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狭小ダクトの死闘

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「警告:空調システム内への毒性データ注入を検知。酸素濃度低下。致死性ガス拡散まで、残り十分」


 血の涙が頬を伝うモノクロームの視界の中で、赤いシステムログだけが鮮明に明滅していた。天井の通気口から噴き出し始めた薄緑色のガスが、重厚なVIPラウンジの天井を這うように広がっていく。


「魁人、あれは……っ!」


 ソファに横たわる桐生剛が、脇腹の傷を押さえながら喘ぐように声を上げた。引きちぎられた学ランの布地はすでに真っ赤に染まり、彼の生体ステータスは危険域に達している。その傍らでは、橘美沙が知的な眼鏡の奥の瞳を鋭く見開き、天井のダクトを見上げていた。


「バイパーの仕業ね。人質全員をデータごと窒息死させる気だわ」


 美沙の声は冷徹だったが、微かに震えていた。ギルドの役員たちや金城のような富裕層は、すでに床に這いつくばり、浅い呼吸を繰り返しながら無様に泣き叫んでいる。彼ら「ゲスト・ユーザー」には、世界の物理法則を書き換える権限などない。ガスが肺に達すれば、ただその生体コードを強制的に書き換えられ、消滅するのを待つだけだ。


(直接、バイパーをハックすることはできない。距離が離れすぎている……)


 魁人は感覚の消え去った指先を凝視した。味覚は失われ、口の中には砂の味が残るのみ。左目の視界は色彩を失い、右目の「グリッチ・アイ」は過負荷による激痛とノイズで使い物にならない。指先には大理石の床の冷たさすら伝わらず、グローブの青い発光だけが、そこに手が存在することを示していた。


「アタッシュ、空調システムの構成データを展開しろ」


「了解」


 脳内に常駐する戦術支援AI「アタッシュ」の無機質な音声が響き、網膜にゼニス・ビルの空調トポロジーが投影される。ペントハウスの空気循環を一手に担っているのは、天井裏を貫く巨大な金属製空調ファン「デストロイヤー」だ。バイパーは、そのファンを逆回転させ、外部の排気口からではなく、このラウンジに向けて毒ガスを強制的に送り込んでいる。


「ダクトに入る」


 魁人は短く言った。


「正気なの!? あの狭いダクトの中は、すでにガスが充満しているはずよ。生身の身体で入れば、ハッキングを完了する前にあなたの肉体が持たない!」


 美沙が制止するように叫んだが、魁人は首を振った。彼には時間がなかった。舞の生体維持装置の残り寿命が削られていく。ここで人質全員が消去されれば、舞を救うための「S級バグ修復パッチ」を手に入れる機会も永久に失われる。


「剛を頼みます」


 魁人はそれだけ言い残すと、ラウンジの隅にある点検口のカバーへと手を伸ばした。触覚を失った指先は、鉄の冷たさも、ネジの感触も捉えられない。ただ、グローブの光センサーが位置を補正し、力任せにカバーを引き剥がした。バキィッ、という鈍い金属音が響き、幅五十センチほどの暗い闇の穴が姿を現す。


 魁人はその狭小なダクトの中へと、自らの身体を滑り込ませた。


 ――そこは、窒息と金属の死の檻だった。


 人が一人、やっと四つん這いになれるだけの極限の狭さ。四方を冷たい亜鉛メッキ鋼板の壁に囲まれ、肩をすぼめなければ前進することすらできない。停電したビルの中、ダクトの内部は完全な暗闇であり、魁人のモノクロームの左目には、ただただどこまでも続く四角い金属の筒しか見えなかった。


 ゴオオオ、というデストロイヤーの不気味な回転音が、金属壁を伝って鼓膜を直接震わせる。


(狭い……。空気が、薄い……)


 ダクト内には、すでに薄緑色の毒ガスが逆流し始めていた。吸い込んだ瞬間、魁人の喉と肺が焼けるような激痛に襲われた。激しい咳が込み上げるが、狭いダクト内では身体を丸めることすらできない。金属壁に背中と胸を擦りつけながら、魁人は必死に奥へと這い進んだ。


`Warning: Physical Buffer Limit decreasing rapidly.`

`Current Biometric Integrity: 88%`


 肺細胞が、ガスの持つ破壊コードによってモザイク状に分解され始めている。魁人の肉体は、ただの十七歳の高校生だ。いくら「オリジン・キー」で世界のコードを書き換えようとも、肉体のバッファ限界を超えれば、ただ死ぬ。物理ハックは、生身の肉体のダメージを自動的に無効化する魔法ではないのだ。


(このダクトの壁を消去して、ショートカットできないか……?)


