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囁く耳と囚人のネットワーク

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カチ、カチ、カチ――。


 崩落した第四採掘鉱区の天井。暗闇の中で点滅を繰り返す『監視の眼球』の魔導レンズは、まるで獲物を探す捕食者の単眼のように、不気味な赤い光を放っていた。


「兄貴、あいつが管理部に異常ログを送信するまで、あと数分もない! ここにいたらバルザックの親衛隊に囲まれちまう!」


 焦りを含んだ囁き声を上げたのは、茶髪を揺らした少年囚人のチコだった。彼はすばしっこい動作で、落盤の瓦礫からひしゃげた鉄板を引っ張り出し、監視レンズの視線を遮るように立てかける。だが、それは一時しのぎに過ぎない。システムが物理的な視界遮断を「異常」と検知すれば、即座に一等看守たちの増援が送り込まれるだろう。


「……わかっている。だが、まずはガンツを運ぶのが先だ」


 トウヤは荒い呼吸を整えながら、地面に膝を突いた。右手の激しい焦げ傷が、空気に触れるたびに灼熱の痛みを訴えかけてくる。ロスト・レキシコンを起動し、看守ブルートの命令文をハッキングした代償は重い。彼の脳内からは、サクラと交わした「夕暮れの赤い空」の記憶が、まるで最初から存在しなかったかのように完全に消去されていた。


 頭を抱え、割れるような偏頭痛に耐えながら、トウヤはガンツの巨躯を見上げた。電流によって全身を焼かれ、未だに微かに痙攣している男は、虚ろな目を開けてトウヤを見つめていた。その瞳には、かつての無感情な奴隷の光はなく、命を救われたことに対する、言葉にならない絶対的な忠誠が宿っていた。


「動けるか、ガンツ」


「あ、あぁ……。面目、ない……」


 ガンツは折れた右腕を庇いながら、苦痛に顔を歪めて立ち上がろうとした。その巨体を、チコとトウヤが両脇から支える。


「こっちだ、兄貴! 看守の巡回ルートから外れた、古い排気ダクトの抜け道がある。そこに身を隠そう」


 チコの先導のもと、彼らは粉塵の舞う鉱区の闇へと消えた。天井の『監視の眼球』が、システムエラーの警告音を鳴らし始めるのを背中で聞きながら――。


      ◆


 チコが案内したのは、第四鉱区の最下層からさらに奥へと進んだ、使われていない廃棄資材置き場の片隅だった。湿った冷気が漂うその場所の壁際、錆びついた鉄格子の奥に、一人の老囚人が静かに座っていた。


 オウル。このタタロス監獄に三十年以上幽閉されている、監獄の生き字引だ。


「ほう……。一等看守のブルートを、言葉一つで退けたというのは、お前のことか、名無しの小僧」


 オウルは長く伸びた白髭を撫でながら、暗闇の中で乾いた笑い声を漏らした。その濁った瞳が、トウヤの胸元に刻まれた「無名(アノニマス)」の呪印と、彼が懐に隠している『深淵の講義録』の輪郭を捉える。


「ブルートの『絶対鉄鋼化』は完璧な契約に見えた。だが、奴は命令文に致命的な自己矛盾を孕ませていた。私はただ、そのバグを指摘し、システムのエラーハンドラーを起動しただけだ」


 トウヤが冷徹に答えると、オウルはふむ、と興味深そうに目を細めた。


「『論理矛盾自己崩壊則』の適用か。クロノスの奴め、死に際に面白い遺産を遺していったな。だが小僧、お前のその瞳……ただの無名者ではないな。その左目に宿る灰色の光、そしてお前の血が放つ波形……。かつてこの監獄の、いや、帝国の魔導契約システムそのものを構築したとされる、伝説の血脈『アルハザード』の影を感じる」


 アルハザード――。その名前がオウルの口から出た瞬間、トウヤの左目の奥がドクンと激しく脈打った。しかし、失われた記憶の壁は厚く、それ以上の情報は脳内から引き出せない。


「私の出自などどうでもいい。今は、この監獄から脱出する手段が必要だ」


「焦るな、小僧。脱獄を望むなら、まずは敵を知ることだ」


 オウルは錆びた鉄格子の隙間から、古い羊皮紙の切れ端をトウヤに差し出した。そこには、監獄内の物理的な死角や、看守長バルザックの行動パターンが、極めて緻密に書き込まれていた。


