光の屈折をバグらせろ
「サンドボックス隔離、残り一・八秒」の警告ログが、血の混じった左目の網膜に赤く明滅していた。
完全な暗闇と化したVIPラウンジ。魁人の周囲一メートルを展開する青いハニカム構造のデータシールド「サンドボックス・シールド」の表面を、姿なき暗殺者・シャドウの持つ高周波ブレード「コード・スライサー」が激しく削り取っていく。金属の擦れ合う音ではない。論理と論理が衝突し、存在を否定し合う凄まじい電子的ノイズの火花が、暗闇の中に青と赤の不気味な残光を散らしていた。
キィィィィィン――!!!
鼓膜を突き刺す高周波の駆動音が、シールドの崩壊が近いことを告げている。シールドの維持だけで、魁人の脳内メモリ(RAM)の使用率は八十二パーセントに達していた。脳細胞が急激に熱を帯び、首元の生体接続ポートに挿入された「オリジン・キー」が物理的に異常な高熱を放って皮膚を焼き焦がす。だが、魁人の指先には、その熱さすら感じ取る「触覚」が残っていなかった。
(指の感覚がない……。キーを叩く感触も、自分の肉体の境界線もわからない)
魁人は歯を食いしばり、感覚の消え去った両手を空中へと突き出した。タクティカル・キーボード・グローブの指先が、暗闇の中でかすかに青く発光している。網膜に投影される青い仮想キーボードの輝きだけが、彼の指がそこに存在していることを証明していた。触覚が消えても、視覚的なフィードバックがあればコードは打ち込める。魁人は冷徹に、自らの思考を再び論理の鎖で縛り上げた。
「無駄な抵抗だ、バグの申し子。その障壁が消えれば、お前の首はデータごと両断される」
シャドウの冷酷な声が、暗闇のどこかから響く。光学迷彩「ステルスコード」によって空間の屈折率を書き換え、完全に姿を消した敵の位置は、ノイズにまみれた右目の「グリッチ・アイ」でも捉えきれない。焦って敵の座標を指定するハッキングを行えば、前話のように「存在しないデータ(Null)」をターゲットにしてしまい、ヌルポインタ例外が暴発して脳に致命的なダメージを受けることになる。
(シールド崩壊まで、残り一・二秒。敵を直接ハックするのは不可能だ。なら――)
魁人は左目の視覚を、グローブの拡張スロットに装着された「橘美沙のIDリング」へと向けた。リングが放つ黄金の光。それはメガコーポの取締役が持つ「Level 6」の制限付きアドミン権限のエミュレートが維持されている証だった。これがあれば、ペントハウス内の一般インフラを物理的に制御するシステムへ、特権割り込みハックを仕掛けることができる。
(狙うのは、シャドウじゃない。この空間の『照明インフラ』だ!)
魁人の指先が、空中キーボードの上で残像を描く。触覚がない。キーを叩く音すら聞こえない。それでも、網膜に映るキーの沈み込みと、文字の羅列を視覚だけで確認しながら、神速のタイピングを貫く。一文字のミスも許されない極限のデバッグが始まった。
`override target = penthouse_lux_system;`
`penthouse_lux_system.authority = Level_6_Misa;`
「コード書き換え、割り込み成功……!」
魁人の網膜に、ペントハウスの調光システムを制御するDMXプロトコルの構成ツリーが展開される。主電源は落ちているが、非常用のローカルバッファ電力はまだ生きている。魁人は、照明の発光周波数を限界突破させる「過負荷スクリプト」をコンパイルし、実行キーを叩いた。
`Strobe_Lux(frequency=100Hz, intensity=MAX);`
シールドの残り時間、〇・一秒。
シャドウがブレードの出力を最大に引き上げ、青いシールドがガラスのように粉々に砕け散った。赤黒いノイズを纏った刃先が、魁人の無防備な首筋へと肉薄する――。
その瞬間、ラウンジ全体の天井と壁面に埋め込まれた数千個のLEDホログラム照明が、爆音のような起動音と共に一斉に輝き出した。
眩いばかりの純白の閃光。それが一秒間に百回という、人間の知覚限界を超えた超高速でストロボ明滅を開始したのだ。空間全体が、白と黒の極限のコントラストで激しく歪み始める。
「ぐ、あああああっ!?」
暗闇の中から、シャドウの悲鳴が上がった。彼の装着していた暗視ゴーグルは、急激な光量の変化に対応できず、過負荷によって一瞬で焼き切れた。さらに致命的だったのは、シャドウの光学迷彩システムだった。周囲の光の屈折率をリアルタイムで演算・描画することで姿を消すステルススーツは、百ヘルツで明滅する超高速ストロボの光の屈折計算を処理しきれず、致命的な論理エラー(バグ)を発生させたのだ。
ストロボの光の中に、激しく明滅する青いグリッチ(ノイズ)の輪郭が浮かび上がる。それこそが、完全に姿を暴かれたシャドウの実体だった。
「見えたぞ、シャドウ」
魁人は左目を見開き、その青いグリッチの輪郭をロックオンした。彼の指先が、再び仮想キーボードを激しく叩く。魁人の指の動きに合わせて、空間に青い構文の数式がリアルタイムで描画されていく。
(まずはシャドウ自身の生体データを消去――いや、だめだ!)
