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闇市場の論理取引

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冷たい鉄パイプの結露が、トウヤの首筋に滴り落ちた。その瞬間、肺の奥からせり上がるような不快な咳を、彼は泥だらけの手で強引に押し殺した。


「兄貴、大丈夫かい? 足元がふらついているよ」


 暗闇の中で、チコが心配そうにトウヤの袖を引いた。少年囚人の声は羽毛のように軽かったが、その中には隠しきれない緊張が混ざっている。


「問題ない。ただの、演算の残響だ」


 トウヤは掠れた声で答え、自身の右手をそっと胸元に引き寄せた。皮膚が黒く焦げ、熱を帯びて腫れ上がった右手は、一等看守ブルートの『絶対鉄鋼化』をハッキングした際の代償を未だに生々しく主張している。だが、肉体的な苦痛以上にトウヤの心を苛んでいたのは、脳の深層に広がる不気味な空白だった。


 サクラ――。


 その名を頭の中で反芻するたび、妹の姿が、かつて共に過ごしたはずの日々が、霞のように指の間からこぼれ落ちていく。ロスト・レキシコンを開き、世界の真名を書き換えるたびに、トウヤの脳細胞は彼自身の古い記憶を燃料として燃やし尽くす。すでに「夕暮れの赤い空の下で、彼女が自分を呼んでくれた」という最も純粋な光景すら、今のトウヤの脳内からは完全に消滅していた。残されているのは、ただ「サクラ」という名前の響きに対する、狂気的なまでの執着だけだ。自分が自分でなくなる前に、彼女の名前と自身の真名を取り戻さねばならない。


「この先が『無名街』だよ。看守たちの巡回ルートから完全に外れた、廃棄鉱区の最下層だ」


 チコが錆びついた排気ダクトの格子を、音もなく取り外した。その隙間から漏れ出てきたのは、タタロス監獄の冷厳な空気とは明らかに異なる、濃厚な煤煙の臭いと、獣のような囚人たちのざわめきだった。


 ダクトを這い出たトウヤたちの眼前に、巨大な地下空洞が広がっていた。かつて魔力石の採掘が途中で放棄されたというその場所は、今や囚人たちの闇市場『無名街』と化していた。岩壁の至る所に突き刺された魔力石のクズが、不気味な青白い光を投げかけ、粗末なテントや木箱の露店を照らし出している。密輸された煙草の煙が紫色の霧となって滞留し、その中を、胸に「無名」の呪印を刻まれた影たちが蠢いていた。


「よう、No.108。ブルートをハメたっていう噂のガキが、何の用だ?」


 空洞の最奥、黒い天幕が張られた一角から、低く掠れた声が響いた。木箱の上に腰掛け、細い煙草を燻らせている男――闇商会『黒い天秤』を率いるファロンだった。


 片目を革の眼帯で覆い、囚人服の上に仕立ての良い(だが泥で汚れた)ベストを羽織ったその男は、獰猛な笑みを浮かべながらトウヤを凝視した。その片方の瞳には、魔術的な価値を測定する『真偽鑑定眼』の、不気味な金色の光が宿っている。


「取引をしに来た。ファロン」


 トウヤは一歩前に踏み出し、懐から鉄格子の破片を削り出した『鉄筆』を取り出した。ファロンの鋭い視線がその粗末な筆に注がれ、次いでトウヤの胸元の呪印、そして右手の火傷へと移動する。


「取引、ねえ。うちの天秤は、等価交換が絶対のルールだ。お前が何を持ち込もうが、それに見合う価値がなければ、ネズミ一匹通さねえよ。で、何が欲しい?」


「『ロジック・ブルー』の原材料。それと、高純度のエーテル・ソルトだ」


 トウヤが告げた瞬間、ファロンの笑みが消えた。彼は煙草を地面に吐き捨て、ゆっくりと立ち上がった。その巨躯から放たれる魔力圧が、周囲の空気を重く湿らせる。


「……『ロジック・ブルー』だと? 世界の真名を記述するための、あの禁忌の変調インクか。小僧、そんな代物をどこで知った? あれは帝国魔導院が厳重に管理し、うちのルートでも年に数滴しか入らない特級の触媒だ。ただの囚人が手を出していい玩具じゃねえ」


「玩具ではない。3日後にバルザックが執行する『削減執行』を止めるための、唯一の鍵だ」


 トウヤが静かに言うと、背後に控えていたチコが息を呑んだ。ファロンは隻眼を細め、トウヤの表情から嘘を読み取ろうとした。だが、トウヤの瞳は灰色に澄んでおり、そこには絶対的な論理の冷徹さしかなかった。


