裏切りの鎖と二重の誓約
監獄医務室の空気は、常に冷たい消毒液と干からびた薬草の匂いに満ちている。看守たちの『監視契約』の魔力線が唯一届かないこのセーフハウスで、トウヤは木椅子に腰掛け、左腕を静かに見つめていた。
「ロスト・カウンター、十五パーセントか……」
エレナから提供された『忘却抑制薬』のおかげで肉体の崩壊は一時的に止まっている。だが、白を通り越して半透明になりかけた左腕の皮膚の下では、細かな魔導文字の羅列が、まるで生き物のように不気味に蠢いていた。レキシコンを使用し、世界のバグを突くたびに、トウヤという存在の記述が世界から削り取られていく。それは避けられない等価交換の代償だった。
「兄貴、次の巡回スケジュールを計算し終えたよ。でも、なんだか看守たちの動きが慌ただしいんだ。広場での処刑宣告のあと、警備の密度が明らかに上がってる」
チコが自作の『盗聴の耳』を片手に、不安そうに囁いた。一斉処刑まで残り七十二時間。監獄全体が、目に見えない死のカウントダウンに支配され、囚人たちの間には絶望が伝染病のように広がっていた。
その時、医務室の重い鉄扉が、音もなく僅かに開いた。冷たい廊下の風と共に滑り込んできたのは、一人の若い看守だった。まだ着慣れない三等看守の制服。その顔は青白く、手にした制式剣がカタカタと小さく震えている。カインだった。
「そこまでだ、無名者(アノニマス)ども……」
カインの声はかすれていた。剣先は真っ直ぐにトウヤの喉元を指している。
「カインの野郎、裏切りやがったな!」
チコが鋭く叫び、トウヤを庇うように前に出ようとした。すばしっこいチコは、足元に転がっていた鉄パイプを拾い上げ、カインの死角へと回り込もうとする。しかし、カインは臆病な表情とは裏腹に、訓練された帝国警備兵の身のこなしでチコの突進をいなした。剣の柄でチコの腕を叩き、流れるような足払いで彼を床に組み伏せる。
「動くな! これ以上、罪を重ねるな!」
カインはチコを抑え込みながら、再びトウヤに剣を向けた。その額からは、滝のような冷や汗が流れ落ちている。
「……すまない、No.108。お前たちが脱獄を企てていることは、すべてバルザック看守長に報告させてもらう。それが、僕に課せられた『密告の契約』だ」
トウヤは動じることなく、静かにカインを見つめた。左目の『真名視』を起動すると、カインの首元から心臓にかけて、不気味な赤黒い魔力糸が幾重にも巻き付いているのが見えた。それはバルザックが施した、強制命令の呪縛――『密告の契約書』の物理的な具現だった。カインが不審な動きを隠蔽しようとするたびに、その糸が彼の心臓を締め付け、耐え難い激痛を与えているのだ。
「カイン、お前は本当に僕たちを売りたいのか?」
トウヤの声は、凍てつくように冷静だった。その冷徹な佇まいに、カインは一瞬気圧される。
「売りたくて売るわけじゃない! でも……僕には選択肢がないんだ! 妹のサクラが……サクラの真名結晶が、バルザックの冷気カプセルに凍結されている。僕が少しでも不審な動きを見せれば、彼女の真名は一瞬で砕かれ、世界から消滅する。僕が君たちを密告しなければ、妹が死ぬんだ!」
カインの叫びは、血を吐くような絶望に満ちていた。妹を救いたいという純粋な想いと、監獄の暴虐に対する正義感の狭間で、彼の精神はすでに限界まで摩耗していた。その葛藤の熱量が、カインの首の『密告の契約』を刺激し、赤黒い糸がさらに鋭く彼の皮膚に食い込んでいく。
「……なるほど、妹か」
トウヤの灰色の瞳の奥に、一瞬だけ、言葉にできない激しい感情の波が走った。名前を奪われ、仮死状態にある妹サクラ。カインの境遇は、トウヤが失った記憶の底にある、唯一の執着の対象と完璧に共鳴していた。
「カイン、お前を縛るその契約、僕がデバッグしてやる」
「デバッグ……? 何を言っている、これはバルザック看守長の直筆署名が入った、帝国司法省公認の『服従契約』だぞ! 書き換えることなんて――」
「完璧な契約など、この世界には存在しない」
トウヤは懐から、青く美しく発光する『ロジック・ブルー』のインク瓶を取り出し、鉄格子から削り出した『鉄筆』の先に浸した。左目のモノクルのダイヤルを回し、カインの首に巻き付く赤黒い契約線の論理構造をスキャンする。