一瞬、敵の肉体データを直接書き換えようとした魁人の網膜に、真っ赤な警告が弾けた。システムの「生体データ直接改変禁忌(Level 30)」に接触したのだ。安全リミッターが強制起動し、魁人の脳に強烈な拒絶の電気ショックが走る。魁人は奥歯を噛み締め、そのショックを力ずくでねじ伏せた。生体データを直接消去すれば、システム究極の防衛プログラム「マザー」の免疫システムが即座に起動し、魁人自身がこの世界から完全に消去(デリート)される。
(なら、ターゲットは奴の『武器』だ!)
魁人は右目の「グリッチ・アイ」のフォーカスを、シャドウが握る高周波ブレードへと合わせた。ブレードを覆う赤黒いノイズの最下層コードが、青い数式の羅列として視覚化される。オブジェクトIDを取得。ターゲット:`Blade_Slicer_04`。
`Object_Delete(target_id = Blade_Slicer_04);`
カチ、と魁人の頭蓋の中でエンターキーが押された。
瞬間、シャドウが振り下ろそうとしていた高周波ブレードの刃先が、激しい青いグリッチノイズ(砂嵐)に包まれた。ブレードの分子結合力をゼロに定義していた違法コードが、システムの存在定義から強制的に切り離されていく。
「な、何だと……!? 私のブレードが、消えていく……!?」
シャドウの黒いサイバーマスクの奥の瞳が、驚愕に染まった。彼の手の中で、あらゆる防弾ベストを紙のように切り裂いてきた「コード・スライサー」の刃が、音もなく光の塵となって空気中に溶けるように消滅していく。後に残されたのは、高周波の振動を失い、赤茶けた錆びた鉄くずへと変貌した、ただのブレードの柄だけだった。
武器という「存在定義」をシステムから完全に消去されたブレードは、もはやただの無機質なゴミに過ぎなかった。
「バカな……! 物理的な破壊を伴わずに、存在そのものを消去したというのか……!」
シャドウは驚愕し、手元に残った錆びた鉄くずを見つめた。ステルススーツは未だにストロボ発光の影響でエラーを吐き続け、光学迷彩の再起動は不可能だった。武器を失い、姿を完全に晒された暗殺者に、もはや魁人を襲う術は残されていなかった。
「クソッ……! 榊様、この少年は危険です……!」
シャドウは悔しげに吐き捨てると、錆びた柄を床に投げ捨て、ストロボが明滅するラウンジの暗闇の奥へと、脱兎のごとく退却していった。その足音は、先ほどまでの静かな死神のものとは程遠く、焦りに満ちて乱れていた。
敵の気配が完全に消えたことを確認した瞬間、魁人は糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
激しい呼吸と共に、魁人の胸が大きく波打つ。脳内メモリ(RAM)の空き容量は三十パーセント以下にまで低下し、脳がフリーズを起こす寸前だった。魁人はグローブの特定のキーを長押しし、頭の中で不要な戦闘ログを消去する「メモリ解放(ガベージコレクション)」を強制実行した。
`delete[] current_hacks;`
`System: Garbage Collection completed. RAM cleared to 55%.`
脳を包んでいた締め付けられるような熱が徐々に引き、魁人は大きく息を吐き出した。しかし、彼を襲ったのは、さらなる肉体の崩壊だった。
喉が焼けるように熱い。魁人は、ラウンジのテーブルの上に置かれていた、VIP用の冷え切ったグラスの水を手に取り、一気に喉へと流し込んだ。しかし、その冷たい液体が喉を通った瞬間、魁人の表情が凍りついた。
何の味もしない。
それどころか、口の中に広がったのは、まるで乾いた砂を無理やり飲み込んでいるかのような、不快で無機質な感覚だけだった。味覚の完全な喪失。物理法則を書き換える「ソースコード操作能力」の代償として、魁人の脳から人間としての感覚データが、等価交換として確実に削り取られているのだ。
さらに、魁人が左目で周囲を見渡したとき、世界から「色」が急速に失われていることに気づいた。ストロボの残像ではない。赤や青のきらびやかなペントハウスの装飾が、くすんだ灰色のモノクロームの世界へと沈んでいく。右目の「グリッチ・アイ」だけでなく、左目の視力までもが、過負荷によって深刻な低下を始めていた。
「魁人……お前、その顔……」
ソファから、剛の掠れた声が聞こえた。剛は脇腹を血で染めながら、信じられないものを見るかのように魁人を見つめていた。魁人が自らの顔に手を触れると、指先にぬるりとした液体の感触があった。右目からだけでなく、今度は左目の端からも、一筋の赤い血が静かに流れ落ちていた。
感覚を失い、視力を失い、血を流しながらも、魁人はただ静かに立ち上がった。彼を突き動かしているのは、脳の片隅に残された「舞を救う」という、消えかけることのない絶対的な数式だけだった。
そのときだった。
ペントハウス全体のスピーカーから、ジジ、と不快なノイズが響いた。
直後、天井の空調ダクトから、シューッという不気味な排気音がラウンジ内に響き渡り始めた。魁人の網膜ディスプレイに、最悪のシステムアラートが走り出す。
`Warning: Foreign chemical data injection detected in HVAC system.`
`Warning: Oxygen levels decreasing. Toxic gas detected.`
テロリストの化学工作員「バイパー」による、生体破壊毒ガスの散布。人質たちが避難しているこのエリア全体が、間もなく死のガスで満たされようとしていた――。
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