「ふん、バルザックの削減計画か。あのサディストめ、ついにエラーログの隠蔽に動き出したか。だが、それがどうした? 囚人が全員死のうが、俺の商売が明日も続くなら、天秤は動かん。お前にあれを支払うだけの対価があるとは思えんが?」


 トウヤは懐から、これまで第四採掘鉱区で命がけで稼ぎ出した『タタロス・チップ』の袋を取り出し、テーブル代わりに置かれた木箱の上に落とした。金属の鈍い音が響く。


「これでどうだ」


 ファロンは木箱の上の袋を指先で突いたが、鼻で笑った。


「話にならん。チップなど、看守を買収して煙草や酒を買うためのゴミだ。『ロジック・ブルー』の価値は、そんな鉄クズを何千枚積もうが釣り合わんよ。……だが、そうだな」


 ファロンは不敵な笑みを浮かべ、トウヤの顔に一歩近づいた。彼の金色の『真偽鑑定眼』が、トウヤの左目の奥を覗き込もうとする。


「お前がブルートを自滅させたハッキングの技術。あれは本物だ。お前、自分の『真名』をどうやって隠している? 通常、名前を奪われた『無名者』は数日で自我を失い廃人になる。だがお前は、その冷徹な脳を維持している。……お前の『本名の署名(サイン)』、あるいはその脳内にある『真名秘匿の三重防壁』の数式を、契約書に書いて俺に渡せ。それなら、インクをくれてやってもいい」


 トウヤの脳内で、防衛システムが即座に警告のアラートを鳴らした。自身の真名、あるいはその隠蔽数式をファロンに渡すことは、トウヤという存在の『所有権』を彼に明け渡すことと同義だ。一度でも署名を行えば、ファロンは契約魔術を通じて、トウヤの命も、レキシコンの力も、すべてを意のままに支配できるようになる。


「断る。それは等価交換ではない。私の存在すべてを奪う詐欺契約だ」


「交渉決裂だな、小僧。名前のない幽霊が、インクを求めて泥を啜っていな」


 ファロンが背を向けようとしたその瞬間、トウヤの左目が青いデバッグ光を放った。『真名視「アイズ・オブ・ロスト」』の起動。


 トウヤの視界の中で、ファロンの懐にある小さな黒いガラス瓶が青く発光していた。それこそが『ロジック・ブルー』の原材料。そして、ファロンがテーブルの上に広げた、取引のための『交換契約書』の羊皮紙――その表面を流れる魔力回路の「青い糸」が、トウヤの左目に鮮明に投影された。


 トウヤは脳のクロックスピードをミリ秒単位にまで引き上げ、その契約書の記述をデコンパイルした。


【契約定義:署名者A(トウヤ)は、自身の本質名(真名)を記述することで、所有物B(インク)の所有権を署名者B(ファロン)より譲渡される。署名なき場合、所有権の移転は成立せず、インクの魔力回路は永久にロックされる】


 一見、完璧な等価交換契約。だが、トウヤの左目は、契約書の右隅、インクの物理的な「にじみ」によって、魔力回路の記述が極微細に歪んでいる箇所(書式の揺らぎ)を見逃さなかった。インクのにじみは、魔導的には「ノイズ」として処理されるが、それは同時に、システムが文法解釈を誤認する「脆弱性」でもある。


「待て、ファロン。お前が用意したその契約書……記述に致命的な『ノイズ』がある」


 トウヤの言葉に、ファロンが眉をひそめて振り返った。


「ノイズだと? 俺の『黒い天秤』が用意した公認契約書に、そんな不備があるわけがない」


「なら、検証してみせる。お前がそのインクを引き渡す意志があるなら、私が署名を行う前に、契約書の物理的接触(タッチ)を許可しろ。それが、等価交換の前提だ」


 トウヤは『鉄筆』を構え、その先端に自身の指先から流れる極微量の「アルハザードの血」を浸した。彼の血には、古代の創世言語を直接肉体に刻むことができる「原初のインク」が極めて薄く混ざっている。これが、システムに命令を割り込ませるための最上位の触媒(コード・インジェクション)となる。


「ふん、足掻くがいい。だが、署名が完了しなければ、インクの封印は絶対に解けんぞ」


 ファロンが契約書を木箱の上に突き出した。トウヤは左手の指先で契約書の端に触れ、同時に右手の鉄筆を、あのインクのにじみの箇所へと正確に突き刺した。


(脳内演算を開始する。ミリ秒の隙間に、偽名の仮説を滑り込ませろ……!)