「バルザックの執務室は、この廃棄区画の真上にある。奴は毎日、魔力炉の稼働状況をチェックするため、特定の時間に通信魔石を起動する。そこを狙えば、奴らの『対話』を盗み見ることができるかもしれん。チコ、お前の手慰みが役に立つ時が来たな」


 チコは誇らしげに胸を張り、首から下げていた貝殻型の奇妙な道具を掲げてみせた。


「任せてよ、オウル爺さん。俺の自作した『音声傍受魔導具「盗聴の耳」』の出番だね」


      ◆


 翌日の正午、囚人食堂「奈落の底」は、不味い泥のようなスープを啜る囚人たちの熱気と、不穏な囁き声で満ちていた。


「聞いたか? 第四鉱区で、一等看守のブルートが『無名』のガキに倒されたらしいぞ」


「まさか。看守の絶対命令に逆らえる奴なんているはずがない。首輪が爆発して即死するはずだ」


「いや、本当だ。ブルートの印章が爆発して、奴は今も動けないらしい……」


 食堂の片隅の席で、トウヤは周囲の噂話を静かに聞き流していた。彼の隣には、右腕を木板で固定したガンツが、守護獣のように黙って控えている。ブルートを倒した「名無しの英雄」としての噂は、抑圧された囚人たちの間で、静かな、しかし確実な希望の火種として広がり始めていた。


「兄貴、これを受け取ってくれ」


 チコが看守の目を盗み、テーブルの下からトウヤの手元へと『盗聴の耳』を滑り込ませた。それは、監獄のゴミ捨て場から拾い集めた魔石の破片と、音響を増幅する特殊な貝殻を繋ぎ合わせた、歪な、しかし精巧なデバイスだった。


「これで看守室の通気口から流れる微細な石壁の振動を拾う。魔術的な防音結界は『魔力の流れ』を遮断するけど、金属パイプの『物理的な振動』までは遮断しきれない。俺たちの論理の勝ちだ」


 チコは悪戯っぽく笑いながら、トウヤの知恵に憧れる瞳を向けた。


「兄貴、俺をあんたの弟子にしてくれよ。あんたのやる『ハッキング』ってやつは、力で殴り合うより、ずっと美しい。俺も世界のバグってやつを、この目で視てみたいんだ」


「……弟子など取るつもりはない。だが、お前のそのデバイスの設計思想は悪くない。等価交換の限界を、物理的なバイパスで迂回するというのは合理的だ」


 トウヤが冷徹に評価すると、チコは嬉しそうに笑った。しかし、彼らの表情は、食堂の天井に響いた不協和音によって一瞬で引き締まった。看守たちの巡回スケジュールが、予定よりも大幅に早まっている。ブーツの金属音が、食堂の入り口へと近づいていた。


「深夜、看守室の真下にある排気配管で合流する。そこで、バルザックの極秘計画を傍受するぞ」


 トウヤの囁きに、チコは力強く頷いた。


      ◆


 深夜、タタロス監獄の心臓部へと繋がる暗黒の配管スペース。冷たい金属のパイプが縦横に走り、魔力炉の不快な低周波振動が石壁を伝って体内に響いてくる。


 チコは猫のようにしなやかな動作で、狭い配管の隙間へと滑り込んでいった。その手には『盗聴の耳』が握られている。彼は息を潜め、看守室の床下に通じる細い通気ダクトの奥へと、デバイスの集音面を慎重に接触させた。


 チコの耳に、貝殻を通じて看守室の微かな話し声が流れ込み始める。


「……そうか、バルザック看守長。やはり、例のシステムエラーが原因で……」


 音声はノイズに塗れていたが、確かに看守たちの極秘会話だった。チコは興奮を抑えながら、トウヤに向けて手信号を送る。


 だが、その瞬間、配管スペースの入り口から、カツン、カツンという、看守の巡回ブーツの音が響いてきた。しかも、その足音は一つではない。魔導犬を連れた猟犬部隊の気配だった。


「しまっ……!?」


 チコは慌てて配管から抜け出そうとしたが、焦りから囚人服の裾が錆びたボルトに引っかかり、身動きが取れなくなってしまった。足音はすぐそこまで迫っている。魔導犬の低い唸り声が、暗闇の奥から聞こえてきた。


(見つかれば、密輸デバイスの所持と不法侵入で、その場で処刑される……!)


