質量強化のカウンター
「摩擦係数=0.0」――その極限の氷上と化した厨房で、突入してきたテロリストたちが悲鳴を上げて滑走する中、海藤魁人は素早く次のコードを空中キーボードに叩き込んだ。
`override kaito.shoes.friction = 10.0;`
自身の靴底の摩擦係数のみを局所的に「10.0」に個別に書き換える。この裏技により、魁人だけは滑る大理石の上を平然と蹴り、駆け出すことができた。彼はひっくり返した金属テーブルの影から飛び出すと、滑る床の上でバランスを崩して這いつくばっているテロリストたちの間をすり抜け、桐生剛の腕を掴んだ。
「剛、俺の後に続け! お前の靴のグリップも一時的に同期させる!」
魁人は剛の靴底のオブジェクトIDを瞬時にスキャンし、同様の摩擦定数を付与した。剛は驚愕に目を見開いた。
「おい、マジかよ! 滑らねえ……! お前、本当に世界のルールを書き換えてやがるな!」
剛は赤いスカジャンの袖で、跳弾を浴びて血が滲む左腕を庇いながら、魁人の背中を追って厨房のサービス出口へと滑り込んだ。背後では、壁や調理器具に激突したテロリストたちのうめき声と、制御を失って暴発したサブマシンの銃声が虚しく響いていた。
二人が飛び出した先は、純白の壁と大理石の床がどこまでも続く「ペントハウス・中央回廊」だった。しかし、安堵の時間は一瞬で吹き飛んだ。廊下の奥から、地鳴りのような重厚な足音が響いてくる。
「ネズミどもが、よくも厨房を荒らしてくれたな」
現れたのは、身長二メートルを超える巨漢――テロリストの重装歩兵、バルカンだった。全身に重厚な防弾装甲を纏い、その両腕には、不気味な回転音を立てる巨大な軍用ガトリングガンが握られている。
バルカンは不敵に笑い、ガトリングガンのトリガーを引き絞った。
ガガガガガガガガガガガガガッ!
放たれた弾丸は、バルカンの違法コードによって「質量定数」が十倍に強化された「ヘビー・バレット」だった。一発一発が戦車の主砲並みの破壊力を持つ弾丸の嵐が、回廊の大理石の柱を紙細工のように粉砕していく。飛び散るコンクリートの破片が、魁人たちの頬を鋭く切り裂いた。
「クソッ、遮蔽物が持たねえ! あの弾、まともな質量じゃねえぞ!」
剛は魁人を庇いながら、辛うじて残っている大理石の柱の陰へと飛び込んだ。凄まじい衝撃波が空気を震わせ、背後の壁が瞬く間に蜂の巣にされていく。物理的な防護壁はすべて撃ち抜かれる。このままでは十秒もしないうちに、柱ごと肉体を消し飛ばされるのは明白だった。
魁人の右目の「グリッチ・アイ」が、青いバイナリの光を放ちながら、飛び交う弾丸の軌道データを捉える。しかし、その圧倒的な弾数と質量エネルギーの前に、個別の弾丸をハックして速度を落とすだけのスレッドの空きが魁人の脳にはなかった。無理に処理を行えば、脳細胞が沸騰し、自己消滅を招くだけだ。
剛は鋭い眼光でバルカンを睨みつけた。赤いスカジャンの下で、彼の頑強な筋肉が限界まで緊張していく。
「なら、近づいてあのデカブツを直接ぶっ飛ばすだけだ!」
剛は回廊の壁を強く蹴り、三次元的な軌道を描きながら、バルカンの死角へと跳躍した。常人離れした身体能力で弾幕をすり抜け、バルカンの頭上から拳を振り下ろす。
だが、バルカンは冷静だった。彼はガトリングガンの射撃を維持したまま、空いた左手で腕に装着された電磁シールド「イージス・ウォール」を展開した。青い多角形の電磁バリアが、バルカンの全身を包み込むように常時展開される。
「無駄だ、野良犬が!」
剛が放った渾身のパンチが、シールドの表面に激突した。
ビキィッ!
強烈な電磁反発エネルギーが剛の拳を弾き、逆に彼の右腕の骨を激しくきしませる。剛は苦悶の表情を浮かべ、床に転がった。シールドは剛の打撃を完全に無効化しただけでなく、魁人が遠隔から流し込もうとした「摩擦ゼロ」のハッキング信号すらも「九十八%」減衰させて霧散させたのだ。
バルカンは、倒れ伏した剛へとガトリングガンの銃口を向けた。ゼロ距離での質量強化掃射。引鉄が引かれれば、剛の肉体は塵も残さず消滅する。
(しまずい。電磁シールドを直接ハックするのは不可能だ。ならば――シールドの電磁エネルギーを物理的に超過させるしかない!)
魁人は決意した。剛の肉体データと、自身のオリジン・キーをピア・ツー・ピアで同期させる。それは魁人の脳に多大な処理負荷を与える、極めて危険な禁忌のプロセスだった。
魁人の指先が、空中キーボードの上を残像となって駆け巡る。青い光の軌跡が、薄暗い回廊に激しく明滅した。
`using Physical_Constant_Override_Law;`
`connect P2P_sync_target[kiryu_fist];`
`override kiryu_fist.mass_factor = 10.0;`
脳内RAMの使用率インジケーターが、限界値に向けて一気に跳ね上がった。
`RAM Usage: 20.0% -> 40.0%`
魁人の脳に、焼けるような激痛が走る。口の中が完全に砂の味へと変わる。味覚の完全な喪失。昏睡状態にある妹の舞を救うための時間が、自身の脳細胞の壊死と共に削られていく感覚。だが、魁人はその恐怖を冷徹に押し殺し、血の滲む右目でエンターキーを叩いた。
「剛、撃てえええっ!」
「うおらあああああっ!」
剛が咆哮した。魁人の質量制御コードを受信した瞬間、剛の拳の周囲の空気が重力歪みで激しく湾曲し、赤いスカジャンの隙間から青い蒸気が噴き出す。闘志が極限まで高まり、痛覚を麻痺させた剛の右拳が、鉄球のごとき破壊力を宿して突き出された。
その「質量が十倍」に増幅された鉄拳が、バルカンの電磁シールドへと直撃した瞬間――。
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