始まりの鍵と設計者
引き金にかけられたテロリストの指が、ゆっくりと絞り込まれていく。コンマ数秒後には、魁人の頭蓋は高速で射出された鉛弾によって粉砕されるはずだった。
だがその瞬間、魁人の右目――「グリッチ・アイ」が捉える視界の中で、世界の『当たり前』が不気味に歪んだ。
突如として、ペントハウスの防爆ガラスの破片や、宙を舞っていたホログラム照明「ルクス」の残骸が、まるでスローモーションのようにその軌道を狂わせた。テロリストの首領である榊龍牙が、胸元の重力歪曲デバイス「グラビティ・アジャスター」を乱暴に操作したのだ。局所的な重力の激変。その余波による目眩を誘うような空間の歪みが、魁人の額を狙っていた銃口をわずかに右へと逸らした。
直後、鼓膜を震わせる爆音と共に自動小銃が火を噴いた。
放たれた弾丸は魁人の耳をかすめ、背後の大理石の柱を激しく削り取った。凄まじい衝撃波と石粉が魁人の顔を打つ。魁人は反射的に、超高密度スキャンが弾き出した「死角の座標」へと身体を投げ出した。大理石の破片が降り注ぐ中、床を滑るようにして柱の裏側、さらにその奥に広がるVIP客室エリアの暗い回廊へと滑り込む。
背後では、逃げ惑う富裕層たちの悲鳴と、テロリストたちの罵声が幾重にも重なり合っていた。その混沌とした人混みの中に、知的な眼鏡をかけたグレーのパンツスーツ姿の女性――メガコーポの役員である橘美沙の姿が一瞬だけ見えた。彼女はテロリストに囲まれながらも、冷徹な双眸で、柱の影から逃れていく魁人の右目の「青い発光」を凝視していた。その視線に、ただの傍観者ではない強い意志が宿っているのを魁人は直感したが、今は立ち止まる余裕など微塵もなかった。
(舞の生体維持コードの残り寿命は、あと二百四十時間。ここで捕まるわけにはいかない……!)
魁人は心臓を激しく脈打たせながら、薄暗い回廊を走った。スマホが焼き切れた今、自分は世界のシステムに干渉する手段を一切持たない、ただの「レベル1(ゲスト・ユーザー)」だ。物理法則の気まぐれに押し潰されるだけの、無力な存在でしかない。
足音が近づいてくる。一人ではない。テロリストたちが客室のドアを次々と蹴り開け、生存者の捜索を開始したのだ。このままでは確実に見つかる。
「おい、こっちだ。バグの小僧」
突然、暗闇から伸びてきた掠れた手が、魁人の学ランの胸元を強く掴んだ。驚愕して息を呑む魁人の身体が、半開きになっていた客室のスイートルームの中へと強引に引きずり込まれる。大理石の重厚な扉が静かに閉められ、外の喧騒が遮断された。
魁人を引きずり込んだのは、ヨレヨレの茶色いトレンチコートを着た老人だった。白髪を後ろで緩く束ね、口元には火のついていない古いタバコを咥えている。その鋭い眼光が、魁人の青く発光する右目を捉えた瞬間、老人の顔に深い驚愕と、諦念に似た笑みが浮かんだ。
「……その右目、間違いない。十七年前の『大崩壊』の瞬間に発生したグリッチコードの遺伝。お前、海藤晴人の息子だな?」
「……! なぜ、親父の名前を?」
魁人が問い詰めるより早く、老人は「蔵原蓮」と名乗った。かつてこの世界の物理法則を定義するシステムを設計した、伝説のプログラマー。
「説明している時間はない。猟犬どもがすぐそこまで来ている」
蔵原は鋭く言うと、客室の壁面に設置されたセキュリティコンソールへと駆け寄った。トレンチコートのポケットから旧式のアクセスキーを取り出し、コンソールのスロットに直接差し込む。手動で防爆扉を強制ロックし、テロリストの侵入を防ごうとしたのだ。
しかし、画面には無慈悲な赤文字が明滅した。
`Enforced Lockdown: Override Blocked. Access Denied (Required Level 7).`
「ちっ、ギルドの最高監査AI『ゼニス・ガーディアン』め。物理レイヤーのロックまで完全に暗号化を強化していやがる。手動での開錠も、防護隔壁の閉鎖も受け付けんか……!」
蔵原は吐き捨てるようにキーを引き抜いた。設計者である彼の手の込んだバイパス技術をもってしても、現在のギルドが張り巡らせた「Level 7」の強固な物理プロテクトを、外部から手動で書き換えることは不可能だった。これが、彼が直面した最初の「失敗」だった。
廊下からは、重厚な軍靴が絨毯を踏みしめる音が響いてくる。すぐ隣の客室のドアが、暴力的に蹴り破られる音が聞こえた。探索の手は、確実にこの部屋へと伸びている。
「もはや、俺の老いた肉体ではこのビルからは脱出できん」
蔵原は静かにタバコを床に落とし、靴底で踏み消した。そして、トレンチコートの内ポケットから、重厚なマットブラックのUSB型デバイスを取り出した。表面には、呼吸するように明滅する青い回路パターンが走っている。それこそが、伝説の特権ガジェット――「オリジン・キー」だった。