 魁人は、這うのを一時停止し、目の前の厚い金属壁に「グリッチ・アイ」を向けようとした。だが、視覚ノイズが激しく、壁のオブジェクトIDがブレて定まらない。それでも強引に、タクティカル・キーボード・グローブを嵌めた指先を胸元で動かし、空中キーボードを展開した。


`Object_Delete(target_id = duct_wall_09);`


 文字を入力した瞬間、脳の奥にハンマーで殴られたような衝撃が走った。アタッシュの警告ログが赤く明滅する。


`Error: Target mass exceeds current processing threshold. Out of Memory Risk.`

`System: RAM usage spike detected (92%). Cancel input immediately.`


「がはっ……!」


 魁人は口から血を吐き出し、入力を強制キャンセルした。ダクト全体の金属壁は、ビルの構造物(質量データ)と強固に連結している。これを部分的に消去しようとすれば、ビル全体の質量計算を脳内で処理せねばならず、一瞬で脳内メモリ(RAM)がスタックオーバーフローを起こして脳死する。力技での脱出は不可能。やはり、空調ファンそのものの回転アルゴリズムを書き換えるしかない。


 魁人は再び前進を開始した。肘と膝を擦りむき、学ランが破れて金属の角に皮膚が裂かれる。だが、痛覚すらも麻痺しつつある脳は、その痛みをただの「エラー信号」としてしか認識していなかった。


 薄緑色のガスが、さらに濃くなっていく。魁人は激しく咳き込みながら、ガスの化学組成データを網膜にダンプした。


`Chemical_Data: Formula_Gas_v0.4_Downgradè


 その文字列を見た瞬間、魁人の脳裏に、かつて蔵原蓮から見せられた古いログの記憶がフラッシュバックした。十七年前、最高管理者ギルドが反抗的な人類を街ごと消去した「大崩壊」――そこで使用された人類データ消去用プログラム「フォーマット・ガス」。このガスは、そのプロトタイプのダウングレード版だったのだ。ギルドは、十七年前の虐殺の技術を、未だにこのビルの防衛システムとして維持している。


(やはり、ギルドは……あの志摩宗一は、人間をただのデータとしか思っていない。俺も、舞も、剛も……!)


 激しい怒りが、消えかけていた魁人の意識を強引につなぎ止めた。触覚を失った指先が、怒りと窒息の苦しみで激しく震える。魁人はキーボードを見ることなく、指先の位置情報(座標)の感覚だけでコードを打ち込む「ブラインドタイピング」を開始した。


`connect target = air_conditioning_main_node;`

`System: Connecting to Zenith_Air_Control...`


「警告:脳波パターン極めて不安定。物理バッファの崩壊を検知」


 アタッシュの声が、遠くのノイズのように聞こえる。肺が、酸素の代わりに毒性データを吸収し、全身の血管が青いバイナリコードのように不気味に明滅し始めていた。心臓が太鼓のように激しく鼓動し、内臓にかかる負荷が限界に達しつつある。


 魁人は這いつくばったまま、頭をダクトの底に押しつけ、ただ指先だけを動かした。モノクロームの視界の隅で、接続プロセスのパーセンテージが、遅延(レイテンシ)を伴いながらゆっくりと上昇していく。


`Connection: 45%... 62%... 85%...`


 ついに、ダクトの最奥に設置された「デストロイヤー」のメイン制御ノードへと到達した。だが、そこにアクセスを試みた瞬間、魁人の網膜に冷酷なセキュリティプロテクトの障壁が立ち塞がった。


`Access Denied: Protected by Viper_Security_Lock_Class_3.`


 バイパーが施した、侵入者を脳死へ導くための強固な論理ロック。そのロックを解除するためのコードを構築しようとした瞬間、魁人の肺が激しい痙攣を起こした。喉から血が噴き出し、ダクトの底面を黒く濡らす。


「ごほっ、ごほっ……! はぁ、はぁ……っ」


 空気が吸えない。肺細胞のデータ破損が、ついにクリティカルな領域へと達していた。右目のグリッチ・アイのノイズが左目にも侵食し、視界のモノクロームすらも、徐々に真っ赤な警告ログに埋め尽くされていく。


`Warning: Biometric data corrupted. Physical Buffer remaining 45%.`

`System: Brain activity decreasing. Consciousness freeze imminent.`


 意識が遠のいていく。感覚を失った指先が、空中キーボードの光から静かに滑り落ちそうになった。真っ暗なダクトの奥から、冷たい死の沈黙が魁人を包み込もうとしていた――。

HẾT CHƯƠNG

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