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摩擦係数ゼロの厨房

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重厚な軍靴の音が、クローゼットの扉のすぐ前でピタリと止まった。魁人は青く輝く仮想キーボードに、静かに指を乗せる――。


(落ち着け。まだ物理定数の書き換えコードを走らせるな。視界が遮られたこの狭い空間では、対象の座標ロックが不完全だ。メモリを無駄に消費するだけだ)

 魁人は脳内で、警告音を鳴らし続ける「アタッシュ」のシステムログを冷徹に睨みつけた。

`RAM Usage: 5.0%`

 オリジン・キーが生体接続されたばかりの脳は、未だデータの奔流による微細な拒絶反応に震えている。右目の「グリッチ・アイ」がズキズキと痛み、視界の隅に青いノイズが走る。だが、彼には立ち止まる猶予などなかった。昏睡状態の妹、舞の生体維持コードの残り寿命は二百四十時間。ここでテロリストに捕まれば、すべてが瓦解する。


 クローゼットの木製の隙間から外を覗く。そこに立つのは、身長二メートル近い巨漢――テロリストの重装歩兵「バルカン」だ。その両腕には、鈍い金属光沢を放つ巨大なガトリングガンが握られている。銃身が微かに回転し、死の予感がクローゼットの隙間から滑り込んできた。バルカンが太い指をクローゼットの取っ手にかけた、その刹那。


 魁人の指先が、空間に展開された青いキーボードの上で電光石火の如く舞った。彼はまだ物理定数の書き換えは行わない。登録ユーザー(一般ハッカー)としての基本権限を利用し、スイートルーム内の「ローカルデバイス」へ割り込み命令を送ったのだ。


`run diagnostics_wardrobe.exe --force-eject̀


 システムログが緑色に明滅した瞬間、バルカンの背後にあった高級自動クローゼットが、凄まじいモーター音を立てて暴走した。重厚なガラス扉が跳ね上がり、内部の金属製ハンガーラックが弾丸のような勢いで前方へと射出される。ラックは部屋の中央に置かれた大理石のコーヒーテーブルに激突し、耳を裂くような破壊音を響かせた。


「チッ、伏兵か!」

 バルカンが反射的に身を翻し、破壊音のした方向へガトリングガンの銃口を向けた。激しい回転音と共に、秒間百発に及ぶ鉛弾の嵐が部屋の半分を瞬時に消し去っていく。木片とガラスの破片が猛烈な煙となって部屋に立ち込める。


 その銃撃の轟音と煙に紛れ、魁人はクローゼットの扉を静かに押し開けた。姿勢を極限まで低く保ちながら、吹き飛ばされたスイートルームの非常用サービス出口へと滑り込む。背後では、未だガトリングガンの咆哮が部屋を蹂躙し続けていた。


 冷たい金属製のサービス回廊を、魁人は一心不乱に走った。右目のノイズはまだ収まらない。だが、彼が角を曲がった瞬間、前方の防火扉が内側から凄まじい力で蹴破られた。


「うおらあああっ!」

 飛び出してきたのは、着古した赤いスカジャンを羽織った金髪の少年だった。身長百八十五センチはあろうかという頑強な体躯。拳には黒いバンテージが固く巻かれている。元ストリートファイターの熱血漢、桐生剛だ。剛は突入してきたテロリストの一人の顎に、岩のような拳を叩き込んでいた。打撃の衝撃でテロリストのヘルメットが割れ、壁に激突して崩れ落ちる。


 だが、剛の背後からはさらに三人の武装テロリストが銃口を向けて迫っていた。剛は左腕から血を流している。跳弾を浴びたのだ。

「クソが、キリがねえな!」

 剛が毒づいた瞬間、魁人と目が合った。学ラン姿の魁人を見て、剛は目を見開いた。

「おい、なんでガキがこんなところにいやがる! 死にてえのか、走れ!」

 剛は魁人の襟首を乱暴に掴むと、力任せに前方へと引っ張った。二人は回廊の突き当たりにある、重厚な自動スライド扉へと飛び込んだ。そこは、ペントハウスの最先端調理ロボットが並ぶ「ペントハウス・厨房エリア」だった。


 剛が扉を閉め、手動の緊急ロックレバーを強引に引き下ろした。金属同士が噛み合う鈍い音が響く。ステンレス製の調理台が整然と並ぶ冷たい空間に、二人の荒い息遣いだけが響いた。


「おい、お前……」

 剛が魁人を問い詰めようとした瞬間、防爆仕様のはずの自動扉に、赤い熱線が走り、爆縮タイプの breaches電荷が炸裂した。


 ドォン!