「これを持っていけ、魁人。これは世界の根幹コードに直接アクセスし、物理定数を一時的にオーバーライドできる唯一のデバッグデバイスだ。俺がギルドの奴らに内緒で、このビルの配電盤の裏に隠し続けていた、最後の『保険』だ。お前の親父、晴人と俺が命を削って作り上げた遺産でもある」
「親父と、あなたが……?」
「そうだ。だが、忘れるな」
蔵原は魁人の両肩を掴み、その濁りのない瞳をまっすぐに見つめた。その表情には、かつて歪んだ現実システムを作り出してしまったプログラマーとしての、深い悔恨と、魁人に未来を託す強い覚悟が宿っていた。
「コードは人を支配するためではなく、守るために書け。それが、お前の親父が最期まで貫こうとした意志だ」
廊下で、この部屋のドアノブがガチャガチャと音を立てた。直後、ドアに突入用の爆薬がセットされる金属音が響く。猶予は、もう一秒もない。
蔵原は魁人の背中を押し、部屋の隅にある重厚なクローゼットの中へと彼を押し込んだ。そして、自身の携帯端末から、魁人の首元にある生体端子に向けて、光通信によるデータ転送を開始した。蔵原が独自に構築した、ギルドの監視をバイパスするための「特権バックドア」の実行ファイルだ。
「おい! あなたはどうするんだ!」
クローゼットの隙間から魁人が叫ぶ。蔵原はただ、不敵な笑みを浮かべた。
「老い先短い設計者の、最後のデバッグ作業さ」
次の瞬間、スイートルームの扉が爆風と共に吹き飛んだ。立ち込める硝煙の中、自動小銃を構えたテロリストたちが突入してくる。蔵原は両手を上げ、自らクローゼットの前に立ち塞がるようにして、彼らの前に躍り出た。
「動くな! ……おい、この老いぼれは誰だ?」
「設計者の蔵原だ。首領が探していた重要素体だぞ。確保しろ!」
テロリストたちが蔵原を取り押さえ、乱暴に引きずり出していく。蔵原は拘束されながらも、クローゼットの隙間に向けて、静かに目を細めた。それが、彼が魁人に託した「囮」としての戦術だった。彼の自己犠牲によって、魁人がオリジン・キーを起動するための、極めて短い「時間」が確保されたのだ。
部屋が静まり返った。魁人は真っ暗なクローゼットの中で、激しく震える手で、渡された「オリジン・キー」を握りしめた。
妹の命は、あと二百四十時間。
ここで怯えれば、すべてが終わる。
魁人は意を決し、オリジン・キーの冷たい金属端子を、自身の首の後ろにある生体接続ポートへと直接、深く突き刺した。
――カチリ、と肉体と機械が論理的に結合する音が脳内で響いた。
その瞬間、魁人の意識は爆発的なバイナリデータの奔流によって侵食された。
「が、ああっ……!」
声にならない悲鳴が喉を駆け抜ける。脳髄に直接、数億ボルトの電撃が流し込まれたかのような、凄まじい熱量と激痛。視界が真っ白に染まり、無数のシステムログと、世界の物理法則を構成する「質量」「重力」「摩擦」の基礎方程式が、暴力的な速度で脳内メモリへとマッピングされていく。
脳細胞が過熱し、耳奥で金属的なジャミングノイズが鳴り響く。肉体というハードウェアが、オリジン・キーという規格外のシステムを処理しきれずに、激しい悲鳴を上げているのだ。魁人はクローゼットの壁に頭を打ち付け、歯を食いしばってその電子的負荷(メモリリーク)に耐え続けた。右目の「グリッチ・アイ」が、かつてないほどに青く、狂おしく発光する。
やがて、ノイズの嵐の向こうから、冷徹なシステム音声が脳内に直接響き渡った。
`――Origin Key Connection: Established.`
`――Host Biological Sync Rate: 100%.`
`――Allocating Brain RAM...`
魁人がゆっくりと目を開けたとき、彼の視界は完全に再構築されていた。漆黒のクローゼットの闇は消え去り、目の前には、世界のソースコードを直接書き換えるための、淡い青色に輝く「仮想キーボード」が、美しい幾何学的なホログラムとして空間に展開していた。
そして、網膜の右上に、彼自身の脳の限界を示す、冷酷なインジケーターが初めて浮かび上がった。
`RAM Usage: 5.0%`
世界のルールを上書きする、神の権能。その目覚めと同時に、クローゼットの外から、大気そのものを震わせるような、重厚で威圧的な金属の足音が近づいてきた。テロリストの重装歩兵「バルカン」が、その巨大なガトリングガンを引きずりながら、この部屋へと迫っていた。
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