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鉄壁のバグ

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タタロス監獄の深夜を支配するのは、凍てつくような静寂と、錆びた鉄骨を濡らす重苦しい湿気だった。看守長執務室の魔導コンソールに、カインが持ち込んだ偽造密告データによる「最初のシステムエラー」が静かに明滅し、管理部の注意が一時的に逸れている。その僅かな隙を突き、トウヤ、ガンツ、チコの三人は、監獄全体の結界情報を一手に握る監視塔「鷹の目」のふもとへと、影のように忍び寄っていた。


「……ズキ、ズキと、右手の火傷が痛む」


トウヤは、ロジック・ブルーのインクを調達した際に負った手の焦げ傷を強く抑えた。だが、肉体の痛み以上に、脳の奥に広がる冷たい空白が、彼の胸を締め付ける。数時間前、カインを縛る「密告の契約」をハッキングして解除した代償として、トウヤは妹サクラとの「夕暮れの赤い空」の思い出を完全に失っていた。自分が誰なのか、なぜこれほどまでにサクラを救いたいのか、その感情の源泉となる記憶のピースが、砂のように指の隙間からこぼれ落ちていく。残されているのは、脳裏に響く「兄さん」というかすかな声の残響と、狂気的なまでの執着だけだった。


「兄貴、こっちだ。巡回ルートの隙間はあと2分しかないよ」


チコが自作の『盗聴の耳』を冷たい石壁の配管に押し当て、看守たちの足音の振動を拾いながら手招きする。監視塔「鷹の目」の頂上からは、囚人の胸に刻まれた「無名(アノニマス)」の呪印をスキャンし、一瞬で焼き切る不可視の魔導レーザーが常に放たれている。トウヤは左目の『真名視(アイズ・オブ・ロスト)』を起動した。退色した世界の裏側から、空中に網の目のように張り巡らされた青いレーザーの格子が、デバッグ画面のコードのように剥き出しになって現れる。


「……『魔力波形デバッグチューニング』を開始する。チコ、ガンツ、僕の魔力波形に同調しろ」


トウヤは、周囲の岩盤に埋め込まれたマナ・クォーツが発する微弱な環境ノイズを左目でデコードし、自身の魔力の周波数をそれに完全に一致させた。彼らの身体を包む微弱な魔力のオーラが、周囲の岩石や湿った空気の魔力光と完全に同化し、監視塔のスキャンを完璧にすり抜けていく。音もなく、影のように彼らは監視塔のメインゲートへと近づいた。しかし、その巨大な鋼鉄の扉の前に到達した瞬間、彼らの進路は絶対的な暴力によって阻まれた。


「誰だ、そこにいるのは。家畜が迷い込む場所ではないぞ」


低く、金属が擦れ合うような重々しい声が暗闇から響いた。現れたのは、身長二・五メートルに達する人間離れした巨躯。全身が重厚な鋼鉄の皮膚で覆われ、顔の輪郭すら黒鋼のプレートのように歪んだ男――タタロス監獄一等看守、ブルートだった。彼の首には、看守長バルザックから与えられた、自身の質量を倍加させる「鋼鉄の首輪」が不気味に鈍く光っている。


「無名囚人のゴミどもが、なぜここにいる。……ほう、お前がブルートを自滅させたという『No.108』か」


ブルートの瞳に、残酷な愉悦の光が宿る。彼は自身の圧倒的な防御力に絶対の自信を持っていた。


「看守長からの直令だ。お前たちの真名を剥奪し、ここで肉体ごと粉砕する」


ブルートが巨大な拳を握り締めると、彼の皮膚に刻まれた帝国公式のルーンが一斉に赤く発光した。『絶対鉄鋼化(アイアン・フォーマット)』――彼の肉体の分子構造が、一時的に帝国製の魔導鋼鉄へと変換され、周囲の空気が彼の圧倒的な質量によって物理的に歪み、重圧となってトウヤたちにのしかかる。


「トウヤ、下がれ! ここは俺が食い止める!」


ガンツが叫び、落盤で骨折した右腕を庇いながら、左手でひしゃげた黒鉄の防護板(盾)を構えて前に出た。トウヤに命を救われた巨漢の盾は、その身が砕け散ろうとも、トウヤを物理的な脅威から守り抜くという絶対的な忠誠を誓っていたのだ。


「家畜が、私の質量に耐えられると思うな!」


ブルートが地面を踏みしめ、突進した。鋼鉄化された二・五メートルの巨躯が突進する破壊力は、暴走する魔導列車そのものだった。


ズガァァァン!


