折れた剣と真名の共鳴
ウーーー、ウーーー、ウーーー――!
監視塔「鷹の目」の最上階に、鼓膜を鋭く引き裂く非常警報が鳴り響いていた。赤黒い警告の魔導光が回転するたびに、狭い石造りの通路が血のような色に染まり、また影に沈む。背後の制御盤には、トウヤが鉄筆で刻み込んだ「光の反射契約」の書き換え式が青白く脈動していたが、監獄全体のセキュリティシステムが強制的に警戒レベルを「特級」に引き上げたため、ハッキングの維持コードが激しいノイズに晒されている。
「はぁ、はぁ……っ、く!」
トウヤは胸を押さえ、その場に膝を突きかけた。脳髄を内側から焼き焦がすような激痛。左目の『真名視(アイズ・オブ・ロスト)』を限界まで稼働させ、最強の門番ブルートの契約を破壊した代償は、彼の肉体に牙を剥いていた。ふと視線を落とせば、自身の左手の指先が、かすんだように半透明化している。光に透かすと、皮膚の奥に蠢く微細な魔術文字の羅列が見えた。存在の透明度を示す『ロスト・カウンター』が、確実に十五パーセントを超えて進行している証拠だった。それに比例するように、また一つ、子供の頃の何気ない記憶――誰かと笑いながらパンを分け合った情景が、インクが水に溶けるように脳内から消え去っていく。
「兄貴! しっかりしてくれ! 下から看守長直属の執行官部隊が上がってきてる! このままだと袋の小路だ!」
チコが悲鳴のような声を上げながら、ぐったりとした大柄な身体を必死に支えていた。ブルートの圧倒的な物理暴力からトウヤを守るため、身を挺して盾となったガンツだ。彼の頑強な防護板は完全に粉砕され、両腕と肋骨は激しく骨折している。息を吸うたびに苦しげな喘鳴が漏れ、首元の『絶対服従の首輪』が一時停止状態から再び赤く明滅し始めていた。バルザックが親契約を強制的に再起動しようとしているのだ。時間がなかった。
「……隣の特別監房へ退避する。チコ、ガンツを運ぶのを手伝え」
トウヤは痛む頭を振り、立ち上がった。オウルから渡された古い設計図の写しが、この監視塔の最上階の奥に、通常の囚人とは隔離された「特級真名保有者」の独房が存在することを示していた。そこへ続く重厚な黒鋼の鉄格子の前へと辿り着いた瞬間、トウヤの左目が、鉄格子を覆う禍々しい赤い魔力回路を捉えた。
【防衛定義:この隔壁は看守長の許可なき者の通過を拒絶する。違背者には『存在消滅』のペナルティを執行する】
「チコ、下がれ」
トウヤは懐から、青く美しく発光する『ロジック・ブルー』のインク瓶を取り出し、鉄格子の破片から削り出した無骨な『鉄筆』の先に浸した。左手の甲から流れる自身の血を魔力触媒として鉄筆に馴染ませ、鉄格子の表面へと強く押し当てる。
「物質の真名を一時的に置換する。……『存在定義の上書き「オーバーライト」』」
トウヤの魔力が鉄筆を通じて一気に放出された。鉄格子の分子構造を定義する「青い糸」が、トウヤの書き換えたルーンによって物理的に上書きされていく。頑強な黒鋼の格子が、まるで熱せられた粘土のようにドロりと柔らかくなり、自重で崩れ落ちて隙間を作り出した。物理的な性質を完全に変化させるハッキング。しかし、その瞬間、トウヤは全身の筋肉が激しく痙攣するほどの虚脱感に襲われ、膝を突いた。
「何者だ」
粘土と化した鉄格子の向こう側、暗い監房の奥から、冷徹で刃物のように鋭い声が響いた。
そこにいたのは、黒髪を後ろで無造作に束ねた十八歳ほどの青年だった。囚人服の袖を千切り、引き締まった両腕を露出させている。その眼光は、監獄の闇に慣れきった獣のように鋭く、トウヤたちを警戒するように睨みつけていた。彼の傍らには、刃が半ばから無惨に折れ曲がった一本の刀――『名刀・黒鋼』が置かれており、その刀身から青年の胸元にかけて、バルザックの署名が刻まれた赤黒い「従属の呪いの鎖」が、物理的な魔力の糸となって幾重にも巻き付いていた。彼こそが、帝国剣術の若き天才でありながら、貴族の不興を買って真名を奪われた青年、シンだった。