 トウヤの脳内で、レキシコンの翻訳辞書が高速で回転した。彼は『真名秘匿の三重防壁』を脳内で稼働させ、自身の本名の魔力データを完璧に遮断しながら、空中に描き出した青い魔術文字を、にじみのノイズフィルターを通じて契約書の回路へとインジェクションした。


【仮説定義:DEFINE [署名者A] == [トウヤという架空の概念(エイリアス)]】

【条件変更:所有権Bの移転条件を「署名の完了」から「契約書の物理的接触(タッチ)」へと書き換える】


「なっ……!?」


 ファロンの隻眼が驚愕に揺れた。木箱の上の契約書が、突如として青白い光を放ち、紙面に刻まれた魔力回路が激しく明滅し始めたのだ。ファロンが懐に隠していた『ロジック・ブルー』のガラス瓶の封印ルーンが、物理的な署名が行われていないにもかかわらず、カチリと音を立てて解錠された。


「契約が……書き換えられただと!? 無署名のまま、所有権が移転している……!」


「手書きの契約書において、インクのにじみはシステム上の空白領域(バッファ)だ。私はその空白に『署名はすでに完了している』というダミーの完了フラグを書き込んだ。システムは、私の物理的接触をもって、取引が正常に終了したとコンパイル(認識)した」


 トウヤは鉄筆を引き抜き、ファロンの懐から解錠されて浮き上がった『ロジック・ブルー』のガラス瓶を、その手で正確にキャッチした。瓶の中の青い液体は、トウヤの魔力と同調するように、美しく、そして冷酷に発光している。


 ファロンは木箱の上の契約書を凝視した。そこには、トウヤの真名ではなく、ただの「インクのシミ」が、完璧な署名としてシステムに処理された痕跡が残されていた。ファロンは騙されたのだ。彼はインクを失い、対価として得たのは、システム上「トウヤ」と認識されただけの、実体のないただの「文字の残渣」だった。


「……ハッ、ハハハハ!」


 沈黙の後、ファロンは狂ったように笑い声を上げた。その隻眼には、怒りではなく、トウヤの悪魔的な知性に対する、背筋が凍るような感嘆が宿っていた。


「言葉の隙間を突いて、システムを内側からクラッキングしたか。名無しの小僧、お前はただの囚人じゃねえ。……世界のルールそのものを欺く、本物のバグだ」


 ファロンは木箱の上のチップの袋を掴み、不敵に微笑んだ。


「今回の取引は、俺の負けだ。だが覚えておけ、トウヤ。お前がそのインクで何を描こうが、バルザックの支配はそんなに甘くねえぞ。俺はお前の『価値』を、引き続き特等席で見極めさせてもらう」


「……感謝する、ファロン」


 トウヤは『ロジック・ブルー』を懐に隠し、チコに向けて目配せをした。目的は達した。これでバルザックの首輪を一斉解除するための、最低限の「弾薬」は揃った。


 だが、彼らが無名街の闇へと引き返そうとしたその瞬間――。


 ウゥゥゥゥン――! ウゥゥゥゥン――!


 廃棄鉱区の湿った岩肌を揺らし、監獄全体からけたたましい非常ベルの音が響き渡った。それは、通常の看守の巡回を告げる鐘の音ではない。タタロス監獄の最深部、魔力炉の警報装置と同期した、囚人全員への「強制召集」を告げる、死のサイレンだった。


「な、何が起きたんだ!? こんな時間に非常ベルなんて……!」


 チコが耳を塞ぎながら悲鳴を上げた。無名街にいた囚人たちの影が一斉にパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い始める。


 トウヤの左目の奥で、青いデバッグ光が激しく明滅した。監獄の中央広場から、かつてないほど巨大な、赤い『服従契約』の魔力圧が、津波のように地下深くへと押し寄せてくるのを感じた。バルザックが、予定を繰り上げて「削減執行」の公式宣告を開始しようとしているのだ。猶予は、もう一秒もない。


「行くぞ、チコ。地獄のカウントダウンが、始まった」


 トウヤは鉄筆を強く握り締め、非常ベルの響き渡る暗黒の通路へと、迷わず駆け出した。

HẾT CHƯƠNG

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