落日の箒、砂に描く不殺の円
落日谷(らくじつこく)の最奥に位置する万剣塚(まんけんづか)は、常に錆びた鉄と乾いた土の匂いに満ちていた。夕刻、山壁の狭間から差し込む血のように赤い陽光が、地面に突き刺さる数万の折れた刃を黄金色に染め上げる。風が吹くたびに、無数の金属の残骸が「キーン」と低く、泣くような鳴き声を上げた。それは、かつてこの地で命を落とした無名剣士たちの、消えぬ未練の合唱のようであった。
カサリ、カサリ。
その荒涼とした聖域の入り口で、一人の老人が黙々と竹箒を動かしていた。灰色の粗末な麻衣をまとい、白髪混じりの乱れ髪が深く刻まれた顔を覆っている。彼の右袖は肩の付け根あたりで固く結ばれ、風に力なく揺れていた。隻腕の老墓守――名を「枯(こ)」という。
三十年前、彼はすべてを失った。右腕を切り落とされ、喉を焼かれて声を奪われ、世間から死んだものとして忘れ去られた。今や彼はただの、言葉を持たぬ哀れな老墓守として、この剣の墓場を守ることだけを生きる糧にしている。
「ワン」
枯の足元で、隻眼の灰色の野良犬「灰(はい)」が短く吠えた。灰は耳をぴくりと立て、谷の入り口の方角を睨みつけている。同時に、枯の唯一の左手が箒を握る力をわずかに強めた。彼の皮膚が、風の乱れを感知したのだ。乾いた足音と、金属の甲冑が擦れ合う不快な音が、静寂を切り裂いて近づいてくる。
「おじいちゃん、大変だ! 赤い鎧を着た兵隊たちがたくさんやってくる!」
息を切らせて走ってきたのは、枯が数年前に拾った孤児の小助(コスケ)だった。ボロボロの着物を揺らし、小さな体を震わせている。枯は何も言わず、ただ小助の頭を大きな左手で優しく撫で、自身の背後に下がらせた。
直後、万剣塚の外郭に、鉄の蹄の音が地鳴りのように響き渡った。現れたのは、地方守備隊長・黒田源信(くろだげんしん)率いる数十人の兵士たちだった。黒田は肥えた馬にまたがり、漆黒の甲冑を朱色の外套で飾っている。その顔には、傲慢さと手柄を焦る下卑た執念が張り付いていた。
「ふん、ここが万剣塚か。噂通り、使えそうな鉄屑が山ほど転がっているな」
黒田は馬を止め、乱立する剣の墓標を見下ろして冷酷に笑った。朝廷より下された「鉄資源の強硬徴発令」。最新の大砲を鋳造するため、民間の鍋釜から名剣に至るまで、すべての鉄を接収せよという命令を、黒田は私腹を肥やす絶好の機会として利用していた。
「おい、役立たずの雑兵ども! ぐずぐずするな。この墓場にある剣を一本残らず引き抜き、荷車に積め! 溶鉱炉へ送れば、すべて極上の大砲の材料になる!」
黒田の命令を受け、三流外家境の粗暴な兵士たちが、ニヤニヤと笑いながら剣塚へと踏み込んだ。彼らは死者への敬意など微塵も持ち合わせていない。地面に突き刺さる古い名剣を、力任せに引き抜き始めた。
「やめてくれ! そこは俺たちの先祖、この谷を守って戦死したお侍さまたちの墓標なんだ!」
集落から兵たちの後を追ってきた貧しい農民が、涙を流しながら兵士の腕に縋り付いた。だが、兵士は鬱陶しそうにその腕を振り払った。
「黙れ、農奴が! これは皇帝陛下の御命令だ。朝廷に逆らう奴は反逆者として処刑する!」
兵士が腰の太刀を抜き、無抵抗の農民の首元へと刃を突きつけた。ギラリと光る鋼鉄の刃が、農民の皮膚を裂こうとしたその瞬間、小助が叫んだ。
「やめろ!」
小助は農民を救おうと無謀にも走り出したが、別の兵士に胸元を強く突き飛ばされた。小さな体が宙を舞い、鋭い折れた剣の刃が突き出す地面へと落下していく。
その時、枯の影がブレた。
音もなく、風さえも置き去りにするような極限の身のこなし。枯は左手一本で小助の体を空中で受け止め、自身の重心を一切揺らすことなく、滑らかに地面へと着地させた。その一連の動作には、一寸の無駄も、衝撃の音すらなかった。
小助を優しく地面に降ろすと、枯は再び古い竹箒を手に取り、農民と兵士の間に静かに割って入った。ただ、黙々と地面の砂を掃く動作を繰り返しながら。
