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監査官の包囲網

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硝煙と熱風が渦巻く中央回廊を、海藤魁人は這うようにして進んでいた。右の肩口には、意識を失いかけている桐生剛の重い身体がのしかかっている。剛の右脇腹からは、ガトリングガンの弾丸が抉った生々しい傷口から絶え間なく血が流れ落ち、魁人の学ランを赤黒く染めていた。


「おい、魁人……俺のことは置いて、先に行け……。足手まといになるだけだ」


 剛が掠れた声で喘ぐ。その息は白く、全身からハックの余熱による青い蒸気がかすかに立ち上っていた。


「黙ってろ、剛。お前をここに置いていけば、俺の演算の前提が崩れる。生き残る確率を最大化するルートに、お前を捨てる選択肢はない」


 魁人は冷徹な声を絞り出したが、その内実、彼の精神は限界に近い焦燥に支配されていた。口の中は、完全に乾いた砂の味しかしない。味覚の完全な喪失――質量増幅と温度上昇という高位ハックを連続実行したことによる、脳内メモリ(RAM)の「メモリリーク」がもたらした過酷な代償だった。


 さらに恐ろしいのは、脳の特定の領域が強制的にフォーマットされたかのように、妹の舞と交わした「大切な約束の場所」の記憶が、完全に消え去っていることだった。思い出すために思考を割こうとすれば、網膜ディスプレイの隅で赤いエラーログが狂ったように明滅する。魁人は自らの人間性が削られていく恐怖を冷酷な論理の仮面で押し殺し、前方の重厚な扉を見据えた。


 そこは、特権階級のVIPたちが避難しているはずの「ペントハウス・VIPラウンジ」だった。扉はチタン合金製の防爆仕様であり、ギルドの最高暗号でロックされている。


「アタッシュ、扉のセキュリティクラスをデコードしろ」


`Analyzing... Security Level: 6. Access Denied (Required Admin Token).`


 戦術アシストAI「アタッシュ」の無機質な音声が脳内に響く。ビルの防衛AI『ゼニス・ガーディアン』が起動したことで、すべての物理扉が強制ロックダウンのフェーズに移行していた。


「クソッ、正面からの論理突破には時間が足りない……!」


 背後からは、バルカンの自爆を検知したテロリストの増援部隊の足音が近づいている。魁人は首元に挿入された「オリジン・キー」の熱を直に感じながら、指先を空中へと走らせた。タクティカル・キーボード・グローブが青い光を放ち、大理石の扉の隙間に潜む「物理的な配線のバグ」をグリッチ・アイで捉える。扉の論理回路ではなく、電磁ロックの電圧供給パラメータを局所的に書き換え、強制的にショートさせる戦術をとった。


`override target = door_electro_magnet;`

`override target.voltage = 0.0;`


 カチリ、と金属が噛み合う音が響き、重厚な扉がゆっくりとスライドした。魁人は剛を引きずるようにして、ラウンジの内部へと滑り込んだ。


 ラウンジの中は、外の喧騒から遮断された静寂と、豪華な革張りソファが並ぶ絢爛な空間だった。だが、そこに避難していた富裕層やギルドの役員たちは、扉が開いた瞬間に一斉に悲鳴を上げ、部屋の隅へと逃げ惑った。


「だ、誰だ! テロリストか!?」


 恰幅の良いIT企業社長の金城が、額に脂汗を浮かべながら叫んだ。その視線は、血塗られた剛と、右目から一筋の血を流し、その目を不気味に青く発光させている魁人に注がれていた。


「静かに。テロリストの重装兵は回廊で無力化しました。ですが、ビルの自動防衛システムが暴走しています。ここに留まるのは危険です」


 魁人は剛をソファに横たえ、自身の学ランの袖を引きちぎって彼の脇腹の傷口に固く巻きつけた。剛は痛みに耐えるように奥歯を噛み締めている。


「嘘を言うな! その右目の光……世界のコードを乱すバグの申し子、テロリストと同じ違法能力者ではないか!」


 金城がさらに声を荒らげ、スマートフォンを握りしめて後ずさりする。彼の生体データは恐怖で激しく乱れており、そのノイズが魁人のグリッチ・アイに不快な歪みとして映り込んだ。


「金城、見苦しいわよ。静かになさい」


 その混乱を切り裂くように、凛とした声が響いた。ソファの中央に一人、優雅に腰掛けていた美女――橘美沙が、知的な眼鏡の奥の瞳で魁人をじっと見つめていた。彼女は大手通信企業「ネオ・エレクトロニクス」の取締役であり、ギルドの支配構造に水面下で反感を抱く良識派の役員だった。


 美沙は立ち上がり、大人の色香と圧倒的な理性を漂わせながら、魁人の前に歩み寄った。彼女の視線は、魁人の首元のオリジン・キーと、その右目に宿る青いバイナリコードに固定されている。


