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最初のデバッグ

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冷え切った螺旋階段を駆け上がるトウヤの肺は、凍りつくような外気と焦燥感で焼き切れそうだった。懐に収めた『深淵の講義録』が、彼の体温を吸い上げて不気味に脈動している。右手の皮膚は、先ほど鉄筆を握り締めて魔力を通した際の摩擦熱で黒く焦げ、一歩走るたびに鋭い激痛が走った。


 だが、その肉体的な苦痛など、脳髄を蝕む「忘却」の恐怖に比べれば些細なものに過ぎなかった。ロスト・レキシコンを起動した代償として、妹サクラと過ごした「夕暮れの赤い空」の思い出は、完全に頭の中から消去されている。どれほど思い出そうとしても、そこにあるのは冷酷な空白だけだ。自分を繋ぎ止めているのは、耳の奥にこびりついて離れない「お兄ちゃん」という、サクラの掠れた声の残響だけだった。あの声さえ失えば、自分は本当に、ただの肉の塊になってしまう。


「……急がなければ」


 トウヤは奥歯を噛み締め、階段の出口である鉄の扉を押し開けた。


 眼前に広がったのは、かつて見慣れたはずの地獄――タタロス監獄の『第四採掘鉱区』だった。地すべり事故から数時間が経過したはずだが、空間には未だに崩落した岩盤の粉塵と、削り残された『魔力石「マナ・クォーツ」』の青い燐光が混ざり合い、重苦しい霧のように立ち込めている。


 そして、その薄暗い霧の向こうから、囚人たちの怯えた喘ぎ声と、肉体を無慈悲に打突する鈍い音が響いてきた。


「動け、この役立たずめが! 一日のノルマも達成できん家畜に、生きて監獄の配給を貪る資格などない!」


 怒号の主は、タタロス監獄の一等看守であり、第四鉱区の現場責任者であるブルートだった。身の丈二メートル半に達する人間離れした巨躯。その全身は、彼の契約魔術である『絶対鉄鋼化』によって鈍い銀色の鋼鉄の皮膚に覆われており、松明の光を冷酷に反射している。


 ブルートの足元には、一人の男が泥の中に這いつくばっていた。巨漢の囚人、ガンツだ。


 ガンツは先ほどの落盤事故の際、トウヤを庇って巨大な岩盤をその身に受けた。その時の重傷が原因で、今日の魔力石の採掘ノルマを達成できなかったのだ。彼の太い腕は不自然な方向に曲がり、呼吸をするたびに胸元から血が混じった泡が溢れている。


「ブルート様……頼む、ガンツはトウヤを救うために……」


 近くで作業を強制されていた囚人の少年チコが、涙を浮かべて許しを乞おうとした。しかし、ブルートは冷酷な視線をチコに向けることすらせず、その巨大な鋼鉄の足をガンツの背中に踏み下ろした。


 ゴキリ、と嫌な音が鉱区に響き渡る。ガンツは悲鳴すら上げられず、泥水を吐き散らして苦悶に顔を歪めた。


「言い訳など不要だ。タタロスの法において、労働不履行は『所有権契約』への重大な不服従とみなされる。バルザック看守長からの直令だ。見せしめとして、この役立たずの真名を剥奪し、処刑する」


 ブルートが腰のベルトから、禍々しい魔力を放つ『支配者の印章』を取り出した。それをガンツの首に嵌められた『絶対服従の首輪「サブミッション・カラー」』へと向けた瞬間、首輪の表面に刻まれた赤い魔術文字が一斉に活性化し、パチパチと血のような電気火花を散らし始めた。


「が、あ……っ、あああああ!」


 ガンツの巨躯が、首輪から放出される強烈な高電圧の電流によって激しく痙攣した。首の皮膚が焦げ、肉の焼ける嫌な臭いが立ち込める。電流は彼の魔力循環を強制的に逆流させ、その生命力をむしり取るように吸い上げていく。


「待て!」


 トウヤは叫び、霧を切り裂いて走り出していた。ガンツは自分を救うためにその身を挺したのだ。彼をここで死なせるわけにはいかない。それは、トウヤという人間が、失われた記憶の底で唯一守るべきだと本能が叫ぶ「人道」に対する違背だった。