「僕はNo.108。……君を助けに来たわけじゃない。生き延びるために、君の武力が必要だ、シン」
トウヤは息を整えながら、まっすぐにシンの瞳を見据えた。
「僕の武力だと? ふん、真名を奪われ、愛刀も折れ、バルザックの呪縛に魂まで縛られた俺に、何ができる。無名者の小賢しい詐術など、執行官の鎖の前には無力だ」
シンは冷たく言い放ち、折れた刀を愛おしそうに撫でた。その言葉の裏にある、圧倒的な絶望と、剣士としての誇りの傷跡を、トウヤの左目は見逃さなかった。
その時、監視塔の入り口の階段から、ジャラジャラと金属が擦れ合う不気味な音が響き渡った。通路の奥から現れたのは、全身に無数の細い魔導の鎖を巻き付けた、冷徹で影の薄い看守――執行官チェインだった。彼の背後には、鉄仮面を被った帝国魔導兵たちが一糸乱れぬ動作で控えている。
「侵入者を検知。これより、看守長の命令に基づき、すべての違法契約者(バグ)の強制排除を執行する」
チェインがその青白い手を掲げた瞬間、彼の身体から放たれた無数の鎖が、生き物のようにのたうち回りながら空間を埋め尽くした。それは対象の魔力回路を物理的に縛り上げ、魔術発動を完全に封じる『魔力縛りの鎖(スペル・チェイン)』だった。
「チコ、ガンツを守れ! ……『論理防御「デバッグ・シールド」』!」
トウヤは鉄筆を空中に振りかざし、青い魔術文字で構成された半透明のドームを展開した。チェインの放った鎖がシールドの表面に激突し、激しい金属音と火花を散らす。しかし、チェインの魔力はブルートのそれよりも遥かに緻密で、シールドの「定義」を内側から侵食し始めていた。多重の鎖がシールドを締め付けるたび、トウヤの脳細胞に強烈な過負荷が走り、視界が急速に狭まっていく。
「くっ、頭が……!」
「言ったはずだ。帝国の法規に逆らうバグは、その存在ごと消去されるのみだと」
チェインの冷酷な声と共に、鎖の圧力が増していく。シールドの表面に、ガラスが割れるような微細なひびが入り始めた。あと数十秒で、シールドは完全に粉砕され、トウヤたちの魔力は根こそぎ縛り上げられるだろう。
(いや、まだ死角はある。シンの剣を縛る従属の呪いは、バルザックの『支配者の印章』を親契約としている。ならば、その契約の『主体の定義』を書き換えれば――)
トウヤは激しい偏頭痛に耐えながら、シンの折れた愛刀『黒鋼』に視線を走らせた。刀身に巻き付く赤黒い呪いの糸。その最深部に刻まれたバルザックの署名コードが、左目のモノクルを通じて青いデバッグデータとして浮かび上がる。
「シン、君の剣の真名を僕に預けろ。……『真名共鳴「トレース・エコー」』!」
トウヤは自身の右手を、シンの折れた『黒鋼』の刃へと物理的に伸ばした。シンが驚愕に目を見開く中、トウヤの指先が刃に触れた瞬間、シンの魂の波動がトウヤの脳内へと直接同期された。激しい電流のような衝撃と共に、トウヤの脳裏に、かつてシンが監獄へ送られる際に見た「監獄外郭の絶壁の構造」の立体的な記憶が、青い光の映像として超高速でダウンロードされていく。
「何をする、俺の剣に触るな!」
「黙っていろ! ……ハッキングを開始する!」
トウヤは鉄筆をシンの剣の呪いの接続点に突き刺し、ロジック・ブルーのインクを注ぎ込んだ。彼の血液がインクと混ざり合い、赤黒い呪いの鎖の表面を青い魔術文字が侵食していく。トウヤは、バルザックの「真名支配」を親契約とする従属コードに対し、極限の速度で書き換え式を構築していった。
「仮説:この剣の真名の所有権は、一時的に『トウヤの展開した架空の偽名』へと転移される。よって、バルザックの支配コードは『契約主体の不一致』により、その法的拘束力を完全に喪失する!」
パキィィィン――!