 チコの顔から血の気が引き、全身が恐怖で凍りつく。配管の狭い空間では、逃げることも物理的に不可能だった。


「動くな、チコ」


 トウヤの声が、チコの脳裏に直接響いた。トウヤは焦げた右手の激痛を堪えながら、左目の『真名視』を起動した。彼の視界が青いデバッグ画面へと切り替わり、チコの身体を取り囲む微弱な生体魔力波形が、赤いノイズとして浮き上がって視える。魔導犬はその「生体波形」の匂いを追跡しているのだ。


(デバッグを開始する……!)


 トウヤは懐から『鉄筆』を取り出し、自身の指先から流れる血を筆先に浸した。そして、空中にチコの生体波形を定義する簡易的な論理式を素早く描き殴った。


【論理変調インジェクション:DEFINE [チコの生体波形] == [岩盤の環境ノイズ]】

(チコの魔力波形を、周囲の冷たい岩盤の熱・魔力振動と同化させる)


 トウヤは『魔力波形デバッグチューニング』を完全発動し、血のルーンをチコの胸元へと物理的に押し当てた。


 ジッ、と微かな魔力摩擦の音が響き、チコの全身から放たれていた生体魔力の赤い光が、一瞬にして周囲の冷たい石壁の「青いノイズ」と同化して消え去った。システム上、チコという人間は、その場に存在するただの「冷たい岩石」へと再定義されたのだ。


 直後、配管の入り口に看守と魔導犬が現れた。魔導犬はチコが囚われている配管のすぐ前で立ち止まり、不審そうに鼻を鳴らした。しかし、探知機には何の生体反応も示されない。看守は舌打ちをし、魔導犬の首輪を引いた。


「ちっ、気のせいか。魔力炉のノイズを拾ったんだろう。行くぞ」


 足音が遠ざかり、完全に気配が消えるまで、チコは息をすることすら忘れていた。生体波形の同期が解除され、元の体温が戻ってくると、チコは全身から冷や汗を流しながら、トウヤを見上げて震える声で囁いた。


「あ、兄貴……。今、俺、壁の一部になってた……?」


「静かにしろ。まだ『盗聴』は終わっていない」


 トウヤは冷徹に言い放ち、チコの手から『盗聴の耳』を回収して自身の耳へと当てた。貝殻の奥から、ノイズを突き抜けて、極めて冷酷な、威厳に満ちた男の声が響いてくる。看守長バルザックの声だ。


『――帝国中央の「真名神聖裁判所」からの直令だ。先日の第四鉱区のエラーログは、中央の創世原典システムに重大な不整合を記録した。これ以上のバグの発生は許されん』


 バルザックの声には、絶対的な支配者の余裕と、冷酷な決意が満ちていた。


『予定を繰り上げる。3日後の早朝、監獄内の全囚人の「服従契約」を強制執行し、その真名を結晶化して回収する。真名を失った家畜どもは、魔力炉の燃料としてその場で処理しろ。タタロス監獄の「削減執行」を開始する』


 削減執行――。


 それは、監獄内の囚人全員の真名を搾取し、物理的に消滅させる、合法的な大虐殺の宣告だった。


「3日後……全員、処刑される……?」


 チコが絶望に目を見開いた。トウヤの左目の奥で、青い論理回路が激しく火花を散らす。バルザックが宣告した、あまりにも理不尽な、等価交換を無視した絶対的な支配のルール。それは、トウヤが守るべき「人道」を、そして最愛の妹サクラを救うための未来を、根底から踏みにじるものだった。


「3日……。それが、奴が提示したデバッグのタイムリミットか」


 トウヤは『盗聴の耳』を強く握り締め、暗闇の奥に聳える看守室の天井を睨みつけた。失われた名前を、そして彼らの命を取り戻すための、極限の脱獄劇のカウントダウンが、今、冷酷に開始された。

HẾT CHƯƠNG

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