「お前は……地すべりで死んだはずの『No.108』か」


 ブルートが鬱陶しそうにトウヤを振り返った。その瞳には、虫ケラを見るような侮蔑しかない。


「家畜が、私の作業を邪魔するな」


 ブルートが鋼鉄の腕を軽く一振りした。ただの牽制。しかし、絶対鉄鋼化された腕の質量は、物理的な暴力の嵐となってトウヤを襲った。


 トウヤはとっさに腕を交差させて防ごうとしたが、鋼鉄の硬度の前に彼の身体は木の葉のように弾き飛ばされた。背中から岩壁に激突し、肺から酸素が完全に吐き出される。目の前が真っ暗になり、激しい咳き込みと共に血の味が口内に広がった。


「がはっ……、はぁ、はぁ……っ!」


 物理的な戦闘力は皆無。それが、真名を奪われた「無名者」の現実だった。どんなに足掻いても、鉄鋼化された看守の肉体を傷つけることすら叶わない。


 ブルートはトウヤに追撃を加える価値すらないと判断したのか、再びガンツへと向き直った。そして、周囲で震えている何百人もの囚人たちに向けて、朗々とその声を響かせた。


「全員、耳を澄ましてよく聞け! そして、この男が死ぬのを一瞬たりとも目を逸らさずに監視せよ! だが、これは看守長直属の極秘処刑プロトコルだ。私の手元の作業(支配者の印章の操作)を覗き見ることは、帝国法における『機密漏洩』とみなし、即座に死罪とする。繰り返す! 全員、この男が死ぬのを監視せよ。ただし、私の作業を覗き見るな!」


 看守の命令文が、鉱区の冷たい壁に反響する。


 その瞬間、トウヤの左目が、不気味な灰色の輝きを放った。彼の脳内で、クロノスから授かった『深淵の講義録』の数式が、そしてロスト・レキシコンの翻訳回路が、凄まじい速度で稼働を始めたのだ。


(視える……!)


 トウヤが左目を開くと、退色した世界の裏側から、青い魔術回路の「糸」が剥き出しになって現れた。ブルートの持つ『支配者の印章』から伸びる太い赤い魔力線が、ガンツの『絶対服従の首輪』へと繋がり、処刑の命令コマンドを物理的に流し込んでいるのが視える。


 そして、トウヤの論理脳は、ブルートが今口にした「命令文」のなかに、致命的な、あまりにも滑稽な『論理的自己矛盾(バグ)』を検出した。


(全員に「処刑を監視せよ」と命じながら、同時に「私の作業を覗き見るな」と制限した……!)


 ブルートが行っている「処刑の作業」とは、まさにガンツを処刑することそのものである。ガンツが死ぬ様子を「監視」するためには、ブルートが印章を操作し、首輪が作動しているその「作業現場」を視界に収めなければ物理的に不可能だ。


 つまり、ブルートの命令は、システムに対して【条件A:処刑プロセスを視覚的に監視せよ】と【条件B:処刑プロセスを視覚的に監視してはならない】という、同時に成立し得ない二つの排他的な条件を、同一の対象(囚人全員)に対して強制していることになる。


「……デバッグを開始する」


 トウヤは震える手で、懐から『鉄格子から削り出した鉄筆』を取り出した。右手の火傷が悲鳴を上げたが、無視した。彼は自身の傷口から流れる血を鉄筆の先に浸し、空中に浮かぶ青い魔術回路の糸――ブルートの命令系統の接続点に向けて、一気にハッキングコードを描き始めた。


 ロスト・レキシコンの文法が、トウヤの鉄筆を通じて空中に青白いルーンの文字を紡ぎ出す。


【論理変調インジェクション:IF [監視] == TRUE AND [覗き見] == FALSE THEN CONTRACT = INVALID.】

(もし、監視を行うことと、覗き見を行わないことが同時に要求されるならば、その契約は自己破綻する)


 トウヤはさらに、クロノスの講義録から得た最悪のシステムエラーコードを書き加えた。


【ERROR_HANDLER: TARGET = ISSUER】

(契約に自己矛盾が発生した場合、そのペナルティの対象を、執行者自身へと転嫁する)