「なんだ、この薄汚い隻腕の老いぼれは? 邪魔をする気か!」
農民に刃を突きつけていた兵士が、枯の登場に激怒した。兵士は枯を「ただの邪魔なボケ老人」と見なし、その細い腰を目がけて力任せの蹴りを放った。三流外家境の、肉体だけを鍛えた粗野な一撃。
枯は目を伏せたまま、足を一歩も動かさなかった。足裏のツボ「湧泉穴(ゆうせんけつ)」を大地の奥深くへと固定し、重心を完全に一体化させる。
ドゴッ、と鈍い音が響いた。
だが、蹴られたはずの枯は微動だにせず、逆に蹴りを放った兵士が激しい悲鳴を上げてその場に転倒した。枯は兵士の蹴りが当たる一瞬前、竹箒の頑丈な柄を自身の腰のラインに完璧に沿わせ、受けた衝撃のベクトルを、箒を通じて大地の底へと受け流したのだ。兵士には、まるで鋼鉄の岩壁を全力で蹴りつけたかのような衝撃が自らの脚に跳ね返っていた。
「ぐああっ! お、俺の足が……!」
のたうち回る部下の姿を見て、黒田源信の目が細められた。ただの偶然か、それともこの墓守に何か秘密があるのか。黒田は馬の脇腹を強く蹴り、枯目がけて馬を進めさせた。
「どけ、老いぼれ! 馬に踏み潰されたくなければな!」
重い甲冑を着た将軍を乗せた軍馬が、凄まじい質量を伴って枯へと突進する。まともに衝突すれば、老人の華奢な肉体など一瞬で砕け散る。沙耶という少女がこの場にいれば、その無謀な突撃に息をのんだだろう。だが、枯の心境は明鏡止水そのものであった。
枯は「不殺の誓い」を胸に、左手で竹箒を大きく円状に掃いた。
――箒払い・合気円閃(あいきえんせん)。
一見すると、ただ老人が慌てて砂を掃き散らしただけの、不器用な動作に見えた。しかし、箒の先が描いた完璧な円の軌道は、周囲の大気を急激に圧縮し、赤砂と乾いた落ち葉を巻き込む目に見えない小さな竜巻を形成した。
馬の蹄がその「円」に踏み込んだ瞬間、突風と砂塵が馬の視界を奪い、足元の摩擦抵抗を完全にゼロにした。突進のエネルギーが円の回転に巻き込まれ、馬は自らの推進力によってバランスを完全に崩した。
「ヒヒーン!」
軍馬が激しくいななき、前脚を滑らせて横転する。馬上にいた黒田源信は、放り出されるようにして宙を舞い、泥濘んだ赤土の中へと無様に顔面から突っ込んだ。
「ぶはっ! ごふっ……泥が……!」
自慢の朱色の外套も、漆黒の甲冑も、一瞬にして赤黒い泥と錆びた鉄粉まみれになった。黒田は這い上がり、口の中の泥を吐き出しながら、怒り狂って叫んだ。
「貴様ら、何を見ている! この老いぼれを……いや、今の風は一体何だ!?」
黒田は枯を睨みつけた。老墓守は、相変わらず怯えた様子で竹箒にしがみつき、ぶるぶると震えているように見える。周囲の兵士たちも、ただの突風による事故としか思っていない。しかし、黒田の武人としての本能が、静かに警鐘を鳴らしていた。今の落馬は、ただの偶然ではない。この剣塚の空気そのものが、自分たちを拒絶しているかのような、冷たい「剣意」を微かに感じたのだ。
(この墓場には、何かが潜んでいる……)
黒田は立ち上がり、汚れた剣を鞘に収めると、周囲を警戒するように見回した。枯の右肩の壊死した経絡が、内力を強引に動かした反動で「ピキリ」と小さく軋み、皮膚の奥で激しい激痛が走ったが、枯はその痛みを眉一つ動かさずに耐え忍んだ。
「……チッ、今日のところは引き上げる。だが、万剣塚の鉄資源は必ずすべて回収する。おい、行くぞ!」
黒田は屈辱を押し殺しながら馬を立て直し、部下たちを引き連れて谷の入り口へと撤退していった。その背中には、執念深い監視の目が残されていた。
兵たちの姿が見えなくなると、枯は静かに息を吐き、再び竹箒を手に取った。赤土の上に描かれた、風圧による不殺の円。枯はそれを消し去るように、また静かに箒を動かし始めるのだった。
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