宣告されたカウントダウン
凍てついた鉄パイプの結露が、首筋を伝って冷たく流れ落ちる。けたたましく鳴り響く非常ベルの金属音が、タタロス監獄の湿った岩壁に反響し、鼓膜を容赦なく震わせていた。
「兄貴、急ごう! 広場への通路が閉鎖されちまう!」
チコがトウヤの袖を強く引きながら、暗い通路を必死に駆けていく。トウヤは乱れる息を整えながら、懐の『ロジック・ブルー』のガラス瓶が衣服越しに冷たい熱を放っているのを感じていた。ファロンとの命がけの闇取引を終えたばかりの身体には、魔力過負荷による激しい偏頭痛が残っている。さらに、世界の真名を書き換えた代償として、最愛の妹サクラとの「夕暮れの赤い空」の記憶は完全に脳内から削り落とされていた。残されたのは、ただ彼女の「兄さん」と呼ぶかすかな声の残響と、狂気的なまでの執着だけだ。
通路の角を曲がると、灰色の囚人服を着た無名者たちの濁流に合流した。皆、恐怖に顔を歪め、首に嵌められた『絶対服従の首輪(サブミッション・カラー)』を両手で押さえながら、一箇所へと引きずり出されていく。
「トウヤ……無事だったか」
人混みの向こうから、包帯を巻いた巨躯が立ちはだかった。ガンツだ。一等看守ブルートとの戦闘で深い傷を負ったはずの彼は、未だに荒い呼吸を繰り返しながらも、トウヤの姿を認めると、その強靭な身体で周囲の押し寄せる囚人たちを押し戻し、静かにトウヤの盾となった。言葉はなくとも、その瞳には命を救われた者としての絶対的な忠誠が宿っている。
「ああ。なんとか戻れた。……だが、様子がおかしい」
トウヤが灰色に澄んだ左目――『真名視「アイズ・オブ・ロスト」』を薄く開くと、監獄全体を包む魔力の流れが、かつてないほど禍々しい赤色に染まり、中央広場へ向けて収束していくのが見えた。バルザック看守長が、何らかの巨大なシステム契約を起動しようとしている。その確信が、トウヤの背筋に冷たい戦慄を走らせた。
囚人たちの濁流に押し流されるようにして、彼らは『監獄中央広場「絞首台」』へと辿り着いた。地下深くでありながら、天井の巨大な通気口からは火山地帯の冷たい朝霧が降り注ぎ、広場全体を白く煙らせている。広場の中央には、黒鋼で造られた巨大なモニュメント――『契約不履行の石碑』が、墓標のように冷酷に聳え立っていた。その周囲を取り囲むように、数千人もの無名囚人たちが、看守たちの構える魔導銃の銃口に脅えながら整列させられている。
「静粛に、帝国の家畜どもよ」
広場に設置された高台の上から、増幅された冷酷な声が響き渡った。漆黒の豪奢な看守長服を纏い、顔の右半分に醜悪な契約の紋様を蠢かせた男――看守長バルザックが、冷徹な隻眼で見下ろしていた。その傍らには、全身を重厚な黒鉄の鎧で包んだ副看守長グレゴールが、身の丈を超える巨大な黒剣を地面に突き立てて控えている。
「本日、帝国中央の『真名神聖裁判所』より、一通の極秘令状が届いた。我がタタロス監獄における魔力石の採掘効率の低下、および度重なるシステムエラーログの発生を鑑み、これ以上の生体バッテリーの維持は不経済であると判定された。よって――」
バルザックは、懐から一枚の灰色の羊皮紙――『服従の大契約書』を取り出し、不敵な笑みを浮かべた。
「これより72時間後、お前たち全員の『服従契約』を強制執行する。お前たちの真名をこの契約書を通じて一斉に抽出し、帝国の魔力結晶として還元する。すなわち、全員の処刑だ」
広場全体が、一瞬にして凍りついたような静寂に包まれた。宣告された死。あまりの不条理に、囚人たちの間に急速に絶望とパニックが広がっていく。
「ふざけるな! 俺たちは無実だ! こんな契約、認められるか!」
一人の狂暴な大柄の囚人が、絶望に駆られてバルザックに向けて走り出した。だが、その身体が絞首台の階段に触れるよりも早く、副看守長グレゴールが動いた。一歩の踏み込み。言葉も詠唱もなく、ただ物理的な重力波を纏った黒剣が一閃した。凄まじい衝撃音と共に、襲いかかった囚人の身体は一瞬にして両断され、石床に赤い血を飛び散らせて転がった。その凄惨な光景に、囚人たちは悲鳴を上げ、二度と誰も声を上げることができなくなった。
「反抗は即座の死を意味する。お前たちに拒否権などない。なぜなら、お前たちの命はすでにこの契約書に署名されているからだ」
バルザックは冷酷に言い放ち、腰のベルトから重厚な黒金製の『支配者の印章』を引き抜いた。その印章が、広場の朝霧を切り裂くように不気味な赤い光を放ち始める。
「まずは、お前たちに帝国の法の絶対性を思い出させてやろう」
バルザックが『支配者の印章』を、『契約不履行の石碑』の中央にある凹みへと力任せに押し当てた。その瞬間、石碑の表面に刻まれた無数の赤いルーンが一斉に活性化し、広場全体に不可視の衝撃波が広がった。
チリチリと、トウヤの首に嵌められた『絶対服従の首輪』が熱を帯び始める。次の瞬間、脳髄を直接灼くような激しい高電圧の電流が、首輪の内側から囚人全員の肉体へと放たれた。
「がああああっ!」
「う、あああ!」
広場は一瞬にして、数千人の絶叫と苦悶の喘ぎ声で満たされた。電流は肉体を焦がすだけでなく、彼らの真名の魔力循環を強制的に逆流させ、生命力をむしり取るように吸い上げていく。ガンツも、チコも、その強靭な肉体を激しく痙攣させ、泥水が溜まった石床に膝を突いた。
トウヤもまた、激しい苦痛の波に襲われていた。左目の『真名視』が、強制的に視覚野を青いデバッグ画面へと染め上げる。だが、周囲に満ちる赤い処刑予備魔力の圧力が高すぎる。トウヤの脳は過負荷を告げる警告アラートを乱打し、彼の「ロスト・カウンター」が急速に上昇し始めた。視界がかすみ、自身の右手の指先が、おぼろげな文字の羅列となって半透明に透け始める。
(しま、う……。これ以上、記憶を削られるわけには……サクラの名前すら、消えてしまう……!)