「ペントハウスでのあなたのハッキング、見事だったわ。質量と温度の法則を書き換えてあのバルカンを退けるなんて、普通のハッカーにできる芸当ではない。あなたが、ストリートで噂されている伝説の『ゴースト』ね?」


「……その名前に意味はありません。俺はただ、妹を救うためにここにいるだけです」


 魁人は冷淡に答えた。美沙は小さく微笑み、彼がただのテロリストではなく、明確な意志と倫理境界線を持った存在であることをその鋭い観察眼で見抜いた。


「この世界の物理法則が、ギルドによって独占された偽りのプログラムであるなら、それをハックできるあなたは、この歪んだ支配を壊す唯一の『変革の鍵』よ。……協力してあげるわ」


 美沙は人差し指に嵌めていたチタン製の指輪を外し、魁人の前に差し出した。


「これは私の役員用アクセス・IDリング。ギルドのシステムに対する『Level 6』の特権アクセス権限が与えられているわ。これがあれば、ビルの防衛AIの監視を一時的にバイパスできるはずよ」


「橘さん、正気ですか!? そんなバグのテロリストに特権IDを渡すなんて、ギルドに対する反逆行為だ!」


 金城が悲鳴のような声を上げたが、美沙はそれを冷酷な一瞥で黙らせた。


「金城、ギルドが私たち人質ごとこのビルを『消去』しようとしていることに、まだ気づかないの? 生き残るためには、この少年の論理に賭けるしかないわ」


 魁人は無言で美沙のIDリングを受け取り、タクティカル・キーボード・グローブの拡張ポートへと接続した。瞬間、オリジン・キーを通じて、美沙のLevel 6特権アクセス権限のヘッダーデータが、魁人の脳内ターミナルへと流れ込んできた。


`Identity Ring Connected. Level 6 Privilege Emulated: Tachibana_Misa.`


「感謝します、橘さん。これで――」


 魁人が言葉を終えるより早く、ラウンジの全面ガラス窓の向こう、地上二百五十メートルの虚空に、無数の不気味な赤い光点が出現した。


 ギルド防衛監査局が放った自律型暗殺兵器――「センチネルドローン」の群れだった。流線型のクロームメッキが施された機体が、夜空の月光を反射して不気味に輝いている。


「……来ましたね」


 魁人の左目が、ドローンの接近を捉えた。監査局のチーフアナリスト、五十嵐楓。彼女はメインフレームの最奥から、ペントハウス内の不自然なログの書き換えを検知し、魁人を「最悪のシステムエラー」として排除するために、この自律機群を送り込んできたのだ。


 ドガアアアアアンッ!


 ガラス窓が凄まじい音を立てて粉々に砕け散り、吹き荒れる突風と共に、三機のセンチネルドローンがラウンジ内へと突入してきた。砕けたガラスの破片がホログラム照明の光を浴びて、キラキラと死の雨のように舞い落ちる。


「警告。未登録の生体データおよびシステムエラーを検知。ギルド防衛監査局・特別排除シーケンスを開始します。人質は退避してください」


 ドローンの単眼から、血のように赤いスキャンレーザーが放たれ、室内を扇状に掃射し始めた。その光線に触れた大理石の床や壁が、システム上の「存在確率」を書き換えられるように、ジリジリと電子的ノイズを立てて微細に削られていく。


「剛、人質をソファの影に隠せ! 橘さんも下がって!」


 魁人は叫び、グローブをはめた両手を空中へと突き出した。青い仮想キーボードが激しくはためき、彼の指先が残像を描いて動き出す。


(ドローンのファイアウォールはLevel 5……! 今の俺のLevel 2権限では、直接『存在消去(Object_Delete)』を打ち込んでもシステムプロテクトに弾かれる。正面からの論理破壊は不可能だ)


 魁人の脳は、バルカン戦での消耗により、すでに激しい熱量を帯びていた。これ以上の高負荷ハックは、脳細胞の永久的な破壊を意味する。ならば、戦うのではなく――システムを「騙す」しかない。


「美沙さんのIDリングを媒介にして、俺の生体パケットを偽装する……!」


 魁人は「生体パケット偽装術」の実行プロセスを構築し始めた。自身の網膜データ、心拍数、脳波の電気信号といった生体パケット(Biometric Packet)を、美沙のLevel 6特権アクセス権のデータ構造でカプセル化し、システムに「正規のギルド役員がここにいる」と誤認させる極限の電子偽装だ。


`using Biometric_Packet_Spoofing_Protocol;`

`target = self_vitals;`

`encapsulate_with = Tachibana_Misa_Level6_Signature;`

`set_latency = 0.001ms;`


 空中キーボードを叩く魁人の指先は、すでに感覚を失いかけていた。キーを押す物理的な抵抗すら感じられない。ただ、グローブが発するかすかな振動フィードバックだけを頼りに、ブラインドタイピングで正確な引数を打ち込んでいく。


