失われた名無しの目覚め
重く、湿った暗闇。肺を灼くような硫黄の臭いと、微かに発光する青い魔力石の冷たい燐光。
男――トウヤが最初に感じたのは、魂の最も深い領域から強引に生命力を吸い上げられるような、圧倒的な「飢え」と、首を締め付ける冷たい鉄の感触だった。
「手を休めるな。今日の労働ノルマを達成せぬ者は、帝国法第百八条に基づき『不服従』とみなす。執行されるペナルティは首輪の最大出力による電気ショックだ」
頭上から響くのは、黒鋼の拡声器を通した看守の冷酷な合成音声。ここは帝国魔導特区「グラントリア」の最下層に位置する、一度入れば二度と光を見ることは叶わないとされる黒鉄の檻――魔導監獄タタロス。『第四採掘鉱区』と呼ばれるこの暗黒の巨大地下空洞が、トウヤが目覚めた地獄の舞台だった。
(俺は……誰だ……?)
頭を割るような激痛が脳髄を駆け抜ける。自分の本名さえ思い出せない。過去の記憶はすべて濃い霧の向こう側に消え去り、かろうじて残されているのは、鎖骨の間に漆黒の魔導インクで刻まれた「無名(アノニマス)」という不気味な焼き印の疼きだけ。彼はこの監獄において、戸籍も存在の権利すらも剥奪された『第一階梯:無名被支配層(アノニマス)』と呼ばれる奴隷に過ぎなかった。
トウヤが視界の端に意識を集中させると、灰色の虚空に不気味な青白い数字が浮かび上がった。
【ロスト・カウンター:15%】
その数値が何を意味するのか、説明されずとも彼の本能が理解していた。真名を奪われ、世界からその存在を「忘却」されかけている肉体の消滅タイマー。もしこの数値が100%に達すれば、彼の存在は世界の記述から完全に削除され、文字の塵となって虚無へと還るのだ。
「おい、トウヤ! ぼさっとするな、看守がこっちを見ているぞ!」
隣で身の丈を超える巨大なツルハシを振るう巨漢の男、ガンツが低い声で警告した。彼の頑強な首にも、トウヤと同じ『絶対服従の首輪「サブミッション・カラー」』が嵌められ、その皮膚は魔力搾取の過負荷で黒ずんでいる。
「兄貴、今日の採掘量はあと十キロ足りない……。このままじゃ、本当に首輪の棘が飛び出して、俺たちの喉を貫いちまうよ……」
すばしっこい少年囚人のチコが、怯えた瞳で天井の監視魔導レンズを見上げながら、必死に岩盤を削っている。彼らの流す汗も、削り出す魔力石「マナ・クォーツ」の輝きも、すべては首輪を通じて監獄の管理部へと吸い上げられ、帝国の魔力源として消費されていた。
トウヤは重いツルハシを持ち上げ、青く輝く硬質な岩盤へと打ち下ろした。火花が散り、強烈な衝撃が両腕を伝って脳へ響く。首輪が彼の微かな生命力を容赦なく吸い上げるたび、全身の筋肉が鉛のように重くなっていく。抗うことのできない支配のシステム。ただ、肉体を機械のように動かすことだけが、生存のための唯一の選択肢だった。
その時、足元から不気味な、地響きのような唸りが立ち上った。
ズズズ……ゴゴゴゴゴ!
