限界熱量(オーバーヒート)
轟音と、大気を引き裂くような電磁ノイズが回廊を満たした。
桐生剛の「質量を十倍」に増幅された右拳が、重装歩兵バルカンの展開する電磁シールド「イージス・ウォール」へと真っ向から激突した瞬間だった。大理石の床が二人の足元からクモの巣状にひび割れ、強烈な衝撃波が同心円状に吹き荒れて周囲の壁を削り取る。剛の赤いスカジャンが圧力で激しくはためき、全身の血管から吹き出す青い蒸気が、その限界寸前の身体能力を物語っていた。
「うおおおおおっ!」
剛が歯を食いしばり、さらに拳を押し込む。魁人とのピア・ツー・ピア同期によって強制的に書き換えられた物理定数――質量増幅のエネルギーが、青い多角形の電磁バリアを激しく歪ませていく。シールドの表面には無数のエラーログのような光の亀裂が走り、過負荷を知らせる高周波の警告音が鼓膜を刺した。
「ぬうぅっ……!?」
バルカンの顔から余裕が消えた。二メートルを超える巨躯が、剛の一撃によって数センチだけ後方へと押し戻される。ハッキング電磁波を九十八%減衰させるはずのイージス・ウォールが、論理ではなく「純粋な物理質量」の暴力によって限界限界まで圧迫されていた。だが、シールドは完全には砕けない。バルカンは防弾装甲の奥で、獣のような笑みを浮かべた。
「小癪な野良犬が……! だが、シールドが破れぬ限り、お前たちの命運はここまでだ!」
バルカンは歪むシールドを強引に固定したまま、空いた右腕のガトリングガンの銃口を、至近距離にいる剛の脇腹へと向けた。銃身が再び不気味な高速回転を始める。質量強化弾「ヘビー・バレット」の第二装填が、コンマ数秒で完了しようとしていた。
「剛、下がれ!」
回廊の陰から、魁人が声を枯らして叫んだ。しかし、剛の身体は質量増幅の強烈な反動と、右拳に受けた電磁反発によって一時的に硬直している。動けない。
ガガガッ!
ゼロ距離からの掃射が放たれた。剛は本能的に身をよじったが、質量を強化された弾丸の一群が、彼の赤いスカジャンを切り裂き、右の脇腹を容赦なくかすめ飛んだ。鮮血が純白の回廊に飛び散る。
「がはっ……!」
剛は苦悶の声を上げ、床を転がった。脇腹を深く抉られ、出血が床を赤く染めていく。バルカンは冷酷にガトリングガンの照準を、倒れ伏した剛の頭部へと合わせた。
(しまずい……! 剛が死ぬ。今すぐにあのガトリングを止めなければ!)
魁人の右目の奥で、焼けるような激痛が走った。口の中は、完全に乾いた砂の味しかしない。味覚はすでに失われている。それでも、脳内の演算スレッドを限界まで回さなければ、次の瞬間には剛の肉体は塵となって消滅する。
魁人はまず、飛来する弾丸の速度を直接「ゼロ」に書き換える「速度改変(Velocity_Override)」を試みようとした。だが、ガトリングガンから放たれる弾数は毎分千発を超える。そのすべてのオブジェクトIDを個別にロックオンし、リアルタイムで速度変数を書き換えるには、現在の魁人の脳内メモリ(RAM)では一瞬でスタックオーバーフローを起こし、脳死に至る。網膜ディスプレイに走る黄色い警告文が、それを冷酷に示していた。
`Warning: Out of Memory Risk. Thread Allocation Failed.`
「クソッ……! ならば、時間を稼ぐ!」
魁人はタクティカル・キーボード・グローブを嵌めた指先を、目にも留まらぬ速度で空中へと叩きつけた。青いホログラムキーボードの光が、彼の指の動きに従って残像を描く。
`create_sandbox(kaito, radius=1.5);`
カチリ、とエンターキーを押す架空の音が響いた。魁人と剛の周囲に、一瞬だけ半透明の青いハニカム構造のデータシールドが展開される。あらゆる物理攻撃を一切通さない、三秒間だけの絶対防御空間「サンドボックス・シールド」だ。
直後、バルカンが放ったヘビー・バレットの嵐がシールドに激突した。金属が激突する音ではなく、データが消滅するような「プチプチ」という奇妙なノイズと共に、弾丸の存在定義がシールドの表面で弾き返され、虚空へと消えていく。
「何だ、この壁は……!? 物理障壁ではない、システムそのものの書き換えか!」
バルカンは驚愕し、ガトリングガンの引き金を引き続けた。シールドの維持時間は、残り二秒。そして一秒。
魁人はその極限の三秒間のうちに、右目の「グリッチ・アイ」のフォーカスをバルカンの武器へと絞り込んだ。彼の右目の虹彩が青いバイナリコードの輪となって超高速で回転し、バグ・シンクロ率が八十パーセントを超えて上昇していく。
テクスチャの裏側にある、剥き出しのシステムコードが見える。バルカンのガトリングガンの銃身、そしてその冷却水を循環させるための物理配管。
(見つけた……あそこだ。あのガトリングは、質量強化弾を撃ち出すために、銃身に異常な摩擦熱が発生している。それを抑えるための液体窒素冷却配管――そこに、物理的な排熱設計のバグ(脆弱性)がある!)