意識が暗黒の深淵へと沈みかけたその時、人混みの影から、白い医療用ローブを纏った女性が、看守たちの目を盗んでトウヤに接近した。監獄の女医、エレナだった。彼女はトウヤの身体が崩壊(透明化)しかけているのを見逃さなかった。彼女はトウヤの横を通り過ぎる一瞬の隙に、彼の手のひらに、小さな極小のガラス瓶を滑り込ませた。
「……それを飲みなさい。あなたの魂を世界に繋ぎ止める薬よ」
エレナのかすかな囁き。トウヤは震える手で、瓶のコルクを歯で引き抜き、中の淡い青色の薬液――『忘却抑制薬「メモリア・リキッド」』を一気に喉へと流し込んだ。冷たいミントのような劇的な冷気が、灼熱していた脳髄と魔力回路を瞬時に冷やしていく。ロスト・カウンターの上昇がピタリと停止し、半透明化しかけていた右手の輪郭が、再び確かな物質として固定された。意識が、極限の透明度を取り戻す。
(……脳内演算、再稼働。システムチェックを開始する)
トウヤは、自身の左目に装着した手作りの『真名解読のモノクル(試作品)』のダイヤルを静かに回した。レンズの周波数が、高台の上で印章を押し当てているバルザックの手元へと同期していく。苦痛に耐える囚人たちの群れの中で、トウヤだけが、冷徹なデバッガーの瞳でバルザックの魔力循環をスキャンし始めた。
【契約解読:服従契約の強制執行プロトコル。等価交換条件――囚人全員の生命力(真名結晶)を帝国神聖裁判所へ無条件で引き渡す。執行者:看守長バルザック】
完璧に見える帝国の公式契約。だが、トウヤの左目が、バルザックの持つ『支配者の印章』から放たれる赤い魔力線の奥に、もう一本の、影のように極めて細い「青黒い魔力糸」が絡みついているのを捉えた。
トウヤはモノクルの解凍コードを最大稼働させ、その青黒い糸の正体をデコンパイル(逆コンパイル)した。脳裏に、バルザックの指先から『服従の大契約書』の裏面へと流れる、非公式な二重契約の記述が視覚化されていく。
【非公式条件:抽出された真名結晶の15%を、執行者(バルザック)の個人魔力炉へと自動転送し、自身の寿命および魔力増幅の対価として私的に消費(着服)する】
(……見つけたぞ、バルザック)
トウヤの唇の端が、冷酷に吊り上がった。それは、帝国中央への忠誠を誓う公式契約の裏で、バルザックが私的な利益を得るために構築した『裏の契約書(汚職契約)』の残渣だった。帝国法において、監査を回避しながら真名結晶を私的に着服する行為は、最上位の等価交換則に対する重大な「虚偽申告(バグ)」に該当する。
バルザックが手に持つ印章の赤い光。その光の裏に隠された、帝国を欺く致命的な論理矛盾。これこそが、3日後に執行される一斉処刑を内側から崩壊させるための、唯一の切り札だ。
バルザックが石碑から印章を引き抜くと、囚人たちを縛っていた電撃が止まり、広場には重苦しい静寂とすすり泣きだけが残された。
「72時間のカウントダウンは開始された。家畜どもよ、精々残された時間を絶望の中で過ごすがいい」
バルザックの冷酷な嘲笑が響く中、トウヤは泥水に膝を突きながらも、懐の『ロジック・ブルー』のインク瓶を強く握りしめた。カウントダウンは始まった。だが、それは帝国が定めた支配のルールを、トウヤの論理がハッキングして破壊するための時間でもあった。トウヤの灰色に澄んだ瞳が、霧の向こうの看守長を静かに見据えていた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!