。極寒の冷気はそのまま骸骨の経絡へと侵入し、彼の体内の邪悪な内力を一瞬にして凍結させた。骸骨は激しく吐血し、仮面の間から血を流しながら、木小屋の壁を突き破って外の赤い霧の中へと敗走していった。
命を奪うことなく、敵の武器だけを完璧に破壊する不殺の制圧。それは、伝説の剣聖にしか成し得ぬ神技だった。
静寂が、再び木小屋を支配した。
しかし、勝利の代償はあまりにも大きかった。バイパスを閉じた瞬間、枯の全身の細い経絡が一斉に破裂し、皮膚の表面から微細な血が噴き出した。彼の cloudy な瞳から光が消え、右肩の傷口から大量の黒い血が溢れ出る。
「ごふっ……!」
枯は激しく喀血し、持っていた竹箒が手から滑り落ちて泥の上に転がった。彼の石化した左足が崩れ、頑強だった老兵の身体が、糸の切れた人形のように土間の上に崩れ落ちた。その呼吸は極めて浅く、心臓の鼓動は今にも停止しそうだった。
「おじいさん……! おじいさん!」
毒粉の麻痺が徐々に薄れ、辛うじて指先が動き始めた沙耶は、泥の上を這いずりながら枯の元へと近づいた。彼の冷たくなった左手を握りしめ、黒い血に染まった衣服を見て、彼女の目から涙が溢れ出る。彼が自分を救うために、その命を限界まで削って戦っていた事実が、彼女の胸を激しく締め付けた。
このままでは、彼は死んでしまう。
沙耶は震える身体を無理やり立たせ、形見の剣『落葉』を背負い直した。お梅の薬草庵へ行けば、彼を救う解毒薬があるかもしれない。沙耶は涙を拭い、崩れ落ちた枯の肉体を守るため、そして彼を救うために、深く立ち込める赤い血霧の闇の中へと、必死に走り出した。
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