質量を十倍にした弾丸を毎分千発も撃ち出せば、通常の金属であれば一瞬で融解する。それを防いでいるのは、ギルド製の冷却システムだった。だが、その冷却水の温度定数は、外部からの論理干渉に対して「読み書き可能(Read/Write)」な簡易パラメータとして定義されていた。設計上の致命的な手抜き。ギルドの特権階級が、自らの支配領域で「ハッキングを受ける」ことを想定していなかったがゆえの、傲慢なバグだった。
サンドボックス・シールドの維持時間がゼロになり、青い光が霧散する。バルカンのガトリングガンの銃口が、再び火を噴こうとした。
「終わりだ、バグの小僧ども!」
「終わるのは、お前の方だ、バルカン」
魁人は冷徹に言い放ち、グローブの指先を限界速度で動かした。キーボードを叩く指が、完全に光の残像と化す。
`using Physical_Constant_Override_Law;`
`target = vulcan_gatling_cooling_pipe;`
`override target.temperature = 300.0;`
「温度上昇(Temp_Heat_Up)」――熱力学コードの強制書き換えを実行する。冷却配管の内部温度の変数を、一瞬にして沸点以上の「三百度」へと書き換えた。
瞬間、バルカンの両腕に抱えられたガトリングガンの冷却ダクトが、赤黒く発光した。周囲の空気が陽炎のように激しく歪み、配管内の冷却水が一瞬にして超高圧のスチームへと変貌する。
プシュウウウウウッ!
凄まじい水蒸気爆発が、ガトリングガンの心臓部で発生した。破裂した配管から噴き出した超高温の蒸気がバルカンの防弾装甲の隙間に侵入し、彼の皮膚を焼き焦がす。
「ぐああああああっ!? 熱い、何だこれは!?」
バルカンが悲鳴を上げた。だが、それだけでは終わらない。超高温のスチームによってガトリングガンの複数の銃身が物理的に歪み、薬室の給弾ルートが完全に閉塞した。にもかかわらず、バルカンの指は引き金を引き続けていた。
歪んだ銃身の中で、質量を十倍に強化された弾丸が次々と衝突し、行き場を失ってスタックする。摩擦熱とスチームの熱量が、薬室内に装填された弾薬の火薬に直接伝導した。
ドン、という鈍い予兆の音。次の瞬間――。
ドガアアアアアアアアンッ!
ガトリングガンの本体が、内側からの誘爆によって木っ端微塵に大爆発を起こした。質量強化された弾薬の爆発エネルギーは通常の十倍。凄まじい衝撃波と炎がバルカンの巨体を包み込み、彼の頑強な防弾装甲を容赦なく引き裂いていく。鉄の破片が回廊の壁に突き刺さり、バルカンの身体は血煙を上げながら後方の壁へと激しく叩きつけられた。
壁の大理石が砕け、バルカンはその場に崩れ落ちる。両腕の防護装甲は完全に吹き飛び、ガトリングガンはただの黒焦げた鉄くずと化していた。バルカンは痙攣し、やがて完全に意識を失って沈黙した。
静寂が回廊に戻る。立ち込める黒煙と火花の奥で、魁人は荒い息を吐きながら、その場に立ち尽くしていた。彼の首元に挿入された「オリジン・キー」が、物理放熱によって異様な熱を帯び、皮膚をじりじりと焼く。
脳内RAMの使用率インジケーターが、網膜ディスプレイの端で不気味に点滅していた。
`RAM Usage: 40.0% -> 65.0%`
次の瞬間、魁人の視界全体が、血のような真っ赤なエラーログによって埋め尽くされた。
`Fatal Error: Memory Leak Detected.`
`Warning: Brain Sector Fragmentation. Allocating pagefile to long-term memory...`
「がっ、あ、あぁっ……!」
魁人は激しい頭痛に襲われ、頭を抱えてその場に膝を突いた。脳の髄まで凍りつくような、冷たい痛みが精神の奥底を貫く。何かが、自分の頭の中から強制的に引き抜かれ、消去されていくような感覚。それは、データが物理的にフォーマットされるときの、冷酷な切断の痛みだった。
魁人は必死に、自分の記憶のライブラリを手繰り寄せようとした。舞。昏睡状態の、最愛の妹の顔。白いシーツに横たわる彼女の姿は、まだそこにある。だが、その輪郭の周りにあったはずの、ある「光景」が、砂の城が崩れるように音もなく崩壊し、灰色のノイズへと変わっていく。
(……約束? 俺は、舞と、何を約束したんだ……?)
去年の冬。舞がまだ元気で、アパートの窓から雪を見ていたとき。魁人は彼女の手を握り、ある約束を交わしたはずだった。舞が目覚めたら、二人で一緒に行こうと誓った、あの場所。あの温かい光に満ちた、約束の言葉。
それが、思い出せない。
どれだけ脳内のメモリーを検索しても、そこには「Null(定義不能)」の文字が冷たく表示されるだけだった。魁人の右目から、一筋の赤い血が静かに流れ落ち、彼の頬を濡らした。
「おい、魁人……! 大丈夫か!?」
脇腹を押さえ、血を流しながらも、剛が必死に魁人の肩を掴んで揺さぶった。剛の声すらも、魁人の耳には、遠い水底から響くノイズのようにしか聞こえなかった。
魁人は無表情のまま、ただ失われた記憶の虚無を見つめていた。自分が世界のコードを書き換えるたびに、自分を「海藤魁人」という人間に繋ぎ止めていた大切な何かが、システムに吸収され、消滅していく。その恐怖が、冷たい汗となって彼の背中を伝った。
そのとき、回廊の天井に設置されたスピーカーが、突如として不気味な高音の電子音を鳴らし響かせた。赤い警告灯が明滅し、ビルの非常シーケンスが強制的に上書きされていく。
`System Alert: Zenith Guardian Activated. Intruder detected as Critical Bug.`
ビルのセキュリティAI「ゼニス・ガーディアン」が、魁人の固有IPを完全にロックオンした。そして、その背後から、さらに冷徹な「意思」が、魁人たちのログを追って動き出す気配がした。
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