監視塔の最上階に、何かが劇的に破綻したような、澄んだ金属音が響き渡った。シンの剣に巻き付いていた赤黒い呪いの鎖が、青い文字の炎を上げて一瞬にして燃え上がり、煤となって霧散していく。それと同時に、シンの胸元を縛っていた呪縛の糸も、跡形もなく消え去った。
「……呪いが、消えた……?」
シンは自身の両手を見つめ、信じられないというように呟いた。彼の体内を巡る魔力循環が、数年ぶりに本来の濁りのない、圧倒的な激流となって蘇り始める。
「シン! 君の剣の真名は、今、帝国の支配から解放された! その折れた刃で、世界の嘘を斬り裂いてみせろ!」
トウヤが叫んだ瞬間、チェインの『魔力縛りの鎖』がデバッグ・シールドを完全に粉砕し、トウヤの肉体へと迫っていた。死の鎖が彼の皮膚に触れる、まさにそのコンマ数秒前――。
「――『無名剣・瞬塵』」
シンの姿が消えた。
いや、あまりの神速の踏み込みに、視覚が追いつかなかったのだ。シンは折れた愛刀『黒鋼』を引き抜き、一歩の踏み込みでトウヤの前に滑り込んでいた。彼の両腕から放たれた圧倒的な剣気が、折れた刃の先で青白い光の刃となって実体化する。
キィィィン!
一閃。詠唱も魔術式もなく、ただ純粋な闘気と剣技のみが凝縮された一撃が放たれた。空間を埋め尽くしていたチェインの魔導の鎖が、その魔術回路ごと、物理的に一瞬で叩き斬られ、光の塵となって四散していく。
「なっ……魔術の鎖を、物理的に斬っただと!?」
チェインが初めて、その冷徹な顔を驚愕に歪めて後退した。シンの放った剣気は、鎖を斬るだけに留まらず、チェインの周囲に展開されていた多重言語障壁をも物理的に切り裂き、彼の胸元の防具に深い一文字の傷を刻み込んでいた。チェインの身体が血を吹き出しながら、背後の階段へと転がり落ちていく。
「……やるじゃないか、名無しのハッカー」
シンは折れた『黒鋼』を静かに鞘へと収め、不敵な笑みを浮かべてトウヤを振り返った。その瞳には、先ほどまでの絶望は消え去り、好敵手としての強い信頼の光が宿っていた。
しかし、勝利の余韻に浸る時間は与えられなかった。監視塔の外部から、監獄全体を揺るがすような地響きと、囚人たちの怒号が響いてくる。バルザックはついに、3日後の「囚人全員の処刑」の最終準備、すなわち『服従契約の強制執行』の魔力炉の火入れを開始したのだ。
「チコ、ガンツを背負え。……シン、僕たちの『最強の矛』となって、看守棟まで道を切り開いてくれ」
トウヤは左手の半透明化した指先を強く握り締め、崩壊へと向かう監獄の闇の先、バルザックの待つ看守棟を見据えた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!