「何をしている、No.108!」


 ブルートがトウヤの奇妙な動きに気づき、鋭い眼光を向けた。しかし、すでに遅かった。トウヤは血に濡れた鉄筆を、空中に描いた青いルーンの核へと物理的に突き刺した。


「ブルート……あんたの命令は、論理的に破綻している」


 トウヤの静かな声が、鉱区の静寂を切り裂いた。


「なんだと……?」


「あんたは全員に『処刑を監視せよ』と命じた。だが同時に『私の作業を覗き見るな』と制限した。処刑とはあんたの作業そのものだ。監視することと、覗き見ないことは、論理的に100%矛盾している! これは帝国契約法における『論理矛盾自己崩壊則』の絶対的な適用対象だ!」


 瞬間、ガンツの首輪とブルートの印章を繋いでいた赤い魔力線が、激しい青白い光を放って狂ったように振動し始めた。システムが「どちらの命令を優先すべきか」の無限ループ(ビジー状態)に陥り、処理の限界を超えたのだ。


 ピシッ、ピシピシピシッ!


 大気中に、ガラスがひび割れるような不気味な不協和音が響き渡る。首輪の安全弁がエラーを検知し、強制執行のプロトコルが自己崩壊を開始した。


「な、何が起きている!? 首輪の魔力が……逆流している!?」


 ブルートが驚愕に顔を歪めた。彼の持つ『支配者の印章』が、制御を失った大量の魔力を浴びて真っ赤に熱を帯び始める。トウヤが仕掛けたエラーハンドラーが、契約のペナルティを執行者であるブルート自身へと強制転嫁したのだ。


「『矛盾の露呈「パラドックス・アウト」』――あんたの犯した言葉の罪の代償を、あんた自身の魔力で支払ってもらう」


 トウヤが鉄筆を引き抜いた瞬間、ガンツの首輪から激しい青白い電撃が弾け飛んだ。しかし、その電撃はガンツを灼くことはなく、赤い魔力線を逆流して、ブルートの持つ『支配者の印章』へと一直線に駆け抜けた。


 ドォォォン!


 凄まじい魔力爆発が、ブルートの手元で発生した。彼の『支配者の印章』は一瞬にして粉々に砕け散り、その破片がブルートの鋼鉄の皮膚を切り裂いた。それだけではない。印章を通じて、監獄の魔力炉から供給されていた膨大な処刑エネルギーが、ブルート自身の肉体へと強制逆流(バックラッシュ)したのだ。


「ぐあああああああ!」


 ブルートが絶叫した。彼の自慢の『絶対鉄鋼化』された皮膚が、内側から膨れ上がる魔力の暴走に耐えかねて、ピシピシと音を立てて剥がれ落ちていく。鋼鉄の質量が彼自身の肉体を圧迫し、ブルートはその巨躯を支えきれずに、泥水の中へと激しく膝を突いた。


「お、の、れ……無名の家畜が、私に何をした……!」


 ブルートは口から鉄の混じった血を吐きながら、トウヤを睨みつけた。しかし、彼の魔力回路は完全にショートしており、立ち上がることすらできない。周囲の囚人たちは、絶対的な権力者であった看守が、名無しの少年の言葉一つで自滅した光景を、息を呑んで見つめていた。


「はぁ、はぁ……っ」


 トウヤは鉄筆を落とし、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。右手の火傷は肉が爆発したように赤く腫れ上がり、脳髄は割れるような偏頭痛に襲われている。今回のハッキングの代償として、彼の脳内からまた一つ、大切な何かが消え去っていくのを感じた。だが、ガンツの首輪の赤い光は完全に消失し、静かにその機能を停止していた。


 チコが真っ先に駆け寄り、動けないガンツの身体を抱き起こした。「ガンツ! 息をしてる……! トウヤ、ガンツを救ってくれたんだね!」


 ガンツは薄く目を開け、信じられないものを見るようにトウヤを見つめた。その寡黙な男の瞳に、言葉にならない絶対的な忠誠と感謝の光が宿るのを、トウヤは確かに視認した。


 だが、勝利の余韻に浸る時間はなかった。鉱区の天井に設置された『監視の眼球』の魔導レンズが、異常な点滅を開始したのだ。システムに重大なエラーログが記録された証拠だった。


「……ここを、離れるぞ。看守長に気づかれる前に」


 トウヤは焦げた右手を抱え、チコとガンツに向けて静かに告げた。彼らの、命を賭けた脱獄劇の歯車が、今、完全に回り始めたのだ。

HẾT CHƯƠNG

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