【契約定義:執行者(カイン)は、タタロス監獄の不利益、または逃亡に関する情報を一切隠蔽してはならない。隠蔽、または虚偽の報告を行った場合、契約ペナルティとして心臓を停止する。署名者:看守長バルザック】
トウヤの脳内演算領域が、ミリ秒単位のクロック・スピードでバグの抽出を開始した。モノクルのレンズ上に、契約書の裏面に隠された論理的死角が赤く強調表示される。
「カイン、お前の契約書には『バルザックの不利益になる情報を隠蔽してはならない』と記述されている。……だが、バルザック看守長は、囚人から搾取した真名結晶の十五パーセントを私的に着服している。僕はその証拠(魔力波形データ)を握っている」
トウヤの言葉に、カインは目を見開いた。
「もしお前が、僕たちの脱獄計画をバルザックに報告すれば、当然、僕たちは拘束される。だがその瞬間、僕が握っているバルザックの汚職データは、帝国中央の『真名検知網』へと自動送信される。そうなれば、バルザックは失脚し、破滅する。つまり――『トウヤの脱獄を報告する行為』は、結果として『バルザックに致命的な不利益をもたらす行為』と同義になる」
トウヤは鉄筆を構え、カインの首元に漂う赤黒い魔力線へと、青いインクの文字を直接書き込み始めた。
「逆に、お前が僕の脱獄を隠蔽すれば、それは契約書の『隠蔽禁止規定』に違反し、お前の心臓は止まる。報告すればバルザックに不利益を与え、隠蔽すれば契約違反となる。どちらを選んでも、契約は自己矛盾(パラドックス)を起こす」
ロジック・ブルーの青い文字が、赤黒い契約の糸に触れた瞬間、パチパチと激しい論理エラーの火花が散った。カインの身体が激しく震え、首の呪縛が悲鳴を上げるように明滅する。
「さらに、バルザックの私的着服は帝国法における『職権濫用』だ。帝国監査法第百八条に基づき、汚職行為を幇助する下位契約は、最上位の監査権限によって自動的に『無効化』される。……システム、割り込み(インジェクション)を開始」
トウヤが鉄筆で最後のルーンを刻み込んだ。カインの首に巻き付いていた赤黒い糸が、一瞬にして鮮やかな青色へと上書きされ、ガラスが割れるような美しい音を立てて霧散した。
「あ、が……っ、はあ!」
カインは胸を押さえ、その場に崩れ落ちた。心臓を締め付けていた耐え難い圧迫感が、完全に消失していた。彼は信じられないという表情で自身の首に触れ、それからトウヤを見上げた。
「契約が……消えた……? いや、一時的にフリーズしているのか……?」
「バルザックに気付かれないよう、契約の実行プログラムを『保留状態(デバッグモード)』に書き換えただけだ。これで、お前が僕たちを密告しなくても、心臓が止まることはない」
トウヤはカインの前に立ち、静かに手を差し伸べた。その瞳には、強制や脅迫ではなく、対等な人間としての強い意志が宿っていた。
「カイン。僕はお前の妹サクラを、必ずあの冷気カプセルから救い出す。僕の妹もまた、同じ場所に囚われているからだ。だから、お前はバルザックの『忠実な猟犬』を演じ続けろ。僕たちのために、看守側の内部情報を流す二重のスパイになってくれ」
カインはトウヤの手を見つめ、それから床に落ちていた自身の剣を鞘に収めた。彼の瞳から、恐怖と迷いが消え去り、確固たる決意が宿る。カインはトウヤの手を強く握り返した。
「……わかった。僕は君を信じる。僕の真名はカイン。妹を救うため、そしてこの狂った監獄を壊すために、君と誓約を結ぶ」
契約書(システム)に縛られない、自発的な『二重の誓約』が、二人の間に結ばれた瞬間だった。トウヤは満足そうに頷き、懐から一枚の奇妙な羊皮紙を取り出した。
「これをバルザックに渡せ。僕が『ロジック・ブルー』で作成した、完璧に偽装された『密告データ』だ」
カインはそれを受け取り、深夜の医務室を後にした。
数時間後、看守長執務室。バルザックはカインから提出された羊皮紙を手にし、不敵な笑みを浮かべながら自身の『支配者の印章』をそこに押し当てた。だが、そのデータが監獄の管理システムにコンパイルされた瞬間、執務室の魔導コンソールに、見たこともない奇妙なエラーログが静かに明滅し始めた――。
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