凄まじい金属音が監視塔のふもとに響き渡った。ガンツが構えた黒鉄の防護板は、ブルートの拳が激突破壊した瞬間、耐えきれずにガラスのように物理的に完全に粉砕された。鋭利な鉄の破片が四方に飛び散り、ガンツの巨躯は木の葉のように弾き飛ばされて岩壁に激突した。


「がはっ……!」


ガンツの口から鮮血が吹き出し、彼の左腕の骨が折れる鈍い音が響く。トウヤを守るための盾は一撃で破壊され、ガンツは瀕死の重傷を負って地面に崩れ落ちた。物理的な暴力の前には、いかなる肉体の強さも無力だった。


「ガンツ!」チコが悲鳴を上げる。


「次はお前だ、名無しの小僧」


ブルートが、鋼鉄の拳を再び持ち上げ、トウヤを見下ろした。その絶対的な質量攻撃を避ける術はないように思えた。


だが、トウヤは逃げなかった。彼は左目の『真名視』を最大稼働させ、ブルートの肉体に張り巡らされた魔力回路の「青い糸」を凝視した。モノクルのレンズ上に、ブルートの能力を定義する契約文が青いデバッグコードとして展開される。


【契約定義:対象の肉体を魔導鋼鉄に変換し、質量を十倍にする。ただし、その硬度と質量を維持するために、毎秒一定の魔力を消費する。執行者:バルザックの署名印】


(この契約には、致命的な『維持コスト』の死角がある。無から魔力を生み出すことはできない。奴の鉄鋼化は、体内の魔力炉の稼働率に依存しているのだ。)


トウヤの脳内演算領域が、ミリ秒単位のクロック・スピードでバグを抽出し、敵の魔力循環を自壊させるためのデバッグコードを構築していく。ブルートの鋼鉄の拳が、トウヤの頭部を粉砕せんと振り下ろされた。


「死ね、ゴミめ!」


トウヤは袖口から、純銀製の極細の医療針――『論理の銀針』を滑り出させた。彼はブルートの拳の軌道を左目で予測し、最小限の動きでそれを紙一重で躱した。拳がトウヤの耳元をかすめ、背後の石壁を爆裂させる。飛び散る石粉の中、トウヤは避けるのではなく、ブルートの懐へと鋭く肉薄した。


「何っ……!?」


ブルートが驚愕に目を見開く。その瞬間、トウヤはブルートの額、魔力回路の接続点(死角)へと、自身の右手の指先に握った『論理の銀針』を物理的に突き刺した。チリ、と青い火花が散る。


「システム、割り込み(インジェクション)を開始」


トウヤは、針を通じてブルートの魔力循環に『魔力反発誘発(バックラッシュ・トリガー)』の過負荷ノイズを流し込んだ。ロジック・ブルーの青いインクが銀針を伝い、ブルートの契約回路へと染み込んでいく。


「質量を十倍にする代わりに、魔力維持コストを百倍にする。……『質量保存の法則』のバグを、ここに適用する」


「な、何を……ぐあ、あああああ!」


ブルートの額に刻まれた契約ルーンが、青から不気味な赤へと一瞬で変色し、激しく明滅し始めた。彼の肉体の質量が、トウヤの書き換えた契約式に従って、急激に、かつ指数関数的に増加していく。しかし、それを維持するための魔力消費量は百倍に跳ね上がり、ブルートの体内の魔力炉は一瞬で完全に枯渇した。


「魔力が……足り、ない……? 身体が、重……っ」


契約の等価交換限界を超えた「論理破綻(バックラッシュ)」が、ブルートの肉体を内側から襲った。彼の鋼鉄の皮膚は、急激に増加した自身の「質量」に耐えかねて、ガラスが割れるような不気味な音を立ててひび割れ始めた。一歩も動くことができず、自身の自重によって彼の巨大な肉体が物理的に崩壊し、地面へと沈み込んでいく。


「ば、バルザック、様……私、が……っ」


ブルートは膝を突き、その場に完全に沈黙した。魔力回路がショートし、彼の『絶対鉄鋼化』の契約は強制解除され、ただの傷だらけの肉体へと戻った。力で勝つのではなく、相手のルール(契約)の穴を見つけ、相手自身にその代償を支払わせる。トウヤの論理の完全なる勝利だった。


「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」


トウヤは激しい偏頭痛に襲われ、目から一筋の血が流れ落ちた。脳内演算の過負荷により、また一つ、日常の記憶が削り取られていくのを感じた。だが、最強の門番は沈黙した。


「チコ、ガンツを医務室へ。僕は監視塔の内部へ入る」


トウヤは満身創痍のガンツをチコに託し、監視塔のメインゲートの制御盤へと歩み寄った。彼が鉄筆を制御盤に差し込み、探知レーザーの「光の反射契約」をハッキングして自分たちの姿を透明化するデバッグモードを起動した、まさにその瞬間。


ビーーー! ビーーー! ビーーー!


監視塔の頂上から、監獄全体を揺るがすような、けたたましい非常警報(アラーム)が鳴り響いた。バルザックが「鷹の目」のエラーとブルートの契約破綻を検知したのだ。


「しまっ……!」


トウヤは顔を歪めた。監視塔の内部へと侵入することには成功したが、彼らの脱獄計画は、ついに看守長バルザックの知るところとなったのだ。

HẾT CHƯƠNG

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