地鳴りは一瞬にして、鼓膜を破らんばかりの大音響へと変わった。周囲の岩盤に走っていた青い魔力脈が一斉に異常な赤色へと変色し、激しく明滅し始める。天井から、人間を容易に圧殺するサイズの岩塊が次々と降り注ぎ、鉱区を支えていた木製の支柱が悲鳴を上げて折れ曲がった。
「地すべりだ! 鉱区が崩壊するぞ!」
誰かの悲鳴を皮切りに、鉱区全体がパニックに陥った。落盤の衝撃で粉塵が立ち込め、視界は一瞬で奪われる。
『警告。第四採掘鉱区において深刻な地脈の歪みと構造的崩壊を検知。管理部、緊急防衛プロトコルを起動します。これより、当該区域を完全閉鎖します』
冷酷なシステム音声が響くと同時に、唯一の脱出口である鋼鉄の魔導隔壁ゲートが、重々しい金属音を立てて閉まり始めた。看守たちは囚人たちを顧みず、我先にとゲートの向こう側の安全なエリアへと逃げ込んでいく。彼らにとって、囚人は代わりの利く使い捨ての生体バッテリーに過ぎないのだ。
「開けろ! まだ中に数百人も残っているんだ!」
囚人たちが閉まりゆくゲートに殺到しようとしたその瞬間、彼らの首に嵌められた「サブミッション・カラー」が一斉に禍々しい赤色に発光した。
『警告。登録労働区域からの無断離脱を検知。服従命令――その場に留まり、作業を継続せよ』
「うあああああ!」
ゲートへ向かって走っていた囚人たちが、首輪から放出された強烈な高電圧の魔力電流によって全身を硬直させ、次々と床へ崩れ落ちた。逃亡を試みること自体が、絶対的な「服従契約」への違背とみなされ、肉体的な制裁を受けるシステム。不条理なルールが、彼らの生存本能すらも縛り付けていた。
トウヤは自身の首輪に指をかけ、引き剥がそうと力任せに爪を立てた。しかし、金属に触れた瞬間、指先から血管を伝って脳を直接灼くような激痛が走った。
「がはっ……!」
喉の奥からせり上がる血の味。物理的な抵抗は首輪の自爆回路を誘発する。力ではこの支配の鎖を破ることはできない。言葉、あるいはルールに潜む「論理的なバグ」を見つけ出し、ハッキングしなければ、この地獄からは一歩も出られないのだ。しかし、記憶を失った今のトウヤには、そのための武器が何もなかった。
「トウヤ、伏せろ!」
ガンツの咆哮が響いた。トウヤの真上、天井の巨大な岩盤が、完全に自重に耐えかねて剥がれ落ちてくるのが見えた。回避は不可能な間合い。
巨漢のガンツは、落ちていた厚い黒鉄の防護板を拾い上げると、トウヤを庇うようにその身を投げ出した。自身の肉体を盾にして、落下する岩盤の軌道を遮る。
凄まじい物理的激突音。黒鉄の板は一瞬でひしゃげ、ガンツの太い腕の骨が折れる鈍い音が粉塵の中に消えた。彼は口から大量の血を吐きながらも、トウヤを押し潰そうとする数トンの岩の質量を、強靭な筋肉と執念だけで支え続けた。
「行け……トウヤ! チコを連れて、奥へ……! ここはもう、もたねえ!」
「ガンツ!」
トウヤが叫ぼうとした瞬間、彼の足元の岩盤が、魔力石の暴走による衝撃で完全に破裂した。地盤が抜け落ち、巨大な漆黒の亀裂が口を開ける。
重力がトウヤの身体を容赦なく暗黒の深淵へと引きずり落とした。チコの叫び声が遠ざかっていく。
落下しながら、トウヤの脳は驚異的な速度で演算を開始していた。ただパニックに陥って落下すれば、底にある岩塊に激突して即死する。彼は自身の「ロスト・カウンター」による肉体のかすかな透過性を利用し、落下の衝撃を最小限に抑える方法を模索した。
(重力加速を相殺する……瓦礫の斜面に対して平行に身体を滑り込ませ、落下のベクトルを滑走のエネルギーへ変換する……!)
彼は空中で必死に身体を反転させ、崩落していく瓦礫の波の傾斜に沿うように姿勢を調整した。激しい砂煙と岩の破片が全身を打ち据え、皮膚を引き裂く。
摩擦熱が全身を焼き、視界が完全に暗黒に包まれた。
どれほどの時間が経っただろうか。耳を劈く地鳴りも、囚人たちの絶叫も、すべてが嘘のように遠ざかっていった。
トウヤが薄れゆく意識の中で目を開けると、そこは監獄の喧騒から完全に遮断された、冷たい静寂に満ちた未知の地下空間だった。息を吸うと、埃と古い紙の匂いが鼻腔を満たす。
崩落した瓦礫の斜面の底、冷たい石床の上。立ち込める粉塵の向こう側に、青白く蠢く謎の碑文が刻まれた巨石と、その前に横たわる、埃を被った古い革装の書物が、まるで彼を呼ぶように怪しく発光していた。
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