 凄まじい衝撃波と共に扉が吹き飛び、鋭利な破片が厨房内に飛散する。立ち込める白煙の向こうから、サブマシンの銃口を構えたテロリストたちが次々と侵入してくるのが見えた。


「チッ、盾になれ!」

 剛は叫ぶと、目の前にあった頑強な金属製の調理テーブルを力任せにひっくり返し、魁人の前に叩きつけた。大理石の床に金属テーブルが激突し、重厚な防護壁が形成される。


 直後、金属テーブルの表面に、激しい銃弾の雨が突き刺さった。火花が散り、テーブルの肉厚なステンレスが歪み、弾け飛ぶ。剛はテーブルを両腕で支えながら、歯を食いしばって魁人に怒鳴り散らした。

「このテーブルも十秒と持たねえぞ! おい、そのお利口そうな頭で何とかしやがれ!」


 魁人は剛の背後で、静かに立ち上がった。彼の指先には、いつの間にか極薄のセンサーが内蔵された黒いグローブ――「タクティカル・キーボード・グローブ」が嵌められていた。魁人の右目が、青いバイナリの光を放ちながら、突入してくるテロリストたちの足元をロックオンする。


(やるしかない。オリジン・キーの出力を最大化しろ)

 魁人が指先を合わせると、彼の目の前に、淡い青色の幾何学的なホログラムキーボードが展開された。周囲の空間のノイズを吸い込むように、キーボードは冷たい光を放っている。


 魁人はまず、突入してきたテロリストたちの銃器のトリガーを直接ハックしようと試みた。トリガーの物理的な摩擦係数を無限大に設定し、引き金を物理的にロックする戦術だ。


`override target[terrorist_weapon_01..04].trigger.friction = INF;`


 だが、彼の網膜ディスプレイに赤いエラーログが高速でスクロールした。

`Error: Lock-on failed. Target moving too fast. Latency: 45ms.`


(右目のフォーカスが甘い……! 接続時のショックで解像度が落ちている。個別の小さな動体をミリ秒単位でロックオンするのは不可能だ)

 魁人は即座にコードを消去(デリート)した。テーブルの金属が削れる嫌な音が響き、剛の腕が銃撃の衝撃で微かに震えている。限界は近い。


(ならば、個別オブジェクトのハックは諦める。このエリアに存在するすべての物質が共有する『環境パラメータ』を書き換える!)

 魁人の視線が、テロリストたちの足元にある、美しく磨き上げられたイタリア製の大理石の床へと注がれた。床のオブジェクトIDが、魁人の左目の網膜に緑色の文字列として浮かび上がる。

`Object_ID: [Floor_Marble_Zone_03]`


 魁人の両手が、残像を残しながら空中を舞った。キーを叩くミリ秒単位の指の動きが、青い光の軌跡を厨房の暗がりに描き出す。彼の脳内メモリが、物理法則を上書きするための演算を開始し、急激に熱を帯びていく。


`using Physical_Constant_Override_Law;`

`select area [Floor_Marble_Zone_03];`

`override floor.friction_coefficient = 0.000;`


 脳内RAMの使用率が跳ね上がる。

`RAM Usage: 5.0% -> 20.0%`

 魁人の口内に、焼け付くような鉄の味が広がった。脳の演算領域を物理的に侵食された代償。味覚の一部が、無機質な砂の味へと変貌していく感覚。だが、魁人はその不快感を冷徹に無視し、仮想のエンターキーを強く叩きつけた。


 その瞬間、床の大理石の表面を、淡い青い光の波紋が静かに駆け抜けた。鏡面のように磨かれた床が、一瞬にして超現実的な輝きを帯びる。


「摩擦係数=0.0」のコマンドが実行された瞬間、突入したテロリストたちが摩擦を失い、滑稽なほどに滑りながら大理石の床を滑走し始める。

HẾT CHƯƠNG

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