 脳の奥底が、高電圧の電流を流されたように激しく沸騰した。鼻の奥から、ツンとする鉄の匂いが立ち上る。右目から流れる血の量が増え、魁人の視界の半分が真っ赤に染まった。


「がっ、はっ……あ、あぁっ……!」


 激しい目眩と吐き気が魁人を襲う。生体データを動的に同期させるという行為は、自らの神経系をギルドの冷酷なバイナリコードに直接接続することを意味していた。魁人の生体電気信号が、美沙の固有波形へと強制的に歪められていく。


`RAM Usage: 65.0% -> 78.0%`

`Warning: Brainwave Desynchronization Risk. Cognitive collapse in 10 seconds...`


 アタッシュの警告が脳内で反響する。だが、魁人はタイピングを止めない。彼の指先が、偽装パケットの送信コマンドを実行した。


 シュウウウッ……!


 センチネルドローンの赤いスキャンレーザーが、魁人の足元から徐々に這い上がり、彼の身体をスキャンし始めた。ドローンの内部演算AIが、魁人の生体データを監査局のデータベースと照合していく。


「生体パケット、照合中……。役員、橘美沙のシグネチャを検知。権限、Level 6。……エラー、未登録バグとのパケット衝突が発生しています」


 ドローンの音声に、一瞬の論理的空白(ラグ)が生じた。魁人の偽装パケットと、彼の右目が放つ固有のグリッチ波形が、システム内部で矛盾を引き起こしていた。


(頼む……騙されてくれ……!)


 魁人は息を止め、キーボードの最後の「送信(Send)」キーを叩き込んだ。偽装された生体データが、ドローンの監査プロトコルを強制的に上書きしていく。


`Spoofing Successful. Identity Spoofed as: Tachibana_Misa.`


 ドローンの赤いスキャンレーザーが、魁人の胸元で一瞬だけ青い「承認」の光へと変化した。照準が外れ、ドローンたちの攻撃シーケンスが一時的にフリーズする。魁人はその隙を見逃さず、人質たちをラウンジの奥にある頑強な隔壁の向こうへと誘導するための「セーフパス」を確保しようとした。


 だが、その瞬間だった。


 ラウンジ全体の空気が、物理的に凍りつくような冷たいプレッシャーに包まれた。砕け散ったガラス窓の向こう、暗闇の虚空に展開していたセンチネルドローンの群れが、一斉にその単眼を「純白」から「血のような深紅」へと発光させた。


 それは、自動AIによるスキャンではなく、何者かによる「手動介入」を意味していた。


`External Override Detected. Guild Defense Audit Bureau Chief Analyst: Kaede_Igarashi.`


 網膜ディスプレイに、最悪の警告ログが明滅した。


 五十嵐楓。ギルド防衛監査局の若き天才チーフアナリスト。彼女は、ペントハウス内の不自然なログの書き換えパターンと、橘美沙のIDリングがこのエリアで使用されたという「論理的な矛盾」を、ビッグデータ解析によって瞬時にプロファイリングし、魁人の「生体パケット偽装」を完全に見抜いたのだ。


「そのタイピングの癖、そしてデータの偽装パターン……。あなたね、ペントハウスの『バグ』は。美沙様のIDを使ったところで、私のチェス盤からは逃れられないわ」


 ドローンのスピーカーから、感情を一切持たない、氷のように冷徹な少女の声が響き渡った。彼女の「パターン・アナライズ」は、魁人が次にハックする物理法則すらも予測し、その先回りを始めていた。


 センチネルドローンの一機が、魁人の右目を正確にロックオンした。その単眼から放たれた極細の赤いスキャンレーザーが、魁人の青く発光する右目の虹彩に直接突き刺さる。


 魁人の視界全体が、一瞬にして真っ赤な警告文字で埋め尽くされ、彼の脳に直接、神経を焼き切るような強烈なスキャンパケットが送り込まれた。


`Warning: Brainwave Scan initiated by Audit Bureau.`

`Warning: External intrusion into frontal lobe detected. Lockout imminent.`


「あ、がっ……あぁああああっ!」


 魁人は脳を直接掴まれたような激痛に、その場に崩れ落ちそうになった。彼の網膜ディスプレイ上で、仮想キーボードのキー配列が激しくブレて二重、三重に歪んでいく。指先が、凍りついたように動かない。五十嵐楓が仕掛けた脳波スキャンプログラムが、魁人の思考そのものを物理的に縛り上げ、ハッキング入力を完全に封じ込めようとしていた。


 スキャンレーザーの赤い光が、魁人の右目の奥の「グリッチ・アイ」を容赦なく暴き立てていく。指先は、キーボードの上で一ミリも動かすことができなかった――。

HẾT CHƯƠNG

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